朝鮮通信の江戸宿舎は東本願寺


第六巻 開陽之部
東本願寺

新堀端大通りにあり。開山教如上人(一五五八―一六一四)、その先本山の住職たりしを、豊臣家のはからひとして、順如上人[准如 一五七七―一六三〇。本願寺派](教如上人の舎弟なり)を本寺の門跡に定められ、教如上人をばゆゑなく退隠せしめ、裏屋敷に置かれしを(このゆゑ東門跡をば裏方とはいへり)、神祖[徳川家康、一五四二-一六一六]つひに召し出され、開山上人の真影を御寄附ありて、六条室町の末にて新たに御堂屋敷を下し賜る。それより後、東西とわかる(その後、江戸にて末寺建立ありたき由訴へ、すなはち神田にて寺地を拝領す。一宇を建てて京都よりの輪番所となり、江戸中の門徒を勧化す、その地いま昌平橋の外、加賀屋敷と唱ふところなり。明暦の後[一六五五―五八]、今の地に移されたり)。当寺は朝鮮人来聘のみぎりに旅館となる。
立花会 (毎年七月七日興行す。参詣の人に見物を許す)
開山忌 (毎年十一月二十二日より同二十八日までの間 読経説法等あり 俗にこれを御講と称す 一に報恩講ともいふ そのあひだ門徒の貴賎群参せり)
ちくま学芸文庫 新訂『江戸名所図会』5 300頁より転載


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