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「朝鮮使 筆談写」ー浜松での筆談・唱和

中日新聞記事を紹介した。金銭目的はないので、「中日新聞」さん、どうかご許可をお願いします 「朝鮮使 筆談写」紹介記事が、それである。 望むらくは、この資料の全文が読める場所の紹介もお願いしたい。 **************** 江戸時代に朝鮮王から幕府に派遣されていた朝鮮通信使を浜松藩士が接待する様子を記録した文書が、茨城県の旧家で見つかった。使節団との筆談でのやりとりを藩士が残し、出身地に持ち帰っていた。解読した茨城県筑西市の県立高校教諭で郷土史家の桐原光明さん(63)は「当時の外交の一端をのぞかせる貴重な史料だ」と話す。(水戸支局・原田拓哉)  文書は、現在の筑西市にあった下館藩出身の浜松藩士尾見与兵衛による「朝鮮使 筆談写」。徳川家宣が第六代将軍に就いた1711(正徳元)年に派遣された朝鮮通信使と、浜松藩との交流の一部を記した。与兵衛は医学などの知識があり、浜松藩に迎えられ、使節団の供応役を任されたとみられる。  文書は横17センチ、縦24センチの紙5枚。与兵衛は「饗応のため、駅舎(宿)に至り、この筆談を写す」と書き出している。使節団の書記とのやりとりが始まり、書記から「この家の主人か」と問われ「家士にあらず、浜松太守の任官なり」と答える。駅舎の場所について「東海道遠州浜松」「江戸まで70余里」とも説明している。  浜松産のミカンも登場する。書記がミカンを食べて「瞬(またた)きて、此(こ)の名は何なりと」と質問。与兵衛が「日本蜜柑(みかん)なり」と返答すると「朝鮮も亦(また)蜜柑なり」。  贈り物の交換になり、与兵衛は銀製の石筆をプレゼントし、書記からは扇子が手渡される。お互いに好きな詩を紹介する場面も出てくる。  最後に与兵衛は「方殊(外国)の言は異なるも、詩情は是同じ」と残し、誠心外交に尽力したことがうかがえる。  文書を所蔵していた与兵衛の子孫で、筑西市村田の尾見又一さん(80)は「今からちょうど300年前の出来事。尾見家のルーツを探る手掛かりの一つで、宝物として残していきたい」と話した。 浜松市博物館の久野正博学芸員「筆談やりとり貴重」  言葉の違いを埋めるため、朝鮮通信使と筆談で意思疎通した記録は全国的には結構ある。浜松市史には1711年に朝鮮通信使が浜松を訪れた記録はあるが、筆談のやりとりや浜松藩の記録は今までの史料に無く

静岡県内の扁額一覧

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【静岡県内の扁額一覧】 No. 寺院名(所在地) 揮毫文字 筆者 1 清見寺(静岡市清水区興津清見寺町) 興国 チョヒョン(翠屏) 2 同上 東海名區 玄徳潤(錦谷) 3 同上 瓊瑶世界 朴安期(螺山) 4 同上 逍遥 成大中(龍淵) 5 同上 潜龍室 金啓升(真狂) 6 同上 潮音閣 玄徳潤(錦谷) 7 同上 桃源 趙泰億(平泉) 8 善原寺(静岡市清水区吉原) 瑠璃界 洪聖源(景斎) 9 真珠院(静岡市清水区梅ヶ谷) 鳳凰山 李爾芳(花菴) 10 牛欄寺(静岡市清水区梅ヶ谷) 牛欄寺 李三錫(雪月堂) 11 海岸寺(静岡市清水区興津東町) 海岸菴 金天秀(紫峰) 12 萬象寺(静岡市清水区駒越西) 萬象寺 李三錫(雪月堂) 13 常円寺(静岡市清水区由比阿僧) 法城山 玄文亀(東巖) 14 龍潭寺(浜松市北区引佐町井伊谷) 萬松山 金義信(雪峯) 15 同上 龍潭寺 金義信(雪峯) ここでいう「扁額」とは、「門戸や室内に掛ける横に長い額で、木の板に文字が書かれているか、彫られているもの」をいいます。 この他、記録に残っている扁額が2つあります。(所在不明または消失) 【記録にのみ残る静岡県内の扁額一覧】 No. 寺院名(所在地) 揮毫文字 筆者 1 清見寺(静岡市清水区興津清見寺町) 諸佛宅 朴安期(螺山) 2 真珠院(静岡市清水区梅ヶ谷) 眞珠院 李爾芳(花菴) 出典、資料:「図説朝鮮通信使の旅」(辛基秀・仲尾宏編著)、北村欽哉氏の調査資料 お問い合わせ

朝鮮人来朝一件 宝暦14年(1764)

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朝鮮人来朝一件 宝暦14年(1764) 本館蔵(熊田早苗氏寄贈) 宝暦14年に来日した第11回の朝鮮通信使の一行が、御座船で淀川を大坂から淀へ向かった際、淀川左岸の野田村(現都島区)の人々が船の綱引き人足として動員された。この資料は野田村の庄屋に伝来したもので、通信使を迎えるにあたり役人が下見に来たり、人々が綱引き人足として携わった様子を具体的に記録している。また御座船の絵も描かれているなど、動員された側からみた通信使資料として大変貴重である。 宝暦14年(1764) 本館蔵(熊田早苗氏寄贈) 宝暦14年に来日した第11回の朝鮮通信使の一行が、御座船で淀川を大坂から淀へ向かった際、淀川左岸の野田村(現都島区)の人々が船の綱引き人足として動員された。この資料は野田村の庄屋に伝来したもので、通信使を迎えるにあたり役人が下見に来たり、人々が綱引き人足として携わった様子を具体的に記録している。また御座船の絵も描かれているなど、動員された側からみた通信使資料として大変貴重である。

京都市 総合企画局国際化推進室が紹介する「唐人雁木(とうじんがんぎ)跡」(伏見区淀本町)

朝鮮通信使ゆかりの地に説明立札を設置しました  2008年10月,京都市内のゆかりの地に,それぞれの地の朝鮮通信使との関わりを4箇国語(日本語,韓国・朝鮮語,英語,中国語)で説明する立札を設置しました。 立て札設置場所地図立て札設置場所地図(PDF形式, 198.05KB)  (1)大徳寺(北区紫野大徳寺町)  大徳寺は,文禄・慶長の役の前に豊臣秀吉が誘致した朝鮮からの使節団を含めると,合計4度,朝鮮から訪れた使節団に宿を提供しました。国交回復後は,戦で朝鮮から連行され京都近辺に住まうようになった被虜人が宿館に訪れ,帰国を促す通信使の随員達から家郷の消息を聞いて涙したという逸話も残っています。 大徳寺立札   (2)本法寺(上京区小川通寺ノ内上る本法寺前町)  文禄・慶長の役の終息後,松雲大師(ソウウンデサ)惟政(イジョン)という高僧の一行が,徳川家康新政権の状況調査のため朝鮮から派遣され,ここに宿泊しました。家康との会見を待つ間,京都五山の著名な僧侶たちが訪れ,詩文の交流をしたり,仏教や儒教の知識について筆談問答を重ねました。 本法寺立札   (3)相国寺慈照院(上京区今出川通烏丸東入る相国寺門前町)  朝鮮との外交のため対馬におかれた役所には,京都五山から僧侶が一名ずつ二年交代で派遣される仕組みとなっており,相国寺慈照院からも通算5人の僧侶が派遣されました。そのうちの一人でもあった9世住職別宗(べっしゅう)祖縁(そえん)が使節団の主立った人びとと取り交わした詩文や絵画資料などの逸品が,当院には数多く残されています。 相国寺立札   (4)本能寺(中京区寺町通御池下る下本能寺前町)  享保4(1719)年,八代徳川吉宗将軍の即位を祝うため,江戸時代に入って9度目の使節団が入洛した際,本寺に一夜滞在し,夜に将軍の命で盛大な宴会が催されました。使節団一行は本能寺のことを「壮麗なことは比すべきものがない」と述べています。 本能寺立札  (5)本圀寺跡(下京区柿本町)  寛永13(1636)年以来「朝鮮通信使」の定宿とされ,7回にわたり,一行約400名の宿館として用いられました。通信使の随員の記録によると,当時の本圀寺には相輪をもつ五層の楼門や石や木竹を配した趣のある庭があったといいます。なお,本圀寺は昭和46年(1971)に山科区へ移転しました。 本圀寺跡

「幽蘭台年録」(朝鮮人饗応一件 下)延享5年(1748)5月2日条 大和郡山藩主柳澤信鴻

大和郡山藩主柳澤信鴻(のぶとき、伊信〈これのぶ〉、享保9年<1724>~寛政4年は朝鮮通信使を郡山藩京屋敷近くの本圀寺(ほんこくじ)で接待役を仰せつけられる 「幽蘭台年録」(朝鮮人饗応一件 下)延享5年(1748)5月2日条 「幽蘭台年録」とは、柳澤信鴻の公的記録(全157冊)です。これは、祖父柳澤吉保の「楽只堂年録」、父吉里の「福寿堂年録」に次ぐ量になります。延享2年(1745)10月から安永2年(1773)まで、つまり信鴻の家督継承から隠居に至るまでの時期を収めます。信鴻の事績の中で通信使の接待は特に大事な行事と認識されていたようで、特別に「朝鮮人饗応一件」と書かれたものが上下2巻にまとめられています。延享4年に信鴻が通信使の接待を命じられた場面から始まり、京都本圀寺を訪れた朝鮮通信使に信鴻の家老平岡里普が歓迎の言葉を述べた場面などが書かれている。 「松平美濃守日誌」延享5年(1748)5月朔・2日条 「松平美濃守日誌」は、柳澤信鴻自筆の日記です。収録期間は、元文3年(1738)より明和4年(1767)までで、延享2年(1745)に家督を継承する以前、いわゆる若殿時代から安永2年(1773)に隠居する数年前までの時期を収めます。信鴻が延享5年5月2日に通信使を接待したスケジュールだけでなく、本圀寺で接待する前日に通信使への礼儀作法(「揖礼」(ゆうれい)を練習している様子も記されています。 これによって、本圀寺で接待役の式次第を知る。

淀渡辺家所蔵朝鮮通信使関係文書

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淀渡辺家所蔵朝鮮通信使関係文書 京都市歴史資料館 編 淀藩から命じられて接待にあたった藩士渡辺善右衛門が,その行列の様子を記録し,御子孫の 渡辺辰江氏所蔵 宅に代々伝えられてきた。その一つが朝鮮通信使行列図。                       朝鮮通信使行列図 1巻(淀渡辺家文書) 「通信使淀城下着到図」延享5年(1748)(渡辺辰江氏所蔵、京都市歴史資料館寄託) 延享5年(1748)、大坂から船で淀に到着した通信使の行列が淀城へ向かう様子を描いています。川御座船から絵図中央の唐人雁木(とうじんがんぎ 朝鮮通信使が上陸する桟橋)に接岸し、城下をまわって淀城に入りました。筆者は、淀藩士渡辺善右衛門守業(元禄14年<1701>~宝暦12年<1762>)です。渡辺家の当主は代々善右衛門を称し、淀藩主稲葉家の家臣でした。善右衛門は大変筆まめな人物で、多数の随筆を残しました。延享5年の通信使来航に際しては、通信使饗応役を勤め、その見聞記は詳細を極めます。 「朝鮮人来聘記」(渡辺辰江氏所蔵、京都市歴史資料館寄託) 淀藩士渡辺善右衛門が、延享5年の朝鮮通信使の饗応役にあたった際の応接準備の過程を記したものです。淀藩が準備に勤しんでいる様子が描写されていますが、郡山藩など饗応に関わった他藩の動向も載せています。郡山藩は京都での接待のために「ぶた百疋」を購入しようと長崎へ向かいました。淀藩も豚10匹が必要であると書かれ、長崎で入手を計ったと考えられます。このように通信使に饗された料理の中には豚が含まれ、材料は主に長崎から調達されました。 「朝鮮人来聘附図」(渡辺辰江氏所蔵、京都大学文学研究科図書館所蔵謄写本) 淀藩士渡辺善右衛門が描いた、朝鮮通信使の行列図の写です。パネル展示の箇所は、朝鮮国王から大御所徳川吉宗・将軍徳川家重にあてた国書を携えた使者の行列、通信使の正使(洪啓禧)・副使(南泰耆)の行列です 詳細情報 タイトル 淀渡辺家所蔵朝鮮通信使関係文書 著者 京都市歴史資料館 編 著者標目 京都市歴史資料館 シリーズ名 叢書京都の史料 ; 11 出版地(国名コード) JP 出版地 京都 出版社 京都市歴史資料館 出版年月日等 2010.2 大きさ、容量等 3

神奈川県寒川町  木内哲雄家文書ーー朝鮮通信使関係

整理番号 文書番号 史料名 年号 月 日 西暦 差出人 受取人 形態・数量 リール番号 コマ番号 冊  3 3 朝鮮人来聘諸色入用 宝永 8 4 1711 横1 61- 1 0004~0017 1 4 4 朝鮮人来朝ニ付御用廻状控 享保 4 3 1719 横1 61- 1 0018~0023 1 6 6 来辰年朝鮮人来朝ニ付被仰渡候御書付写 延享 4 6 1747 竪1 61- 1 0025~0031  1 7 7 朝鮮人来朝帰国之間諸色控帳 延享 5 1 1748 横1 61- 1 0032~0037 1 8 8 朝鮮人来朝ニ付馬入川舟橋入用割付帳 延享 5 2 2 1748 横1 61- 1 0038~0046 1 9 9 参向朝鮮人御伝馬渡金割附帳 延享 5 4 19 1748 横1 61- 1 0047~0066 1  10 10 藤沢宿矢来詰之内諸色控帳 延享 5 5 17 1748 横1 61- 1 0067~0072 1  11 11 朝鮮人来朝人馬諸色入用控帳 延享 5 5 22 1748 横1 61- 1 0073~0077 1  12 12 朝鮮人帰国人馬渡金割付帳 延享 5 6 7 1748 横1 61- 1 0078~0090 1  13 13 帰国矢来詰諸色入用控帳 延享 5 6 12 1748 名主次郎太夫 横1 61- 1 0091~0103 1  16 16 辰年朝鮮人来朝之節人馬諸入用帳 寛延 2 2 10 1749 横1 61- 1 0122~0126 1  18 18 朝鮮人来朝馬入川船橋入用帳 宝暦13 9 13 1763 横1 61- 1 0133~0141 1  19 19 朝鮮人来朝ニ付小和田土橋入用割合帳 宝暦13 9 28 1763 横1 61- 1 0142~0147 1  寒川文書館 01-01 木内哲夫家文書 downroad (57kb:エクセル) 201点 1集 近世文書は、朝鮮通信使・琉球来聘使の人馬動員、村役人任命状、用水争論などのものがある。明治以降では、砂利採取、畜産組合など田端の産業の特色を示すものが見受けられる。

藤沢宿の人馬の調達

1年先の人馬の調達計画を指示。>御泊ケ所江郡中人馬并隣宿より百疋百人を調達。 >『延享三丙寅年十一月より 朝鮮人一件御用留帳』(部分) 二番 一 来辰年朝鮮人来朝ニ付、先規人馬賄之儀御尋ニ御座候 一 正徳元卯年来朝之節勤方之儀者、御泊ケ所江郡中人馬并隣宿より百疋百人宛御用相勤申候、遠方村方者前後三、四日も相懸り、大分之人馬・宿場矢来ニ仕難義仕候、隣宿ニ而ハ百疋百人御泊り所江差出シ、助郷計ニ而外御用相勤申候所、御通行之間者外御用御飛脚等之方手悪敷御座候事 一 享保四亥年来朝之節者、町人請負ニ而通シ人馬ニ罷成り候、此義如何様之訳ニ而通シ人馬ニ被仰付候哉不奉存候、勤方之儀者朝鮮人一件請負方ニ而引請、宿人馬之儀者平生之通り外御用相勤、勿論百疋百人差出シ候儀無御座ニ勝手宜敷御座候、然所請負余(途)中ニ而不埒ニ罷成り御用差支候ニ付、俄ニ宿々へ被仰付、請負方不足之人馬急ニ継立候故、殊外混雑仕候事 右之通り御座候へ者、今度御用之儀通シ人馬ニ罷成り候へ者、遠方村方矢来詰□難義無御座、隣宿より御泊り所江相詰候義も無御座、方(旁)以宿・郡中共々勝手宜敷御座候、然共右ニ申上候通り請負方ニ差支御座候而ハ難義ニ罷成り候、無差支御用相済申候ハヽ、宿・郡中共御救ニ罷成り申候、以上 卯正月十七日 右宿々問屋・年寄 (『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 藤沢市平野雅道氏所蔵文書) <資料> 『延享三丙寅年十一月より 朝鮮人一件御用留帳』 乍恐書附ヲ以申上候 一 人馬溜メ矢来、先年絵図当時場所見立書付可差出事 此段、別段村絵図書付ヲ以申上候 一 正徳・享保之節人馬出方事 此儀、正徳元卯年ハ朝鮮人戸塚宿泊りニ御座候ニ付、人馬出方之義聢と不奉存候 享保四亥年ハ藤沢宿御泊りニ御座候得共、町人請負人馬ニ而御通り被成候ニ付、人馬員数等不奉存候 一 寄人馬何程宛差出し候哉、賃銭等請取候義有之候哉 此儀、正徳元卯年戸塚宿御泊り所江当宿より人馬百疋百人相詰、中馬御用相勤申候、尤賃銭等請取不奉候 享保四亥年ハ請負通し人馬故、宿人馬之儀自余御用相勤申候 一 寄人馬当日より幾日前ニ場所江揃候哉 此儀、正徳年中戸塚泊り之節、藤沢宿より御泊り御日限より一日前ニ相詰申候、在方詰刻之儀者聢と不奉存候 一 馬飼領(料)何方より渡シ候哉、自分

朝鮮通信使に提供された海産物の値段と便乗値上げの禁止令

次の資料は、藤沢宿で調達された海産物の値段である。 <資料> 『宝暦十三年未九月 藤沢宿上肴壱ツ留直段請書写』 一 鯛八枚 目下壱尺五寸 此銀百弐拾弐匁四分 但壱枚ニ付拾五匁三分 一 鰤六本 目下壱尺 此銀三拾弐匁四分 但壱本ニ付五匁四分 一 小鯛弐拾五枚 目下五寸 此銀三拾五匁 但壱枚ニ付壱匁四分 一 鮑 三拾五壷 此銀八拾七匁五分 但壱壷ニ付弐匁五分 一 平目三枚 目下壱尺弐寸 此銀十六匁五分 但壱枚ニ付五匁五分 一 伊勢海老 四百七十五 此銀五百七十匁 但壱ツニ付壱匁弐分 一 車海老百 此銀三拾五匁 但壱ツニ付三分五厘 一 ■(魚偏に及)弐本 下壱尺弐寸 此銀拾匁 但壱本ニ付五匁 一 鰈弐百六拾 目下六寸 此銀五拾六匁五分(弐百六拾匁) 但壱ツニ付壱匁 一 かさこ五拾壱本 此銀九拾六匁九分 但壱ツニ付壱匁九分 一 わらさ四本 目下壱尺四寸 此銀十八匁 但壱本ニ付四匁五分 一 蛸拾九壷 此銀六拾六匁五分 但壱壷ニ付三匁五分 一 鰡七本 目下壱尺四寸 此銀弐拾八匁七分 但壱本ニ付四匁壱分 一 鰍拾五本 目下壱尺三寸 此銀三拾匁 但壱本ニ付弐匁 一 きす百 此銀百弐匁朱 但壱ツニ付壱匁弐分 一 みるかい五拾 此銀四拾五匁 但壱ツニ付九分 一 鰹二拾弐本 目下壱尺弐寸 此銀七拾七匁 但壱本ニ付三匁五分 一 氷魚五拾 此銀百六拾匁 但壱壷ニ付三匁弐分 小以銀壱貫八百匁九分 是ハ右拾八品相州三浦郡浦郷組・三崎組・秋谷組・太田和組御料・私領参拾五ケ村より先格ヲ以差出来候分、直段之義ハ請負人書出候、壱ツ当り直段ヲ以代銀ニ而取立候積り如此候、右当未年朝鮮人来朝ニ付、相州藤沢宿御賄所江同国高座郡・三浦郡御料・私領村々より村役ニ差出候品々藤沢宿御賄所請負人壱ツ当り直段ヲ以被仰触次第代銀差出可申旨被仰渡承知仕奉畏候、右為御請村々惣代之者、連印形差上申候、以上 宝暦十三年未九月 三浦郡秋谷組 伊奈半左衛門御代官所 秋谷村 同御代官所 小坪村 松平三七郎・水野藤次郎知行所 下山口村 稲垣数馬知行所 芦名村 右四ケ村惣代 秋谷村 嘉左衛門 小坪村 新左衛門 (横須賀市秋谷若命又男氏所蔵文書(神奈川県立公文書館所蔵 県史写真製本資料)) 朝鮮通信使来訪の折の「
藤沢宿における前例は、下記の通りであった。 三浦郡の「 小坪 下平作 上平作 池上 金谷 不入斗 小矢部 森崎 大矢部 衣笠 岩戸 長沢 津久井 上宮田」の名主14名に対して、6月10日付けの「廻状」を送付し、同年6月20日までの回答を求めた。 <資料>『延享年中御用日記』 御廻状写 来辰年朝鮮人来朝ニ付、藤沢宿御賄所江村々より指出候品々左之通 一 人足 一 猪鹿 一 魚串、豆腐串 一 竹箒 一 杉はし 一 菖葉 一 青物野菜類 一 魚鳥類品々 一 貝類品々 右者享保年中朝鮮人来朝之節、藤沢宿御賄所江村々より差出候所、先格を以来辰年来朝之節も右同様被仰付候間、先格何品ニよらす御賄所へ指出候村々ハ、何品何ほと先格差出候と申儀并村高・御地頭付共書付致、来ル廿日迄藤沢宿自分共旅宿へ無間違持参可被致候、尤其節右ニ付御用有之間、村役人印形持参、名主・与頭之内可被罷出候 一 右品々先格差出有無村中とくと吟味之上、指出候例無之村々ハ廻状村名上ニ其断書致、村下ニ印形可被致候、若申偽隠置、後日於相知ハ其村々可為越度候間、可得其意候 (中略) 卯六月十日 木村雲八手代 吉岡勘九郎印 柴村藤右衛門手代 渡辺幸蔵印 三浦郡 小坪 下平作 上平作 池上 金谷 不入斗 小矢部 森崎 大矢部 衣笠 岩戸 長沢 津久井 上宮田 右村々名主中 (『新横須賀市史 資料編近世1』所収 横須賀市所蔵福本三郎家文書) とあり、6月10日付けの書状には、 一 人足 一 猪鹿 一 魚串、豆腐串 一 竹箒 一 杉はし 一 菖葉 一 青物野菜類 一 魚鳥類品々 一 貝類品々 とは、「 何品何ほと先格差出候と申儀」であった。 <資料> 藤沢宿ニ而右手代衆へ上ル証文写 一 来辰年朝鮮人来朝御用ニ付、道中継人馬差出シ申候、各々様御廻状之品々人足ハ不及申、其外何ニ而も藤沢宿御賄所へ指出不申候、右之通少も相違無御座候、為其連判指上申候、以上 延享四年卯六月 三浦郡金谷村 名主 藤右衛門印 柴村藤右衛門様御手代 渡辺幸蔵殿 木村雲八様御手代 吉岡勘九郎殿 (同前福本三郎家文書) その結果、「 道中継人馬」のみの負担であったと回答した名主が二名いたために、再度の尾「廻状」を、 三浦郡金谷村 名主 藤右衛門が「

すべては前例通り享保度朝鮮通信使

すべては前例通りにするという江戸幕府からのお達し 延享三丙寅年九月 来々辰四月頃、朝鮮人来朝之筈候間、諸事 享保度之通 、被相心得伺等可被差出候 したがって、 一 朝鮮人来朝に付、道中筋江戸表にて、彼是取繕候儀手重く結構には及間敷候、万事無滞様に申付、掃除等の儀申付候はゝ相済候 一 正徳之時分者、手重く取繕候儀も有之様に相聞候、此段紛不申候様に取計可然候 (『通航一覧 巻45』) 要するに、正徳度は華美に走ったと聞くので、それほど無理をするなと道中にて接待をする各藩に命じた。 『延享三丙寅年十一月より 朝鮮人一件御用留帳』(部分) 乍恐書附ヲ以奉願上候御事 東海道宿々問屋・年寄 一 来辰年朝鮮人来朝ニ付、正徳年中来朝之節書物等可有之、所持仕候宿々差出シ候様被仰渡候ニ付、書留メ置人馬帳面有之候宿々ハ差上ケ申候、 (中略) 延享四年寅(卯)二月七日 東海道・美濃路共 宿々問屋・年寄 御六人 御代官様 (『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 藤沢市平野雅道氏所蔵文書)

韓天寿と成大中の印章2点

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尼崎市所蔵の資料紹介: https://www2.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/siryou/tusinsi/kantenju/kantenju.html かんてんじゅすいしんさいしょちょうろくばつ 韓天寿酔晋斎書帖録跋 拡大 (2800px×548px 267kb 別窓) 数 量 1巻 法 量 28.5×464.4㎝ 形 態 紙本墨書巻子装 年 代 明和元(宝暦14、1764)年 韓天寿(1727?1795)は、酔晋と号する伊勢松坂の篆刻家・文人で、三韓時代の馬韓余璋王の子孫だと称して、姓名を朝鮮式に韓天寿と名のりました。 韓天寿は、明和元(1764)年3月11日に通信使一行が江戸をたって品川の客館に着いた際、篆刻家澤田東江に伴われて客館を訪れました。東江からは製述官南玉(ナムオク)と書記成大中(ソンテジュン)に依頼された印章2顆が贈られ、通信使両名からは韓天寿の書帖の題跋を書いて帰途大坂から送ることが約束されました。韓天寿は翌日も雨の中、藤沢まで通信使を見送り、涙を流して別れを惜しんだということです。 成大中の落款と印章 本資料は後日大坂より届けられた成大中筆「酔晋斎書帖録跋」・李白詩1首・「酔晋」2字、南玉筆「書韓大年酔晋斎書帖録後」・「酔晋斎」3字を1巻にしたもので、そこには 澤田東江が贈った印章 が捺されています。

尼崎市教育委員会所蔵 李聖麟 「寿福 老人図」

李聖麟筆寿老人図数 量 1幅 法 量 135.0×48.6㎝ 形 態 紙本水墨画軸装 年 代 寛延元(1748)年6月 寛延(延享)度の通信使の画員として来日した李聖麟が、寛延元年(1748)日本滞在中に描いた作品で、「寿老人図」の上には、同じく寛延度副使の伴当として同行した金啓升(キムケスン)筆「寿福」二大字の賛が書かれています。 江戸からの帰路に大坂の絵師大岡春卜と交歓し、その画会の席上で聖麟は梅月と福寿図を、春卜は野馬・山水・梅花・蓮鷺・芦雁・長果郎図をそれぞれ描き、互いにその画図を交換して永く家蔵することを誓いあいました。後日春卜一門が宴を催し、慶賀の漢詩や和歌、並びに俳諧が収めた木版本を刊行する際、聖麟の画図を付して『家彪集』と名付けられました。また、宝暦3年(1753)に刊行した『画史会要』にも聖麟の絵を明朝画の名画の作例として掲載し、通信使画員の画技を高く評価していたことがうかがえます。 大岡春卜に関する先行論文の一つ 大岡春卜筆「秋色山水図」について 田中敏雄
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尼崎市教育委員会 https://www2.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/siryou/tusinsi/present_seals/present_seals.html 明和元(1764)年に通信使の書記として来日した成大中に、日本の文人らが彼の印を彫って贈ったものです。成大中は多くの日本の文人らと筆談して最も文名を馳せた人物です。印章の側面には大坂の文人木村蒹葭堂・福原承明(尚修)、岡山の文人中村三実、篆刻家澤田東江の名が刻まれています。当時の両国の友好関係を象徴する資料です。 木村蒹葭堂刻印白文(左)と朱文(右) 木村蒹葭堂(1736?1802)は、明和度の通信使のために20顆の印章を篆刻し、それらは江戸からの帰途、淀の船中で就寝する通信使たちのもとへ届けられました。「昌山成大中士執印」の白文と「允執其中」の朱文が両面に印刻され、そして側款には「浪華木弘恭刻」の文字が刻まれています。 福原承明刻印白文(左)と朱文(右) 福原承明(1735?1768)は、1月22日に木村蒹葭堂らとともに通信使の客館を訪ね、成大中と筆談を交わして大いに感銘を受けたことから、後日、通信使8名の印章を贈りました。白文「成士執印」、朱文「成大中印」とが両面に印刻され、側款には「日本浪華処士福尚修為東華龍淵成君刻」の文字が刻まれています。 澤田東江刻印白文(左)と朱文(右) 書家・篆刻家として有名な澤田東江(1732?1796)の白文「成大中印」と朱文「士執」の印章は、東江が彫った朝鮮国王への将軍返書印章を気に入った製述官南玉(ナムオク)と成大中から製作依頼されたものの一つです。3月11日に品川の客館で両名に贈られ、そこに同席した 韓天寿(かんてんじゅ)が求めた題跋 にこの印章が捺されています。 中村三実刻印影印 岡山の文人中村三実は通信使4名の印章を彫り、5月25日に帰路牛窓に立ち寄った通信使たちを訪ねて贈呈しました。成大中には6顆の印章を贈りましたが、その内の「癸酉司馬丙子登龍」「士執」「成大中印」の3顆が伝わっています。成大中は、篆刻家の中でも三実が最たる者であると賞賛しています。 木村蒹葭堂他所刻成大中印章 拡大 (617px×1701px 115kb 別窓

延享度対馬藩同行者に対する韓国語会話集

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