藤沢宿における前例は、下記の通りであった。三浦郡の「小坪 下平作 上平作 池上 金谷 不入斗 小矢部 森崎 大矢部 衣笠 岩戸 長沢 津久井 上宮田」の名主14名に対して、6月10日付けの「廻状」を送付し、同年6月20日までの回答を求めた。
<資料>『延享年中御用日記』
<資料>『延享年中御用日記』
御廻状写
来辰年朝鮮人来朝ニ付、藤沢宿御賄所江村々より指出候品々左之通
来辰年朝鮮人来朝ニ付、藤沢宿御賄所江村々より指出候品々左之通
一 人足 一 猪鹿 一 魚串、豆腐串 一 竹箒 一 杉はし
一 菖葉 一 青物野菜類 一 魚鳥類品々 一 貝類品々
右者享保年中朝鮮人来朝之節、藤沢宿御賄所江村々より差出候所、先格を以来辰年来朝之節も右同様被仰付候間、先格何品ニよらす御賄所へ指出候村々ハ、何品何ほと先格差出候と申儀并村高・御地頭付共書付致、来ル廿日迄藤沢宿自分共旅宿へ無間違持参可被致候、尤其節右ニ付御用有之間、村役人印形持参、名主・与頭之内可被罷出候
右者享保年中朝鮮人来朝之節、藤沢宿御賄所江村々より差出候所、先格を以来辰年来朝之節も右同様被仰付候間、先格何品ニよらす御賄所へ指出候村々ハ、何品何ほと先格差出候と申儀并村高・御地頭付共書付致、来ル廿日迄藤沢宿自分共旅宿へ無間違持参可被致候、尤其節右ニ付御用有之間、村役人印形持参、名主・与頭之内可被罷出候
一 右品々先格差出有無村中とくと吟味之上、指出候例無之村々ハ廻状村名上ニ其断書致、村下ニ印形可被致候、若申偽隠置、後日於相知ハ其村々可為越度候間、可得其意候
(中略)
卯六月十日
木村雲八手代 吉岡勘九郎印
柴村藤右衛門手代 渡辺幸蔵印
三浦郡
小坪 下平作 上平作 池上 金谷 不入斗 小矢部 森崎 大矢部 衣笠 岩戸 長沢 津久井 上宮田
小坪 下平作 上平作 池上 金谷 不入斗 小矢部 森崎 大矢部 衣笠 岩戸 長沢 津久井 上宮田
右村々名主中
(『新横須賀市史 資料編近世1』所収 横須賀市所蔵福本三郎家文書)
とあり、6月10日付けの書状には、
とあり、6月10日付けの書状には、
一 人足 一 猪鹿 一 魚串、豆腐串 一 竹箒 一 杉はし
一 菖葉 一 青物野菜類 一 魚鳥類品々 一 貝類品々
とは、「何品何ほと先格差出候と申儀」であった。
<資料>
藤沢宿ニ而右手代衆へ上ル証文写
一 来辰年朝鮮人来朝御用ニ付、道中継人馬差出シ申候、各々様御廻状之品々人足ハ不及申、其外何ニ而も藤沢宿御賄所へ指出不申候、右之通少も相違無御座候、為其連判指上申候、以上
延享四年卯六月
三浦郡金谷村
名主 藤右衛門印
柴村藤右衛門様御手代 渡辺幸蔵殿
木村雲八様御手代 吉岡勘九郎殿
(同前福本三郎家文書)
その結果、「道中継人馬」のみの負担であったと回答した名主が二名いたために、再度の尾「廻状」を、三浦郡金谷村名主 藤右衛門が「柴村藤右衛門様御手代 渡辺幸蔵殿、木村雲八様御手代 吉岡勘九郎殿」に出している。
その再確認を促す廻状に対して、高座郡の戸田村の連判証文が次の文書である。
<資料>『延享四年卯ノ六月 来辰年朝鮮人来朝ニ付被仰渡候御書付写』
一 享保四年亥年朝鮮人来朝之節藤沢宿御賄所へ村々より差出シ候品々、以先例来辰年来朝之節も藤沢宿御賄所江可為指出旨被仰出候ニ付、此間廻状を以て御賄所働人足、猪・鹿、魚串・豆腐串、竹箒、杉箸、□(青)物野菜類之内何品ニ而茂享保之節差出候村々者可申出旨申達候へ共、宿場次人足之外者何ニ而茂勤不申候由被申聞候、右之内猪・鹿者不指出義茂可有之候得共、御賄所働人足を初、其外品々之儀者鎌倉・高座両郡より差出候儀無紛候間、書物控へ無之候ハヽ、猶又村方年古キ者等承合否之儀、来ル五日迄ニ可被申出候、尤道中次人馬勤候村方者朝鮮人附送り之次人馬ニて候哉、又者朝鮮人次送りニ而者無之、常々之荷物附送り之方相勤候哉、委細書付ニ認可被罷出候、若隠置後日ニ差村等ニ而脇より於相知者、以之外成越度ニ相成候条念入可有吟味候、此廻状村下ニ名主致印形早々相廻シ、留村より可被相返候、以上
卯七月二日 石川より受取葛原へ遣ス
右者 木村雲八手代 吉岡勘九郎
柴村藤右衛門手代 渡辺幸蔵
(『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 藤沢市皆川邦直氏所蔵文書)
更に確認の証文をとりながら、各名主の負担が何で有り、そして次の負担は何であるかを明確とする。
*享保之節、御賄所働人足、青物野菜類・魚串・豆腐串・竹箒・杉箸之内、何品差出候哉可申上候、此義先達而御尋被成候処、道中継送り之外、何ニ而も差出候品、無之旨申上候得共
とあり、「道中継送り」だけであったいう。それを不審に思ったので、「書面之扣無之候共、猶又村方吟味之上否申上候、」とさらなる廻状を送達する。そんなはずはないだろうと。
<資料>「来辰年朝鮮人来朝藤沢宿賄人足の儀につき一札」
(端裏書)
「中野村へ」
来辰年朝鮮人来朝ニ付、藤沢宿御賄所江村々より差出候品々、享保来朝之格ニ被仰付候間、享保之節、御賄所働人足、青物野菜類・魚串・豆腐串・竹箒・杉箸之内、何品差出候哉可申上候、此義先達而御尋被成候処、道中継送り之外、何ニ而も差出候品、無之旨申上候得共、書面之品々鎌倉・高座之内より差出候儀無紛候間、書面之扣無之候共、猶又村方吟味之上否申上候、尤道中継人馬相勤候与申義ハ、朝鮮人継送り候哉、又ハ其節平日荷物付御吟味ニ付、猶又村中疾与吟味仕、年古キもの承合候得共、右之品々御賄所へ指出候覚無御座候、尤道中人馬之儀ハ、朝鮮人来朝ニ付送り之方相勤、平日荷物付送り之方ハ相勤不申候旨申上候ニ付、又候被仰聞候者享保之節者人馬継請負ニ被仰付、村々より役金差出候義ニ候間、右書面有之候哉、御尋之ニ御座候得共、右書面ハ類焼・流出等之覚も無之候得共、一向無御座候、村方申伝候覚を以申上候段申上候哉、御賄所働人足之義、凡高百石ニ拾人割程之当を以鎌倉・高座両郡より差出候義紛無之候所、右之通り拙者共証拠書物無之、覚を以申上候義、御取用難被成旨被仰聞候趣、逐一承知仕御尤ニ奉存候、来辰年来朝ニ付、藤沢宿御賄所働人足役之義、今般御吟味之上者拙者共違背可仕様無御座候ニ付、人足役之義何分共被仰付次第、少も違背仕間敷候、為其連判証文差上申処、仍而如件
卯七月四日
(相模国大住郡戸田村小塩家文書(神奈川県立公文書館所蔵))
<資料>「乍恐書付を以奉願上候」
一 来辰朝鮮人来朝ニ付、御用継人馬藤沢宿より品川宿迄継人馬并馬入船橋御用人足被為仰付候ニ付奉畏存候、其上藤沢宿御賄所并働人足并魚串・豆腐串・竹串・杉箸之物類被仰付候得共、先格右村々より一切相納不申候、依之芝村藤右衛門様・木村雲八様御両所様へ御沙汰候通り御免被遊下候様ニ奉願上候、御慈悲を以御免被遊下候ハヽ難有奉存候、以上
卯九月十日
差上写
願人
蓑笠之助様御手代 本間丹右衛門様
佐々新十郎様御手代 野田郡蔵様
(相模国大住郡戸田村小塩家文書(神奈川県立公文書館所蔵))
<資料>「乍恐以書付奉申上候」
乍恐以書付奉申上候
一 鶏并玉子 一 あひる 一 水菓子類 一 野菜之類 一 御賄所働人足
一 相州三浦郡秋谷村・小坪村・諸磯村・上宮田村・和田村右五ケ村名主共奉申上候、来ル未年朝鮮人来朝ニ付前書之品々先年茂御賄所江差出候哉、亦者代銀ニ而納候哉否早速可申上旨 御書付を以被 仰渡奉承知候、私共組合村々者前書之品々差出候儀者無之、尤右之品々代銀ニ而相納候儀も無御座候、且斉藤喜六郎様御支配之節私共組合村々者浦付ニ御座候間、延享五辰年来朝之節者藤沢宿泊御賄所御代官木村雲八郎様・柴村藤右衛門様右御両人様江魚類を代銀ニ而差上申候、勿論来未年来朝ニ付藤沢宿泊御賄御代官岩松直右衛門様・泉本儀左衛門様御手代橋本茂四郎殿・望月丈蔵殿右御両人藤沢御旅宿江当六月中私共組合村々不残被召出候処、先年之格通可申上旨被仰渡候間、則前々相納来候魚類代銀之訳書付相認右御手代中江差上申候、右者此度御尋ニ付奉申上候処、少も相違無御座候、以上
三浦郡小坪村 五右衛門
同郡 秋谷村 嘉左衛門
同郡 諸磯村 利兵衛
同郡 和田村 六郎左衛門
同郡上宮田村 喜右衛門
(『新横須賀市史 資料編近世1』所収 横須賀市秋谷若命寿男氏所蔵文書)
朝鮮通信使中の三使(正使・副使・従事官)・上々官・上官に対しては、下記の食材が提供された。なお、ちなみに中官は2汁6菜、通詞は2汁5菜の、日本人料理人が作る日本食であった。
<資料>次は、宝暦14年(明和元年 1764)の大磯宿での三使昼食の1食分の食材であった。
これは一人分であったので、同時に52名分を調達しなくてはならなかった。例えば、白米の場合、2升×52名=104升であった。
- 白米(2升)
- 白味噌(7合5勺)
- 醤油(3合)
- 酢(3合)
- 胡麻油(2合5勺)
- 塩(2合5勺)
- 初首挽茶(5匁)
- 服部刻たばこ(20匁)
といった主食・調味料・嗜好品のほか、
- 鯛(1枚 但長1尺5寸)
- 鰡(ぼら)(1本 但長1尺2寸)
- 甘鯛(3つ 但長8、9寸)
- 大鮑(2つ)
- 鯣(するめ 3枚)
- 鰹節(2つ)
- 鶏(1羽 但活鳥)
- 鶏卵(8つ)
- 猪(1股)
など主菜となるもの、
- 菓子(まんじゅう7つ、求肥、カステラ、あるへい糖、らくがん各半斤)
- 野菜類(大根5本、蕪5本、菜2把半、牛房5本、人参5本、長芋5本、里芋5つ、芋2合5勺、葱2把、芹2把、慈姑5つ、柚5つ、塩松茸5本、椎茸1合、豆腐1丁、蒟蒻2丁、麩5つ、昆布1枚、小麦粉2合、葛2合5勺、胡椒の粉2匁5分、からしの粉1合、芥子1合、黒胡麻1合、山椒1合、生姜2合など)
- その他香物(奈良漬、味噌漬)
- 炭(2詰)
- 薪堅木(7把半)
とあり、昼食用食材・調味料・嗜好品・デザート、燃料などが調達された。
この中で、「カステラ」が調達できたというが、その製法はいかがであっただろうか。
この中で、「カステラ」が調達できたというが、その製法はいかがであっただろうか。
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