文化5年12月 遠山金四郎景晋、対馬へ

 岩瀬文庫蔵書

目録データ 和
函番号(資料番号)
152-171 
旧書名
みそうの記 
数量
単位
冊 
書名
未曽有記  
書名ヨミ
ミゾウキ 
書名の備考
原題簽欠(左肩に剥落痕)。内題なし。自序中の書名「みそうの記」。書名は内容による。 
版写
写 
書型
大 
原装・改装
原装 
丁数
77 
寸法
26.1/18.8 
編著者
遠山景晋(金四郎) 
編著者ヨミ
トオヤマカゲミチ 
成立
表紙右に墨書「寛政己未(11年)」。無記名の自序あり。元奥書「遠山景晋」。 
成立推定
近世後期写 
刷り書写の態様
転写本。 
内容
寛政11年正月、東蝦夷地(現・北海道東部)が幕府の直轄地となり、そのため現地に派遣された「信州使君」(書院番頭松平信濃守忠明)の属僚として江戸より蝦夷地を往復した旅の紀行。時に著者遠山金四郎景晋は48歳、西丸御小姓組。漢字かな交じり。経由地や出来事、風景、見聞を淡々と記した旅日記風の記述。東北の名所歌枕では古歌を列挙する。主な旅程、3月20日出立、越谷泊。21日古河泊。22日宇都宮泊。23日太田原泊。24日白川泊。25日「白川過ては百銭を百文とす」。須賀川泊。26日八町目泊。27日桑折泊。28日大河原泊。29日国分町泊。晦日古川泊。4月朔日金成泊。2日水沢泊。3日「此辺(黒沢尻辺)より女の眉毛剃事なし田家の女なとはきわめて風呂敷を頭に巻く也〈今日より亦九十六銭を百文とす〉」。花巻泊。4日森岡泊。5日沼宮内泊。6日福岡泊。7日野辺地泊。8日青森泊。蝦夷渡りの準備のため滞在。21日出立、平館泊。22日高野岬で初めて蝦夷地を見る。三馬屋泊。23日家書到来、「…大久保酉山寛永以来諸家の系図校訂すべき旨命下りし由も書中に有致仕の身にてこの仰を蒙る事翁の本懐知ヌへしわれも外ならす眉を開く」。龍馬山観音に参詣、義経の伝説あり。「寛文年中越前国府中の産円空といふ僧」が観音の霊夢を得て海辺の巌上で観音の尊像を発見、自ら観音像を刻んでその胸中に納めた話。                 
                                                 29日出船、荒波の中をかろうじて松前に着船、泊。晦日滞留。5月朔日出立、知内村泊。3日泉沢村泊。「此辺屋裏など木はかりにて竹つかはず問へは此国には雷にて折るゝ故竹の生長する事なしと云松前より以来湯風炉も皆箱也〓{25DA1}をかくる事ならぬ故なるへし」。4日箱館泊。滞在。11日風の方言の記事。12日出立、大野村泊。13日「サワラ此辺より東蝦夷地也夷人初て見る此末人物器財風俗等蝦夷志北海随筆蝦夷談聞記東遊記蝦夷拾遺三国通覧等にいえるにたかはずばしるさず」。サワラ泊。「鯡(ニシン)を干シ並て有悪臭鼻を穿つ〈是のみならす蝦夷に入るほと種々の穢臭誠ニ言語ヲ絶ス〉」。14日乗船、ワシノ木泊。15日ヤムクンナイ仮小屋泊。16日ヲシヤマンベ仮小屋泊。17日レブンゲの仮屋泊。18日アフタ仮小屋泊。19日ウス、出嶋あり、小高き所に如来堂あり、「善光寺の弥陀とて蝦夷も是を尊敬し不思議の奇瑞も有て往来の禁を忍ひて廻国の修行者は詣る由也」。モロラン仮小屋泊。20日ホロヘツ仮小屋泊。21日シラヲイ仮小屋泊。22日ユウフツ泊(以下は多く運上屋に泊)。23日サル泊。25日ニヰカツプ泊。26日ミツイシ泊。27日ケンマツプ川城跡に御用地あり、寛政11年4月の制札あり。ムクチ仮小屋泊(会所あり)。28日オトナコヅカイ等を召して酒を振舞う。深更まで歌舞あり。                      6月3日夷人の漁を点検、舟より釣をする。「予は常々釣する事なけれと試に釣しに半時にも足らぬ程尺斗のかさご七尾大なる大餘魚一尾得たり餌は鱒を切てつけおもりは礫をくゝり付ケ浮子はなし常の紙鳶の糸の太きにて五六尋もおろして舷に引懸て置キ手こたえすれは引上る也都下にて釣るやうに巧拙も工夫もいらす…都下にて釣好く人に見せたし〈茗水孤松を憶ふ〉」。12日出立シヤマニ泊(会所あり)。13日夢の話あり、束帯姿の今大路中務大輔が現れ、「みそうの記」を漢文で書かぬことを批判されて弁ずる。16日出立、山間新道を経てホロマンヘツの海岸に出、ホロイツミ泊。7月2日出立、ホロマンヘツよりチコルキシの難所を越え、シヤマニ泊。3日ムクチ泊。5日村上と別れ、ミツイシ泊。6日ニヰカツフ泊。7日サル泊。8日ユウフツ泊。9日シラヲイ泊。10日ホロヘツ泊。11日モロラン泊。12日アフタ泊。13日レフンケ仮小屋泊。14日工藤太仲という侍が熊と格闘して刺し殺した話。ヲシヤマンヘ泊。15日ヤムクシナイ泊。16日ワシノキ泊。17日大野村泊。18日箱館泊。8月8日出立、泉沢村泊。9日知内村泊。10日福嶋泊。11日松前泊。13日正九時出帆、七時頃三馬屋着。15日平館泊。16日青森泊。18日野辺地泊。19日七ノ戸泊。20日五ノ戸泊。21日福岡泊。22日北上観音に参詣、沼宮内泊。23日森岡泊。24日花巻泊。25日水沢泊。26日一関泊。27日築館泊。28日吉岡泊。29日国分町泊。9月朔日大河原泊。2日桑折泊。3日二本松泊。4日須賀川泊。5日白坂泊。6日大田原泊。実父の忌日で在りし日のことを追憶。7日宇都宮泊。8日日光山に向い、今市泊。9日日光山諸所を参詣。教光坊泊。10日神祠に参詣。同坊泊。11日宇都宮泊。12日古河泊。13日草加泊。14日帰着。末尾部「〈(先考が「浪華の監使」より帰った際に、重い疱瘡より回復した6歳の筆者を見て喜んだ話あり)…今次郎の小冠者が無病にておとゝひ打つれて迎に来り夏たけ秋さる間にからもそたち心もおとなしうなりしをみるうれしさにつけて先考のむかし察し奉られてわれも又悲喜の泪そゝろに襟をつたふこと幼き者が年たけて後にそまたわか心をは思ひしるらめ〉図書殿に参つて帰都のよし申し四時わかやに帰り入り親戚故友まとゐして笑言唖々たり〈十三(ママ)日朝参して御朱印を返しまいらす〉」。筆者の幼子「次郎の小冠者」は、「遠山の金さん」のモデル、景元か(通称は通之進、景晋は養父の実子景善を養子としたため「次郎」と称したか)。時に7歳。 
備考
旧目録、「みそうの記」として一括する4冊の第1冊。4冊は同筆同装丁。代赭色薬袋紙表紙。半丁10行。朱書句点入り。○書名について、自序に「これをみそうの記といふみそうは未曽有也かけまくもかしこき御旨未曽有の御事と仰き奉るへし多くの官人毛地にゆくも未曽有也番師にて今度の処置の惣奉行たるも未曽有也番郎の身にてかゝる公事につかへまつるも未曽有也我か家に分れて五世王父の駿城在衛の外旅行の事未曽有也我か身ひとつにはもとより未曽有也往還千里に及ふ旅行も未曽有也彼地の様旅行の躰もつとも未曽有の事ともなれはみそうの記とは命し也」。○自序末に「詳なる事は秦檍丸〈御普請役御雇村上嶋之丞〉か嚢中に推譲りてこれはこれ一百七十一日の日記なる耳〈図は附録にし詩文は別録す〉」。○遠山景晋は幕臣。通称金四郎・左衛門尉。字孟大。号楽土・紫橘園。幕臣永井筑前守直令の四男。遠山景好の養嗣子。35歳の天明6年閏10月家督を相続(500石)。同7年正月御小性組。寛政6年3月学問を試され甲科に挙げられる。同8年12月若君家慶に付属。寛政12年正月西丸御小性組より御徒頭。享和2年3月御目付。文化元年12月長崎表へヲロシヤ船来、御用のため出張。同4年6月異国船蝦夷地に来、御用のため出張。同5年12月、対馬に出張。同9年2月長崎奉行。文化13年7月御作事奉行。文政2年9月御勘定奉行。同12年2月辞職。天保8年7月22日没86歳。墓所下谷本光寺のち巣鴨本妙寺。○『続徳川実紀』寛政11年2月28日条「書院番頭松平信濃守忠明。使番大河内善兵衛政寿。勘定吟味役三橋藤右衛門成方。寄合村上三郎右衛門常福。西城御小姓組遠山金四郎景晋。同書院番長坂忠七高景等共に蝦夷地の事奉はりて暇給ふ。賜物差あり」。○3月24日「(白川)町中熊の子を牽て通るとて人々たちさわき見る又駄馬に子馬のついてありく躰都下にては見ぬ事也家の小冠者に一ト目見せたや」。27日「(桑折)逆旅の壁に長谷川雪洞の波に燕杭に鷺の草画あり三四十歳頃の画にもやあらん彼人の筆には大に劣りたれとも其流ウ風ウ雪洞二字の筆勢外ならす十四五年跡七十斗にて別れし翁の壯年は五十年にもなるべしはからさるに墨跡の淋漓たるを看て感慨に不堪」。28日「(大河原)蕨を羹にしてすゝむ此辺の山に多からんと通ひするおのこにいへばさん候されとことしは寒き故まだ多からすけふ初て調して候と云〈仲英先生の晩膳供薇蕨の句思ひ出ツ〉」。29日「(国分町)逆旅のあるし云年老たる父の候が若き時に何国の人にかわか家にやとりし時に駒か岳の朴の木にて小き枕の形を造りて文字書付て贈りたりしを数年櫃底に蔵め候か君には風雅を好せ給ふと人々の語り合を承りて御なくさみに奉りたき由老たる父の申侍るとて与へたり…」。4月25日「(三馬屋)都下にて一解ごとにシングイ々といふ童謡流行しか此浦里の女や子等か暮にうたふ也いちはやく伝へし哉家の小冠者もさぞうたふらん」。5月10日「(箱館)けふは閑を得て加川元厚に借りて齎たりし下谷集を読てみれは悉くわか意に会するのみならす及はさる識をも得て独り几を撃つて楽しめりかほとの佐善氏を人の称する事を聞さりしはいかなる事にや此書世に広まらで見る人の少レなるか見る人ありても国字書とかろんして躬行の実経済の要を了解する人のなかりしかわか為には殆論衡に比すべし加川か蔵書の人を益する初メたる事にはあらねど千里の旅中も彼人の恵によつて学を増す事小縁のことに非す」。9月6日「(大田原)…(先考が)監察官の時左兵衛督領処にて簀を易んとして加藤家の子を取て家嗣すへき願の証跡見て参れとの御使に趣給ふ促装をわれ幼きころ御膝元によろこびつかへ奉りしに汝も能く君につかへ奉りかゝる御威光の有難事にあへかしわか眼の黒きうちに汝か君につかふまつるふるまひをみん事は覚束なしとの給ひしか今のわか身のやふ尊霊の左こそ悦思し召らんと帰驂のことねもころにつけ奉る」。 
資料所蔵機関の名称
西尾市岩瀬文庫
資料種別
08地理 
資料種別詳細
2日本地誌 
大分類
1和書
和分類1
> 08地理
和分類2
> 2日本地誌4遊覧遊歴2遊歴11奥州蝦夷

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