「幽蘭台年録」(朝鮮人饗応一件 下)延享5年(1748)5月2日条 大和郡山藩主柳澤信鴻
大和郡山藩主柳澤信鴻(のぶとき、伊信〈これのぶ〉、享保9年<1724>~寛政4年は朝鮮通信使を郡山藩京屋敷近くの本圀寺(ほんこくじ)で接待役を仰せつけられる
「幽蘭台年録」(朝鮮人饗応一件 下)延享5年(1748)5月2日条
「幽蘭台年録」とは、柳澤信鴻の公的記録(全157冊)です。これは、祖父柳澤吉保の「楽只堂年録」、父吉里の「福寿堂年録」に次ぐ量になります。延享2年(1745)10月から安永2年(1773)まで、つまり信鴻の家督継承から隠居に至るまでの時期を収めます。信鴻の事績の中で通信使の接待は特に大事な行事と認識されていたようで、特別に「朝鮮人饗応一件」と書かれたものが上下2巻にまとめられています。延享4年に信鴻が通信使の接待を命じられた場面から始まり、京都本圀寺を訪れた朝鮮通信使に信鴻の家老平岡里普が歓迎の言葉を述べた場面などが書かれている。 「松平美濃守日誌」延享5年(1748)5月朔・2日条 「松平美濃守日誌」は、柳澤信鴻自筆の日記です。収録期間は、元文3年(1738)より明和4年(1767)までで、延享2年(1745)に家督を継承する以前、いわゆる若殿時代から安永2年(1773)に隠居する数年前までの時期を収めます。信鴻が延享5年5月2日に通信使を接待したスケジュールだけでなく、本圀寺で接待する前日に通信使への礼儀作法(「揖礼」(ゆうれい)を練習している様子も記されています。 これによって、本圀寺で接待役の式次第を知る。
「幽蘭台年録」とは、柳澤信鴻の公的記録(全157冊)です。これは、祖父柳澤吉保の「楽只堂年録」、父吉里の「福寿堂年録」に次ぐ量になります。延享2年(1745)10月から安永2年(1773)まで、つまり信鴻の家督継承から隠居に至るまでの時期を収めます。信鴻の事績の中で通信使の接待は特に大事な行事と認識されていたようで、特別に「朝鮮人饗応一件」と書かれたものが上下2巻にまとめられています。延享4年に信鴻が通信使の接待を命じられた場面から始まり、京都本圀寺を訪れた朝鮮通信使に信鴻の家老平岡里普が歓迎の言葉を述べた場面などが書かれている。 「松平美濃守日誌」延享5年(1748)5月朔・2日条 「松平美濃守日誌」は、柳澤信鴻自筆の日記です。収録期間は、元文3年(1738)より明和4年(1767)までで、延享2年(1745)に家督を継承する以前、いわゆる若殿時代から安永2年(1773)に隠居する数年前までの時期を収めます。信鴻が延享5年5月2日に通信使を接待したスケジュールだけでなく、本圀寺で接待する前日に通信使への礼儀作法(「揖礼」(ゆうれい)を練習している様子も記されています。 これによって、本圀寺で接待役の式次第を知る。
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