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引接寺写真(焼失前)--大正13年撮影か

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  日清講和談判記念絵はがき 李鴻章并ニ一行旅館(下関引接寺)

旧上関番所

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  文化財・史跡 | 上関町役場 (kaminoseki.lg.jp) からの転載 名称 旧上関番所  (平成12年3月31日指定) 説明 『朝鮮信使上関記録』には「上関御番所」と記されています。上関は萩藩(毛利本家)の直轄地で、番所は1632年(寛永9)長島南西端の四代(しだい)に置かれましたが番所の老朽化と上関港の発展に伴い、1711年(正徳元)、朝鮮通信使のために建てた仮番所を公儀に願出、永久番所として四代から上関に移しました。 番所の規模は赤間関(現 下関)の番所に準じたもので二重の瓦屋根とし、番所には三田尻(現 防府)の御船手組から番人として6人が勤務しました。 備えとしては槍10本、捻・差股・突棒各2本、弓10張、鉄砲10挺、大筒3挺(見え隠れするよう設置)、紫幕が用意されました。朝鮮通信使寄港の際には、萩藩弓・鉄砲組の者が番所に勤め、物頭の指示により、市中の見廻り(昼夜3度ずつ、臨時あり)、火の用心などを務めました。1996年(平成8)、現在地に復元移築。江戸初期の数少ない行政機関の遺構であることから2000年に県指定有形文化財に指定されました。 住所 山口県熊毛郡上関町大字長島629、594 アクセス方法 車:山陽自動車道・熊毛または玖珂ICから約50分(約40キロメートル)   JR柳井駅から約30分(約20キロメートル) バス:JR柳井駅⇒上関町渡船場前バス停下車(所要時間:約50分)⇒徒歩5分 電話番号 0820-62-1460(上関町総合文化センター内上関町教育委員会) 定休日 普段は鍵が掛けられ中を見ることができません。 希望される方は事前に上記までご連絡ください。 料金 無料

萩藩の負担は銀2700貫目

 萩藩が負担したのは、 ①水夫の斡旋 ②下関と上関における饗応 ③客館の修築もしくは新築 ④大阪‐淀川間の淀川をさかのぼる川御座船の提供 これらの負担総額は銀2700貫に達したと吉田智史氏の玉稿が教える。 ⇒吉田智史「朝鮮通信使接待の財政負担:宝暦通信使の萩藩を事例として」『七隈史学』16、2014〉 萩藩の支藩である長府藩にしても、これ以外にも *延享5年度〈1748〉に、駿河国吉原宿での接待役 *宝暦14年度〈1764〉に、江戸御馳走役 を幕府から命じられることで、さらなる出費を要した。

宝暦14年度の朝鮮通信使一行に動員された萩藩内の水主たちは2243人

 吉田智史氏の玉稿に *「朝鮮通信使の通航における宰判の役割:宝暦通信使の都濃宰判を中心にして」『山口県地方史研究』115、2016年 がある。大変に緻密な資料分析に基づく行論であり、裨益される所、大である。 その吉田氏の論に、明和元年〈1764〉に、諸郡浦方から動員されたのは、 *総数水夫2243人 に及ぶ動員された水夫の数が紹介されている。萩藩の浦方などに関する説明は吉田論文に譲る。一読を乞う。 我々の関心は、釜山港を出航した6隻の朝鮮通信使船(正使船・副使船・従事官船・とそれぞれに随伴する荷船)に対して、 ①沖合の通航補助 ②使節船団の先導・曳航 ③綱・碇・水・薪などの補給 ④遭難などを回避・救助 等の役割が課されていた。

朝鮮通信使が萩藩領内を通過するときの漁民に関する研究

 萩藩が朝鮮通信使の往来を担当する地域は筑前藍島から芸州藩穂刈港(広島県呉市)までであったので、藩内の寄港地は下関、そして上関の2港であった。  

萩藩の江戸藩邸

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 (1)萩藩 1-1)拝領江戸上屋敷 1万7170坪あまり <慶長8年:1603~元治元年:1864> ⇒外桜田(千代田区日比谷公園) 1-2)拝領江戸中屋敷 不明 <慶長年間~寛永13年:1636> 1-2-1)拝領江戸中屋敷 5169坪<慶長年から寛永13年:1636> ⇒宇田川町(港区新橋6丁目) 1-2-2)拝領江戸中屋敷 3643坪 <元禄12年:1699~弘化元年:1844> ⇒新橋(千代田区霞が関1丁目) 1-2-3)拝領江戸中屋敷 2100坪 <弘化元年:1844~嘉永3年:1850> ⇒築地(中央区築地2丁目) 1-3-1)拝領江戸下屋敷 36080坪<寛永13年:1636~元治元年:1864> ⇒麻布龍土(港区赤坂9丁目、東京ミッドタウン付近) 1-3-2)拝領下屋敷 4000坪 <文政7年:1824~元治元年:1864> ⇒巣鴨(豊島区巣鴨2丁目) 1-4)抱地 18300坪 ⇒若林(世田谷区若林4丁目) →1974年に購入。「毎年春になり候へば、風吹き火事これかり、付いては諸大名衆その他御旗本小身住民票の用心屋敷一箇所充御求の旨」東京幕府に要求 1-5)街並み屋敷 18954坪 ⇒深川鶴歩(江東区木場3丁目) (2)岩国藩吉川家 2-1)抱屋敷 3513坪 ⇒今井(港区赤坂8丁目) 2-2)抱屋敷 ⇒上戸塚村(新宿区高田馬場3丁目) (3)長府藩 3-1)拝領上屋敷 14087坪 ⇒麻布日ケ窪(港区六本木6丁目、テレビ朝日付近) 3-2)拝領下屋敷 3960坪 ⇒白金(港区白金4丁目) (4)徳山藩 4-1)拝領上屋敷・下屋敷 9305坪 ⇒麻布今井(港区赤坂8丁目) 4ー2)拝領下屋敷 3283坪 ⇒芝2本榎(港区高輪3丁目) (5)清末藩 5-1)拝領上屋敷 3452坪 ⇒愛宕下広小路(港区新橋4丁目) 5-2)拝領下屋敷 830坪 ⇒麻布古川(港区南麻布1丁目)

「証人」の意味

 この「証人」はなんと読めばよいだろうか。一般的に「ショウニン」であるが、万が一「アカシヒト」と読んでもよさそうだ。  さて、読み方が問題ではない。 江戸時代の「証人」とは、「ショウニン」と読み、 *幕府が大名に求めた、各重臣の子女を江戸に人質として確保すること である。いわば、大名が幕府に提示した忠義・屈服・服従などの「生きショウニン」を意味する。例えば、寛永10年に萩藩が提出した「証人」は5名、萩藩江戸藩邸下屋敷に居住した。ざねんながら、その氏名と年齢、江戸滞在時期、さらに江戸居住時の自由度などは不明。

江戸時代、「ファン ダーレン」は佐甲宗敏

 下関市 南部町20-22の 佐甲 家 は、同市の伊藤家ともに江戸時代の「本陣」であった。文政9年(1826)のオランダ商館長スチュルレルが名付け親である「ファン ダーレン」は佐甲本陣の主人佐甲宗敏である。 ***************** 一九世紀のオランダ商館 上 商館長ステュルレルの日記とメイラン日欧貿易概史 著者名 松方 冬子、  西澤 美穂子、田中 葉子、  松井 洋子 (編)、  日蘭交渉史研究会 (訳) 判型など 544ページ、A5判 言語 日本語 発行年月日 2021年1月28日 ISBN コード 978-4-13-026351-1 出版社 東京大学出版会

文化8年3月24日、菅茶山が古賀精里らを迎接

 文化8年度〈1811〉に対馬に来訪する朝鮮通信使との筆談唱和のために西下する古賀精里・草場偑川・高津秦らを、菅茶山が神辺駅に出迎える