「朝鮮使 筆談写」ー浜松での筆談・唱和
中日新聞記事を紹介した。金銭目的はないので、「中日新聞」さん、どうかご許可をお願いします 「朝鮮使 筆談写」紹介記事が、それである。 望むらくは、この資料の全文が読める場所の紹介もお願いしたい。 **************** 江戸時代に朝鮮王から幕府に派遣されていた朝鮮通信使を浜松藩士が接待する様子を記録した文書が、茨城県の旧家で見つかった。使節団との筆談でのやりとりを藩士が残し、出身地に持ち帰っていた。解読した茨城県筑西市の県立高校教諭で郷土史家の桐原光明さん(63)は「当時の外交の一端をのぞかせる貴重な史料だ」と話す。(水戸支局・原田拓哉) 文書は、現在の筑西市にあった下館藩出身の浜松藩士尾見与兵衛による「朝鮮使 筆談写」。徳川家宣が第六代将軍に就いた1711(正徳元)年に派遣された朝鮮通信使と、浜松藩との交流の一部を記した。与兵衛は医学などの知識があり、浜松藩に迎えられ、使節団の供応役を任されたとみられる。 文書は横17センチ、縦24センチの紙5枚。与兵衛は「饗応のため、駅舎(宿)に至り、この筆談を写す」と書き出している。使節団の書記とのやりとりが始まり、書記から「この家の主人か」と問われ「家士にあらず、浜松太守の任官なり」と答える。駅舎の場所について「東海道遠州浜松」「江戸まで70余里」とも説明している。 浜松産のミカンも登場する。書記がミカンを食べて「瞬(またた)きて、此(こ)の名は何なりと」と質問。与兵衛が「日本蜜柑(みかん)なり」と返答すると「朝鮮も亦(また)蜜柑なり」。 贈り物の交換になり、与兵衛は銀製の石筆をプレゼントし、書記からは扇子が手渡される。お互いに好きな詩を紹介する場面も出てくる。 最後に与兵衛は「方殊(外国)の言は異なるも、詩情は是同じ」と残し、誠心外交に尽力したことがうかがえる。 文書を所蔵していた与兵衛の子孫で、筑西市村田の尾見又一さん(80)は「今からちょうど300年前の出来事。尾見家のルーツを探る手掛かりの一つで、宝物として残していきたい」と話した。 浜松市博物館の久野正博学芸員「筆談やりとり貴重」 言葉の違いを埋めるため、朝鮮通信使と筆談で意思疎通した記録は全国的には結構ある。浜松市史には1711年に朝鮮通信使が浜松を訪れた記録はあるが、筆談のやりとりや浜松藩の記録は今までの史料に無く...