江戸時代、「ファン ダーレン」は佐甲宗敏 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 7月 11, 2023 下関市南部町20-22の佐甲家は、同市の伊藤家ともに江戸時代の「本陣」であった。文政9年(1826)のオランダ商館長スチュルレルが名付け親である「ファン ダーレン」は佐甲本陣の主人佐甲宗敏である。*****************一九世紀のオランダ商館 上商館長ステュルレルの日記とメイラン日欧貿易概史著者名松方 冬子、 西澤 美穂子、田中 葉子、 松井 洋子 (編)、 日蘭交渉史研究会 (訳)判型など544ページ、A5判言語日本語発行年月日2021年1月28日ISBN コード978-4-13-026351-1出版社東京大学出版会 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
朝鮮通信使資料集 2月 18, 2018 朝鮮通信使資料集 資料所在情報を知る便利な論考 三宅英利「朝鮮通信使研究小考」 『福岡県地域史研究』第14号、1996年、1-21頁 朝鮮通信使一覧 - 松原研究室 - 九州 大学 [1]1413年(癸巳・応永) [2]1429年(己酉・正長) [3]1439年(己未・永享) [4]1443年(癸亥・嘉吉) [5]1460年(庚辰・寛正) [6]1479年(己亥・文明) [7]1590年(庚寅・天正) 金鶴峯『海槎録』(『海行総載』第1巻、朝鮮群書大系続々第3輯) [8]1596年(丙申・慶長) 黄慎『日本往還日記抄節』(韓国中央図書館蔵)--題簽「資聞録」(『青丘 学叢』第11号) [9]1607年(丁未・慶長) 慶七松『海行録』(ソウル大学奎章閣蔵)(『海行総載』第2巻、朝鮮群書大 系続々第4輯) 慶暹『海槎録』 1607年1月12日ソウル出発 2月29日釜山出発 3月21日対馬厳原出発 4月11日大阪出発 5月24日江戸到着 6月14日江戸出発 閏6月20日肥前名護屋到着 7月 3日釜山帰着 7月17日ソウル帰着 [10]1617年(丁巳・元和) 呉允謙『東槎上日記』(『海行総載』第2巻、朝鮮群書大系続々第4輯) 朴梓『東槎日記』(ソウル大学奎章閣蔵) 李石門『扶桑録』(『海行総載』第2巻、朝鮮群書大系続々第4輯) [11]1624年(甲子・寛永元年) 姜弘重『東槎録』(『海行総載』第2巻、朝鮮群書大系続々第4輯) [12]1636年(丙子・寛永13年) 任統『丙子日本日記』(『海行総載』第2巻、朝鮮群書大系続々第4輯) 金世謙『海槎録』(『海行総載』第2巻、朝鮮群書大系続々第4輯) 金世謙『槎上録』(『海行総載』第2巻、朝鮮群書大系続々第4輯) 黄漫浪『東槎録』(『海行総載』第3巻、朝鮮群書大系続々第5輯) 李志恒『漂舟録』(『海行総載』第2巻、朝鮮群書大系続々第4輯) [13]1643年(癸未・寛永20年) 趙絅『東槎録』 申竹堂『海槎録』 著者未詳『癸未東槎録』 『通信使謄録』(ソウル大学奎章閣蔵) 『倭人求請謄録』(ソウル大学奎章閣) [14]16... 続きを読む
淀渡辺家所蔵朝鮮通信使関係文書 5月 24, 2020 淀渡辺家所蔵朝鮮通信使関係文書 京都市歴史資料館 編 淀藩から命じられて接待にあたった藩士渡辺善右衛門が,その行列の様子を記録し,御子孫の 渡辺辰江氏所蔵 宅に代々伝えられてきた。その一つが朝鮮通信使行列図。 朝鮮通信使行列図 1巻(淀渡辺家文書) 「通信使淀城下着到図」延享5年(1748)(渡辺辰江氏所蔵、京都市歴史資料館寄託) 延享5年(1748)、大坂から船で淀に到着した通信使の行列が淀城へ向かう様子を描いています。川御座船から絵図中央の唐人雁木(とうじんがんぎ 朝鮮通信使が上陸する桟橋)に接岸し、城下をまわって淀城に入りました。筆者は、淀藩士渡辺善右衛門守業(元禄14年<1701>~宝暦12年<1762>)です。渡辺家の当主は代々善右衛門を称し、淀藩主稲葉家の家臣でした。善右衛門は大変筆まめな人物で、多数の随筆を残しました。延享5年の通信使来航に際しては、通信使饗応役を勤め、その見聞記は詳細を極めます。 「朝鮮人来聘記」(渡辺辰江氏所蔵、京都市歴史資料館寄託) 淀藩士渡辺善右衛門が、延享5年の朝鮮通信使の饗応役にあたった際の応接準備の過程を記したものです。淀藩が準備に勤しんでいる様子が描写されていますが、郡山藩など饗応に関わった他藩の動向も載せています。郡山藩は京都での接待のために「ぶた百疋」を購入しようと長崎へ向かいました。淀藩も豚10匹が必要であると書かれ、長崎で入手を計ったと考えられます。このように通信使に饗された料理の中には豚が含まれ、材料は主に長崎から調達されました。 「朝鮮人来聘附図」(渡辺辰江氏所蔵、京都大学文学研究科図書館所蔵謄写本) 淀藩士渡辺善右衛門が描いた、朝鮮通信使の行列図の写です。パネル展示の箇所は、朝鮮国王から大御所徳川吉宗・将軍徳川家重にあてた国書を携えた使者の行列、通信使の正使(洪啓禧)・副使(南泰耆)の行列です 詳細情報 タイトル 淀渡辺家所蔵朝鮮通信使関係文書 著者 京都市歴史資料館 編 著者標目 京都市歴史資料館 シリーズ名 叢書京都の史料 ; 11 出版地(国名コード) JP 出版地 京都 出版社 京都市歴史資料館 出版年月日等 2010.2 大きさ、容... 続きを読む
羽川藤永筆『朝鮮通信使来朝図』江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使 8月 19, 2017 羽川藤永筆『朝鮮通信使来朝図』。江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使の行列を描く。 延享5年(1748)頃 羽川藤永筆 . 紙本著色、 69.7×91.2、 1幅、 池長孟コレクション 「 儀を正して整然と行進する騎馬人物を含む朝鮮通信使を透視図法を採りいれて描いた風景画。このような様式は1740年代の江戸に誕生し、画中の事物が立体的に見えることから浮絵 (うきえ) と呼ばれた。本図の箱書きにも「浮絵」と見える。本図は将軍の交替の際などに来日した朝鮮通信使のうち、寛延元年(1748)第10回の通信使の行列をもとにして描いていると推定される。要人とその一行が将軍への挨拶を終えて、使館の浅草本願寺へ戻るため常磐橋 (ときわばし) を渡り、本町 (ほんちょう) 二丁目を過ぎていく情景を描いている。 収納箱の貼紙からこの図が、徳川吉宗の第二子、田安宗武の子で、宝暦3年(1753)に9歳で夭折した小次郎(孝慈院)の愛玩の作品であったことがわかる。小次郎の死後、宝暦4年に理性院尼から東叡山寛永寺の子院で、小次郎が葬られた凌雲院の僧正光俊に贈られ、さらに光俊から宝暦11年(1761)に延暦寺までもたらされたらしい。」 (http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/701.html) 本図が朝鮮通信使とは異なるため、山王祭りの唐人行列と見なす意見がある。私も同意見である。 続きを読む
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