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脇坂安董は、なぜ巨額の資金を必要としたのか?

「現場のロジック」で考える 問題の所在:脇坂安董は、なぜ巨額の資金を必要としたのか 単に「旅費が高すぎる」のではなく、幕府から巨額の拝借金1万5千両を認められながら、なぜ国元龍野藩は、さらに領民や生野銀山の山師から高利の借金をしてまで現金を集めなければならなかったのか、を解明することにある。 1.第一の疑問――そもそも、これは「旅費」だったのか 文化5年の幕府の申渡書は、1万両について「対州へ罷り越すに付き、物入り多くあるべく」とし、追加5千両については、外交御用の延引による費用増加を想定している。この文言からすると、幕府は副使脇様安董個人の旅行費用ではなく、副使としての職務遂行全般に必要な経費を想定していた可能性があるだろう。しかも安董は文化4年(1807)に副使となり、文化8年の外交実施まで長期間、実務を担った。龍野市立歴史文化資料館の解説によれば、その詳細は不知だが、外交交渉などに関係する会談は約170回にも及んだとされているそうだ(文化遺産オンライン参照、しかしその確証を知らない)。それでも1万5千両という金額は、内訳を問わず納得できるような小額ではない。ここで、私の問いを次のように変えたいと思う。安董に渡された金は、本人の赴任費用だったのか、家臣団を含む外交使節団の運営資金だったのか。それとも、龍野藩が外交御用に伴う諸経費を一括して立て替えるための資金だったのか。 この三つは、財政史上まったく意味が異なる。 2.第二の疑問――幕府の資金は、いつ実際に使えたのか ここが「現場のロジック」で最も重要だと考える。文化5年12月19日に1万5千両の拝借が通知されていたとしても、その日に現金1万5千両を全額受け取ったとは限らない。例えば、家臣を対馬に先発させ、必要物資を調達し、船を手配する場合、現場では支払い期限が先にくる。幕府からの資金交付や精算が後になるならば、藩は手元に現金がなくても支払わなければならない。つまり、これは単純な資金不足ではなく、資金の入金時期と支払時期が一致しないことによる資金繰りの問題だった可能性が大である。そこで確認すべきは、老中申渡書の年月日だけではなく、幕府からの資金を龍野藩が受領した年月日と場所である。 3.第三の疑問――集めた金は、本当に龍野藩自身のために使われたのか ここで、一つ新たな史料を紹介したい。九州国立博物館の対馬宗家文書...

朝鮮通信使研究のイノベーションーー「友好の歴史」というスローガンからの脱却

これまでの朝鮮通信使研究と言えば。 通俗的な「日韓親善の象徴」「平和の使節」といったスローガン主導の通信使論や、どの解説書を開いても出てくる「100万両」「諸藩の財政圧迫」といった概括的な話に満ちていた。それらがいかに表層的であり、運動論からの視点で描写された朝鮮通信使理解はいわば金太郎あめのように、いずれも同じ内容にすぎず、発展もなかった、それが周知の事実であったにもかかわらず、これまでほとんど口に出して語られることはなかった。  なぜ具体的に「相模国平塚宿で何がどれだけ消費され、一泊あるいは一休みのために誰が、どこに宿泊し、また誰が宿代を支出して、その額はいくらあり、そのために国元ではどのようにして臨時金を調達したのか」「黒田藩における筑前国相島での客館建設・留保・賄い実費の帳簿はどうなっているのか」といったミクロな地域経済・財政データの復元に本格的な手がついていない。  その背景には歴史学・史料学上の構造的な問題があるだろうと予測する。 1. 史料の散逸と「分割・埋没」の壁 通信使応対に関する史料は、幕府勘定所だけでなく、各地に一括して残っているわけではないだけに、調査の壁は厚い。  平塚宿(相模国)の場合 道中(東海道)の宿場における応接費用は、一箇所で完結せず、「幕府勘定所からの補助・下駄掛け」「沿道村々の助郷(人足・馬の差出)の負担」「宿泊陣屋・本陣の帳簿」「領主(代官あるいは入会領主)の出納帳」の数々に細切れに分散している。 宿場関係の文書(名主家文書など)には「雑用帳」「御馳走入用控」などのタイトルで断片的な数字が残るものの、「それが全体の費用のうちのどの部分を指しているのか(全体像における位置づけ)」を確定させることが非常に難しいため、数値化・集計化の段階で研究が頓挫しやすいという問題があった。  黒田藩・相島(筑前国)の場合 相島は福岡藩(黒田家)が通信使を迎える最前線の「遠見・饗応の場」であるが、ここでの費用も「福岡藩の歳出帳(蔵方・勘定方史料)」だけでなく、「寄港地である湊の船頭・水夫への給金」「警備の番所経費」「遠頭・使節への贈答品(特産品)の調達コスト」などに分散している。これらを統合して「相島応接だけの純粋な総費用」を弾き出すには、福岡藩関係の膨大な史料群(九州大学や福岡県立図書館などに所蔵される黒田家...

脇坂安董と対馬藩との結びつき

  問題の所在: 脇坂安董と対馬藩の関係は、いつ始まったのか 阿比留論文の主眼は、 朝鮮本を媒介とした対馬藩の政治的人脈の解明にあった。国内の様々な人物との関係性を解明する中で、 文化8年度通信使応接副使であった脇坂 安董にも視野を拡大し、 翌文化9年の対馬藩主宗義質の後見役、そして 文化9年以降の安董の対馬藩への継続的関与にも言及する先駆的な研究を開拓した。阿比留氏の問題関心そのものが我々と大きく離れているものの、阿比留氏によって、 脇坂安董と対馬藩との接点を見出された価値は高い。  再論すれば、脇坂 安董は文化8年の通信使応接に関与し、翌文化9年には対馬藩主宗義質の後見役となっている。 文化8年の外交御用と、文化9年以降の安董の対馬藩への継続的関与は、どのような関係にあり、なぜ 脇坂 安董は対馬藩との関係を維持し続けなくてはならなかった のだろうか。換言すれば、 脇坂 安董にとって、対馬藩との関係を断ち切ることができなかった理由は何だろうか。  管見によれば、その糸口の一つが  * 『文化十四丁丑年ゟ義質様御代脇坂中務大輔様江之御状控』 だと考えている。

贈朝鮮通信使屏風  『鹿島美術研究』年報第42号別冊(2025)を参考にして

 現段階で 確認できる文化度朝鮮通信使への幕府からの主要な贈答品は次のとおり。 1.贈朝鮮通信使屏風 江戸幕府は朝鮮通信使来訪のたびに朝鮮国王へ屏風を贈るのを慣例としており、文化8年にも特別に制作された屏風10双が贈られた。この「贈朝鮮通信使屏風」とは私の命名であり、学界の承認を得ていない。「贈朝屏風」とか「贈朝鮮国王屏風」などと呼称されてきたが、愚考によると、その実態に一番近い「「贈朝鮮通信使屏風」の呼称を提案したい。 <参考情報> 屋代弘賢(1758〜1841)『文化八年賜朝鮮国王御屏風図考』(東京大学総合図書館蔵)       武田恒夫「贈朝鮮国王屏風について」『日本美術工芸』第639号。1991エ年他)        榊原悟『美の架け橋―異国へ遣わされた屛風たち』ぺりかん社、2002年        星瑞穂「『通航一覧』 に見る「贈朝屛風」の画題と外交―「碁盤忠信」を中心に―」『中世              文学と隣接 諸学9 中世の物語と絵画』竹林舎、2013年        鄭美娟「国立中央博物館所蔵「通 信使受贈 日本金屛風考察」『美術史資料』91、201           7 年       朴美姫「一六八二 年(天和2)の朝鮮通信使―小野等林筆「朝鮮通信使行列図絵巻」の紹           介―」『東 京都江戸東京博物館紀要』7、2017年・       榊原悟『屛風と日本人』敬文舎、2018年・       鄭美娟「江戸幕府による外交贈答用絵画に関 する基礎的調査研究―文化度贈朝屏風の「桜       町・菊亭図」をめぐって」『鹿島美 術財団年報』42、2024年       鄭 美娟「 江戸幕府による外交贈答用絵画に関する基礎的調査研究─文化度贈朝屏風の「桜           町・菊 亭図」をめぐって─」『鹿島 美術研究年報』第42号別冊(2025) 確認されている画題は以下の10双。 分類 画題 武家の権威 頼信海渡・義家雁行乱知伏兵図 武家の権威 頼朝富士巻狩図 公家文化 舞楽図 公家文化 博雅三位琵琶伝授・時秋笙曲伝授図 公家文化 桜町・菊亭図 支配者の象徴 堂上放鷹図 支配者の象徴 牧牛野馬図 日本の自然 四季大和山水図 日本の自然 老松に日・古木梅に月図 日本の自然 春秋花鳥図 t これらは徳川将軍家の権威や日本文化を...

筆談唱和に「旧法あり」-- -草場珮川著『津島日記』を中心に

筆談唱和に「旧法あり」 -草場珮川著『津島日記』を中心に 1. はじめに 本稿の目的は、江戸時代に12回にわたり訪日した朝鮮通信使と日本人との間に行われた筆談唱和の実相に関して、草場珮川著『津島日記』を通して、主に約束事や制約などの「旧法」の有無を検討することにある。 周知の記事であるが、 「按ずるに、かの使者来聘ごとに、必筆談唱和あり。天和正徳の頃よりして、その事やや盛なり、その書類冊をなすもの百数十巻にいたる」(『通航一覧』巻108、朝鮮国部84、263頁) とあるように、当時から朝鮮通信使たちの筆談唱和の刊本や写本が多数知られていた。高橋昌彦氏の労作「和韓唱酬・筆語図書目録」下関女子短期大学紀要9号、下関女子短期大学、1990年)によって現存する筆談唱和集のリストが作成され、その全貌の一端が判明した。そのリストを出発点として、新資料発見のたびに、また各地の訪書の途次に偶見した異本などの諸資料を高橋氏は増収しているが、機会を得て、高橋氏から最新版を提供して頂き、拙編『Global時代の朝鮮通信使』(花書院、2010年、211―291頁)に収録したことがある。最新情報によると、現在までに165篇(刊本、もしくは写本)の筆談唱和集の現存が確認できる1。 (1)寛永13年度----4 (2)寛永20年度----3 (3)明暦元年度----5 (4)天和2年度----15 (5)正徳元年度----25 (6)享保4年度----21 (7)延享5年度----40 (8)宝暦14年度----43 (9)文化8年度----9 ところで、その研究数は必ずしも多くないものの、筆談唱和の内容分析などに関する文学的あるいは思想的研究は着手済みであると言って良い。しかしながら、筆談唱和がいかに行われたか、あるいは筆談唱和は誰にもオープンに開かれたものか、さらには江戸幕府側が制定した筆談唱和をめぐる規約が存在したかなどを解明した研究は、管見の限りでは知らない。本研究の狙いは、ここにある。 ところで、ふと考えてみるならば、そもそも朝鮮通信使一行には、毎回、対馬藩所属の朝鮮語通詞や朝鮮国側の日本語通詞も同行しており、朝鮮人と日本人の間のコミュニケーションに不便が無かったはずである。例えば、江戸時代で最初の慶長12年度の朝鮮通信使約500名には、都訓導各1名・訳官6名・小通事4名(宣祖40年7...