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下関市所蔵朝鮮通信使行列図

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【朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産登録申請リスト】  申請資料数 111件333点   

【朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産登録申請リスト】  申請資料数 111件333点   日本側 48件209点   韓国側 63件124点         山口県関係 8件25点     うち、下関ゆかりの資料  7件24点            下関に所在する資料 5件10点                         「延享五年朝鮮通信使登城行列図」(下関市立長府博物館所蔵)など 日韓両国の民間団体(日本:NPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会、韓国:財団法人釜山文化財団)で共同申請する申請書の内容と申請リスト

従事官

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朝鮮通信の江戸宿舎は東本願寺

第六巻 開陽之部 東本願寺 新堀端大通りにあり。開山教如上人(一五五八―一六一四)、その先本山の住職たりしを、豊臣家のはからひとして、順如上人[准如 一五七七―一六三〇。本願寺派](教如上人の舎弟なり)を本寺の門跡に定められ、教如上人をばゆゑなく退隠せしめ、裏屋敷に置かれしを(このゆゑ東門跡をば裏方とはいへり)、神祖[徳川家康、一五四二-一六一六]つひに召し出され、開山上人の真影を御寄附ありて、六条室町の末にて新たに御堂屋敷を下し賜る。それより後、東西とわかる(その後、江戸にて末寺建立ありたき由訴へ、すなはち神田にて寺地を拝領す。一宇を建てて京都よりの輪番所となり、江戸中の門徒を勧化す、その地いま昌平橋の外、加賀屋敷と唱ふところなり。明暦の後[一六五五―五八]、今の地に移されたり)。当寺は朝鮮人来聘のみぎりに旅館となる。 立花会 (毎年七月七日興行す。参詣の人に見物を許す) 開山忌 (毎年十一月二十二日より同二十八日までの間 読経説法等あり 俗にこれを御講と称す 一に報恩講ともいふ そのあひだ門徒の貴賎群参せり) ちくま学芸文庫 新訂『江戸名所図会』5 300頁より転載

羽川藤永筆『朝鮮通信使来朝図』江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使

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羽川藤永筆『朝鮮通信使来朝図』。江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使の行列を描く。 延享5年(1748)頃 羽川藤永筆 . 紙本著色、 69.7×91.2、 1幅、  池長孟コレクション 「 儀を正して整然と行進する騎馬人物を含む朝鮮通信使を透視図法を採りいれて描いた風景画。このような様式は1740年代の江戸に誕生し、画中の事物が立体的に見えることから浮絵 (うきえ) と呼ばれた。本図の箱書きにも「浮絵」と見える。本図は将軍の交替の際などに来日した朝鮮通信使のうち、寛延元年(1748)第10回の通信使の行列をもとにして描いていると推定される。要人とその一行が将軍への挨拶を終えて、使館の浅草本願寺へ戻るため常磐橋 (ときわばし) を渡り、本町 (ほんちょう) 二丁目を過ぎていく情景を描いている。  収納箱の貼紙からこの図が、徳川吉宗の第二子、田安宗武の子で、宝暦3年(1753)に9歳で夭折した小次郎(孝慈院)の愛玩の作品であったことがわかる。小次郎の死後、宝暦4年に理性院尼から東叡山寛永寺の子院で、小次郎が葬られた凌雲院の僧正光俊に贈られ、さらに光俊から宝暦11年(1761)に延暦寺までもたらされたらしい。」 (http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/701.html) 本図が朝鮮通信使とは異なるため、山王祭りの唐人行列と見なす意見がある。私も同意見である。