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朝鮮通信使が持参した日本美術品(金屏風3点)が韓国国立博物館に現存

 2017年に韓国国立博物館で現存する 金屏風3点は、 ①1764年の第11回使節が受け取った「忠信吉野軍図屏風」と「春日祭図屏風」 ②1711年の第8回使節が受け取った「鎮西八郎(源為朝)図屏風」

朝鮮通信使の構成(一例)

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 朝鮮通信使の構成(一例)

洪世泰は北の白頭山、南の日本に関する記事あり。

 洪世泰の文に『白頭山記』がある。白頭山定界で著名な訳官金慶門から情報を収集して記録した著である。 その白頭山定界に関する見解は後日とするとしても、この洪世泰は朝鮮半島の北にも関心を持ち、そして天和2年度朝鮮通信使の一員として来日し、林春齋や木下順庵、人見鶴山などとの間で筆談唱和を交わしている。 いわば南北のバウンダリーに関心を持ち、その記録を残した。 なお、金慶門は同じく漢学訳官であった父金指南と共に『通文館志』を編纂した。

文化5年12月 遠山金四郎景晋、対馬へ

  岩瀬文庫蔵書 目録データ 和 前へ   次へ 函番号(資料番号) 152-171  旧書名 みそうの記  数量 1  単位 冊  書名 未曽有記    書名ヨミ ミゾウキ  書名の備考 原題簽欠(左肩に剥落痕)。内題なし。自序中の書名「みそうの記」。書名は内容による。  版写 写  書型 大  原装・改装 原装  丁数 77  寸法 26.1/18.8  編著者 遠山景晋(金四郎)  編著者ヨミ トオヤマカゲミチ  成立 表紙右に墨書「寛政己未(11年)」。無記名の自序あり。元奥書「遠山景晋」。  成立推定 近世後期写  刷り書写の態様 転写本。  内容 寛政11年正月、東蝦夷地(現・北海道東部)が幕府の直轄地となり、そのため現地に派遣された「信州使君」(書院番頭松平信濃守忠明)の属僚として江戸より蝦夷地を往復した旅の紀行。時に著者遠山金四郎景晋は48歳、西丸御小姓組。漢字かな交じり。経由地や出来事、風景、見聞を淡々と記した旅日記風の記述。東北の名所歌枕では古歌を列挙する。主な旅程、3月20日出立、越谷泊。21日古河泊。22日宇都宮泊。23日太田原泊。24日白川泊。25日「白川過ては百銭を百文とす」。須賀川泊。26日八町目泊。27日桑折泊。28日大河原泊。29日国分町泊。晦日古川泊。4月朔日金成泊。2日水沢泊。3日「此辺(黒沢尻辺)より女の眉毛剃事なし田家の女なとはきわめて風呂敷を頭に巻く也〈今日より亦九十六銭を百文とす〉」。花巻泊。4日森岡泊。5日沼宮内泊。6日福岡泊。7日野辺地泊。8日青森泊。蝦夷渡りの準備のため滞在。21日出立、平館泊。22日高野岬で初めて蝦夷地を見る。三馬屋泊。23日家書到来、「…大久保酉山寛永以来諸家の系図校訂すべき旨命下りし由も書中に有致仕の身にてこの仰を蒙る事翁の本懐知ヌへしわれも外ならす眉を開く」。龍馬山観音に参詣、義経の伝説あり。「寛文年中越前国府中の産円空といふ僧」が観音の霊夢を得て海辺の巌上で観音の尊像を発見、自ら観音像を刻んでその胸中に納めた話。                                                                   29日出船、荒波の中をかろうじて松前に着船、泊。晦日滞留。5月朔日出立、知内村泊。3日泉沢村泊。「此辺屋裏など木はかりにて竹つかはず問へは此国には雷

宝暦度の亀井南冥筆談唱和

 「黒 田 家 文 書」 の『 宝 暦 十 三 癸 来 年 朝 鮮 人 来 聘 記 」(福岡県立文化会館蔵)  宝暦13年12 月3日戍刻 よ り 同 月 26 日の23日間、藍島に滞在した。その間に 儒者井上魯菴らと製述官南玉(秋月)らとの筆談唱和が行われた。  上記の「來聘記」を見ると、両者の筆談唱和は *12月8日・10日・12日・14日・18日 であった。 朝鮮諸客姓名  製述官 南王 。 字時報 。 号秋月 。 一号宜山 。 曾経潔城太守 。 今秘書校理 。 壬寅 生 。  上使記室 成大中 。 字士執 。 号龍淵 。 一号昌山 。 前経銀渓督郵 。 壬子生 。  副使記室 元仲挙 。 字子才。号玄川。曾任長興郎。己亥生。 従事記室 金任謙 。 字士安 。号退石 。 太學生 。 丁亥生c  良医 李佐国 。 字聖甫 。号慕庵 。 官副司勇 。 年三十 。  押物判事 李彦瑱 。 字虞裳 。 

通信使の大坂から山代までの淀川上り

下関における長府藩の負担(正徳度)

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 1711年(正徳元年)度の往路における一人一日分の基本品目 この基準によって長府藩が調達したのは一日当たり8石7斗の白米、そして2石8斗9升の酒などであった。     

『朝鮮信使御記録』写13冊

 防長史料文献解題」(松村久編、マツノ書店、1989年)85頁に、 『朝鮮信使御記録』写13冊 とある。解説によると、 *正徳度朝鮮通信使来訪時における両関の迎接記録 だそうである。 嬉しいことに『下関市史』資料編に収録、

三田尻御船仕出方から提出された現船数の書付

  「防長史料文献解題」(松村久編、マツノ書店、1989年)90頁に紹介されている資料・ 享保3年9月、三田尻御船仕出方から提出された現船数の書付。朝鮮通信使来訪の折に、どのような船が準備されたかを知る資料だという。未見。

対馬藩から萩藩への依頼状

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 寛永2年2月2日