筆談唱和に「旧法あり」-- -草場珮川著『津島日記』を中心に
筆談唱和に「旧法あり」
-草場珮川著『津島日記』を中心に
1. はじめに
本稿の目的は、江戸時代に12回にわたり訪日した朝鮮通信使と日本人との間に行われた筆談唱和の実相に関して、草場珮川著『津島日記』を通して、主に約束事や制約などの「旧法」の有無を検討することにある。
周知の記事であるが、
「按ずるに、かの使者来聘ごとに、必筆談唱和あり。天和正徳の頃よりして、その事やや盛なり、その書類冊をなすもの百数十巻にいたる」(『通航一覧』巻108、朝鮮国部84、263頁)
とあるように、当時から朝鮮通信使たちの筆談唱和の刊本や写本が多数知られていた。高橋昌彦氏の労作「和韓唱酬・筆語図書目録」下関女子短期大学紀要9号、下関女子短期大学、1990年)によって現存する筆談唱和集のリストが作成され、その全貌の一端が判明した。そのリストを出発点として、新資料発見のたびに、また各地の訪書の途次に偶見した異本などの諸資料を高橋氏は増収しているが、機会を得て、高橋氏から最新版を提供して頂き、拙編『Global時代の朝鮮通信使』(花書院、2010年、211―291頁)に収録したことがある。最新情報によると、現在までに165篇(刊本、もしくは写本)の筆談唱和集の現存が確認できる1。
(1)寛永13年度----4
(2)寛永20年度----3
(3)明暦元年度----5
(4)天和2年度----15
(5)正徳元年度----25
(6)享保4年度----21
(7)延享5年度----40
(8)宝暦14年度----43
(9)文化8年度----9
ところで、その研究数は必ずしも多くないものの、筆談唱和の内容分析などに関する文学的あるいは思想的研究は着手済みであると言って良い。しかしながら、筆談唱和がいかに行われたか、あるいは筆談唱和は誰にもオープンに開かれたものか、さらには江戸幕府側が制定した筆談唱和をめぐる規約が存在したかなどを解明した研究は、管見の限りでは知らない。本研究の狙いは、ここにある。
ところで、ふと考えてみるならば、そもそも朝鮮通信使一行には、毎回、対馬藩所属の朝鮮語通詞や朝鮮国側の日本語通詞も同行しており、朝鮮人と日本人の間のコミュニケーションに不便が無かったはずである。例えば、江戸時代で最初の慶長12年度の朝鮮通信使約500名には、都訓導各1名・訳官6名・小通事4名(宣祖40年7月17日条)など10名を超える朝鮮人日本語通詞が同行した。一方、朝鮮通信使来日時に動員される対馬藩側の朝鮮語通詞は、田代和生によると、例えば第9回目の派遣にあたる享保四年時(1719)の随行通詞の場合、47人もの通詞が動員されたという(田代、1991年、80頁)。朝鮮通信使来日時のさいの約50人もの通詞の動員は、なにも享保時だけではなく、むしろ慣例に従った人数であった。
「通詞之数被相尋候ハハ、通詞下知役と申候而小給人より十人、通詞五十人程被申附置候由承候と、相答可申事。」(宗家記録『延享信使記録』第七冊、「八、宿検分之人并先触足軽差越候覚書」慶應義塾大学図書館蔵。田代、1991年、64頁よりの再引用)
そのことは、第10回目の通信使来日時の延享5年の47人、第11回目の宝暦14年時の47人などを知ると、ほぼこの対馬藩の朝鮮語通詞の数47人は前例主義を遵守することによって、慣例化したといってよく、対馬藩では朝鮮通信使の来日に備えて、常時この50人前後の通詞の確保を必要としたのであった。したがって朝鮮通信使に随行する対馬藩朝鮮語通詞の中でも、その50人前後の中から選抜された通詞のリーダーである大通詞らは、卓越した朝鮮語運用能力を有していたはずである。
つまり、彼らの朝鮮語(もしくは日本語)を駆使すれば、日本人文士たちは朝鮮通信使一行との間のコミュニケーションに悩むことなど不要であったと推定するのが、自然である。当然ながら漢字を媒介とする筆談も不必要であったとも考えられるが、事実は多数の筆談集を書き残しており、その理由こそが本稿で究明すべき課題の一つとなろう。換言すれば、通訳を介した日本語や朝鮮語による記録ではなく、やむを得ず漢字による記録類(筆談など)を残したかった、もしくは残さざるを得なかった理由などである。
そして、もう一つの疑問にも回答しなくてはなるまい。日本語でもなく朝鮮語でもなく、中国語によるコミュニケーションが可能であったと推察されるにも拘わらず、なぜ中国語が駆使されなかったか、である。当時に、日本列島内で調達できた言語別の通詞は、
①中国語、②朝鮮語、③アイヌ語、④トンキン語、⑤シャム語、⑥モール語などであり、一方、朝鮮側にしても①中国語、②日本語、③女真語(満州語)、④蒙古語であったので、少なくとも中国語でも可能であったと想像できる。しかしながら、たとえ荻生徂徠学派が「明古文辞学の修練と唐音」を課したとしても、そしてたとえ対馬藩の儒者雨森芳洲が唐音稽古に、長崎に遊学し(第一回は元禄五年<1692>、第二回目は元禄九年<1696
>)、
「余廿三歳、初学唐話於心越師会下白足恵厳也、廿六歳適長崎授業於上野玄貞、至五十余年、其間能会音読与唐人一般者、只看得三人、一曰林道栄、二曰北山寿安、三曰釈月潭、今即亡矣」 (「音読要訣抄」『芳州先生文抄』所収、泉-116頁)
と有るように、熱心に学習したとしても、芳洲の師である上野玄貞(中国名「國思靖(1661-1713)」)の言語は、中国杭州海寧の医師蒋眉山に学んだ中国語、つまり南京語であった。
若木太一氏によると、江戸時代長崎に在住した唐通詞たちの使用言語は、
①南京口、
②福州口、
③漳州口、
④泉州口
であったという(若木太一「唐話辞書・東京語辞書・朝鮮語辞書」『辞書遊歩』九州大学出版会、3-16頁、2004年)。この中国語は長崎に入港する唐船の乗組員の出身地の言語に合わせたはずであり、結果的に、
「深見新右衛門唐音妙手、南音のみ存し、北音を不知故に、朝鮮の唐音は
北音なり」(『通航一覧』巻110、290-291頁)
とあるように、南京口などの南音の日本人と北京語など北音の朝鮮人との間で、そのコミュニケーションははなはだ困難であった。文化度にしても、草場珮川の日記に残るように、
「初会の日、余、華音を詠せし後、師の話に、前度は、韓客、邦儒を睥睨して、倭人華音に通ぜす」(『津島日記』下、34B)
とある。したがって、日朝双方共に、その中国語が南音-北音であったために、その間で「唐話」によるコミュニケーションが成立したと考えがたい。
それゆえに、本稿では、筆談唱和などが漢文で唯一可能であったことを再確認した後、もう一つの疑問にも回答しておきたい。それは筆談・唱和であったとすれば、日朝双方に記録が残されなくてはならないはずである。しかしながら、日本側に大量に残存するのに対して、寡聞にして、朝鮮側に筆談唱和集などの関連資料がほとんど残されていないことである。このアンバランスが何を意味するのかなどを考察すべきであるが、この点は後日を期したい。
1. 筆談唱和に「旧法」あり
『津島日記』中には、朝鮮通信使と日本人の筆談唱和に関する記述が散見する。それを、日を追って随時検討する。
2.1 文化8年5月12日条
この日に、石川彦岳(小倉藩校思永館の学頭、1746-1815)の子宗吉らが来訪し、彼の亡父(珮川の誤記で、祖父の石川麟洲<1707-1759 >)が明和度朝鮮通信使来訪時<1764年>に、その3年前から書きためた「文翰」を通信使に見せたいと願ったが、病を得て、その志が適わず、慚愧の念を以て逝去したと珮川に語る。宗吉持参の文翰(石川麟洲及び彦岳かは不分明)は、「その後、右の筆語などの願いも遂に許されず」と珮川は日記に記す。ここで注目すべきは、石川宗吉の願いは「遂に許されず」とあり、誰かが何かの「許認可」権限を持っていたと判明することである。
そして、筆談唱和といえども、直接に日本人と朝鮮通信使とが対座して、詩文や文翰の贈答をするのではなく、間接的に送付されてきたそれらを朝鮮通信使が筆耕する場合もあったと推定して良いはずである。そのことは、
「又、同藩〔小倉藩〕の医、某韓客に贈らんとて托せし作とて、7言200韻の長律を示さる、淄山(樋口淄山、会津藩の儒者)と共に此を読み、ただ倦くことを覚ふ。やがて又、脇坂侯(播磨竜野藩主脇坂安親、1738~1810年)の文学股野嘉善の話に、龍野の人このたび贈韓の詩800韻を賦して托せりと、余り伝観に暇あらず、此等韓客に投贈のことを謀られけれども遂にかなわず」(『津島日記』上、29A-29B)
とある文によっても判明するに違いない。
2.2 文化8年6月3日条
この日に、草場珮川は次のような貴重な記述を残す。「筆談のこと、旧来の官法あり」、と。これまで、朝鮮通信使が来訪するたびに、殺到する日本人との間の筆談唱和がいかに行われていたかを知る手がかりに欠けていただけに、この情報は貴重である。
「筆談のこと、旧来の官法あり、左に録す。前々来聘の節、朝鮮人へ出会、詩文・手跡等を見せ、唱和等相望そろ人も有之そろに付、申上そろ趣且は、仰出されそろ御旨等左に申上そろ」『津島日記』下、22A)
とあり、旧法とは次の通りである。
「宝暦13年(1763)7月9日、信使御用掛、松平左近将監様え左の書付差出、
朝鮮人へ出会、詩文・手跡等を見せ、唱和等相望そろ人も有之そろ処、不堪能の人も可有之、又は日本の事績、或は軍書等を真文に直し、摠て御国事に関りそろ義、筆談有之そろても如何敷に付、享保・延享共に右の段申上そろて、御書付を以、被仰せ出そろ、此度も先例の通、被命せ出被下度奉存そろ、依之、延享年御渡被成そろ御書付の写、奉入御覧そろ、以上。 宗対馬守内 古川大炊」(『津島日記』下、22A-22B)
とあるように、まず詩文・手跡に不堪能の人を排除し、朝鮮通信使に近づけることを禁止した。そして「日本の事績、或は軍書等」を真文(漢文)に翻訳することも厳禁とした。享保度〔1719〕・延享度〔1748〕に出された書付の先例を踏まえて、文化度も実施されたという。
「但、延享年に御渡なされそろ御書付、宝暦年御達同様の御書付に付、爰に別て書載不仕そろ」(『津島日記』下、22B)
とあることによって、それを裏付けよう。
今、その書付を探し得ないが、草場珮川が事実に反することを言い立てているとは思われず、むしろ真実に近いに違いない。つまり享保度朝鮮通信使から、筆談唱和に関する官法が定められたと考えて大過ないだろう。
2.3 文化8年6月20日条
この日に、珮川は宝暦13年〔1763〕9月5日付けの松平左近将監の書付を書き残している。それによると、次のように幕命で対馬藩の手で人物の事前審査があったとある。
「朝鮮人へ致対談度由、儒者医師にかぎらず、願の義、対馬守へ相達そろ者有之そろとも、猥に出会の義不可然そろ、対馬守方にて、得と吟味をとげ、致筆談そろても苦からさる学才の者は、出会せ可被申そろ、又は詩文・手跡等、朝鮮人へ見せ申度由、相願そろ者有之そろとも、可為同然そろ、然しながら学才の不勝そろとも、何ぞ朝鮮人へ相尋度品も有之、対談の義懇望の者は、其人の様子次第、筆談等為致可申そろ、尤京・大坂にをいても、右同様たるへくそろ」(『津島日記』下、22B―23B)
とあり、要するに、
1、「儒者医師にかぎらず、願の義」はすべて対馬守へ届け出ること
2、対馬守が「得と吟味を」すること
3、筆談をするときに「苦からさる学才の者」は、朝鮮人に面談させても良く、また、詩文・手跡等に関しても同様に恥ずかしくない質の高いものを朝鮮人へみせること。
4、「何ぞ朝鮮人へ相尋度品」がある者には、その人物の「様子次第」(人品・風格・教養などか)で筆談等を許すこと。
5、京都や大坂でも、同様に取り扱うこと
とした。
こうした規定は、明和元年(1764)にも存在し、下記の通りであった。
「明和元申年正月16日
一、左の書付松平右近将監被相達候、(自注、16日出る書付也)
朝鮮人へ詩作贈答并筆談等に罷出そろ者、一通りの対話の趣意相認そろ儀、且古来より二義両説の疑敷所杯を談じ、或は風雅を以贈答仕そろ様なる事は不苦候へとも、一分の学力を自負しそろため、其国をなちり、彼国を貴みそろとて我国をあざけりそろ様なる筆談等、第一国体を不辨筋違の様相見そろ、林大学頭にては天和以来弟子ども差出そろ節、詩作贈答はかりにて筆談等は決て仕ましき段、堅申付来そろ、依之此度出席の者共、右に準し詩作之唱和は格別、国体を心得違の様なる無用の雑事筆談不仕様可相心得そろ、右筆談并詩作唱和の度々、役人其席に 立合不洩様取集、林大学頭方へ不残差出そろ筈にそろ、且又筆談の儀相願候者の外給仕等に罷出、又は相願難罷出者ともは、筆談出席の者杯、相願そろて詩文贈答仕来そろ者も有之様相聞、此儀は猶以如何成事にそろ間、相願そろ人数の外は詩作贈答堅仕間敷事そろ」(『津島日記』下23B―24B、なおほぼ同文は『通航一覧』巻111、朝鮮国部、312頁にも有る)
とある。また、付言して、
「右の通相触そろ間、書面の趣に相心得られ、役人附添無油断吟味いたし猥に無之様可被心得そろ、尤筆談并詩作等不洩様取集、林大学頭方へさ出るそろ様可被致そろ」
ともある。
これによれば、「一分の学力を自負しそろため、其国をなちり、彼国を貴みそろとて我国をあざけりそろ様なる筆談等、第一国体を不辨筋違の様相見そろ」(『津島日記』下24A)を戒め、そして「右筆談并詩作唱和の度々、役人其席に立合不洩様取集、林大学頭方へ不残差出そろ筈にそろ」が要求され、彼らが筆談唱和内容をすべて林家に提出し、校閲(もしくは検閲)を受けていたことと判明する。加えて、詩作・唱和のたびに「役人其席に立合、不漏様取集、林大学頭方へ不残差出そろ筈にそろ」とあり、対馬藩の役人が陪席し、監督したと有る以上通説のように、自由闊達な雰囲気の中で、筆談唱和が交わされたと理解しては、事実を見誤るに違いない。
しかも、なぜ、筆談唱和は朝鮮語で作成されなかったかという疑問に対する回答を予測させるに違いない。つまり、林家が校閲(もしくは検閲)するときに、その業務の遂行に支障が生じるからであると考えて大過ないだろう。ちなみに、
「6月22日
林家及遠山監察に筆談の上呈2通共に吾師より封送せられ輯録の事、甚急卒混雑せり」(『津島日記』下、28B)
とあったという。
さて、こうした日本側の自己規制は、遅くとも天和2年(1682)から始まっていたとみてよいはずで、前記の引用文とは、若干の語句の出入りはあるものの、
「朝鮮人え詩作贈答并筆談等に罷出候者、人通りの対話の趣意相認候処、且古来二義両説之疑敷所などを談、或風雅を以贈答仕候様成事は不苦候得共、一分之学力を自負之為、異国をなじり、彼国(「我国」の誤りか、存疑—引用者)をあざけり候様成筆談等、第一国体不辨并筋違候様相見に付、林大学頭方にては天和以来弟子とも差出候節、詩作贈答計に而筆談等決而仕間敷段堅申付来候、云々(柳営日次記、御願書)」(『通航一覧』巻110、朝鮮国部86、287頁)
とある。
結果的に、文化度朝鮮通信使来日時においても、
「一 朝鮮人へ対面詩作贈答并筆談等の義、公儀に相願そろ人有之、願の通御免なされ候へは其人々対馬守得其そろ様にとの御事以御書附御達有之そろ
右の通留書にて相考申上そろ 以上
8月7日 大森繁右衛門」(『津島日記』下、24B-25A)
とあるように、家老大森繁右衛門の指示が出された。
2.4 文化8年6月21日条
この日には、
「午時、我師客館に入て筆談あり、余、淄川共に、陪従す。」
とありて、 師精里や門人淄川とともに、草場珮川は筆談の場に臨むこととなる。
「筆談は座敷二の間に於いてす、次の間に属監察出席あり、対州の儒吏も陪
坐す」(『津島日記』下、25B)
とあり、規定に従って、対馬藩の儒者が陪席し、筆談を見守ったという。ただし、監察役(遠山景晋)はやがて退席し、対馬藩の役人の案内で、師古賀精里が着席したという。草場珮川も「次の間」にて見守った。すると正使と副使が着席し、精里が「礼」をもって迎えた。
上記の規定が天和2年頃に書付で公布され、それは文化度にまで遵守されたと断じてよいはずである。草場珮川が言う「旧法」とは、天和2年・明暦元年の布告であった。
2. 「入声押韻を許されし」朝鮮文人
「ただ徳望を重する故に、格を破て、これに及ぶ」
とある。ここで重要なのは、「格を破て」である。つまり規則を逸脱した漢詩の指摘である。ここでは具体的に、どの漢詩の、どの箇所の語が「平仄を誤った」破格であるか未記載で有り、具体的な破格を提示できないことを残念に考えるものの、ここで思い出すのは、次の記事である。
「我東科詩、頗具音調、蓋亦古詩之流、然古詩則通押入聲、科詩則一切不押、豈非陋規且科賦不拘四聲、随口通押、命曰、嘴韻、無所顧忌、至於増韻、 固多好字、如支韻之◆字獅字之類、及其見於経傳之字、 本非迂僻、 而不敢通押、亦甚無謂、自今主試者、詩則許押入聲及増韻、賦則依例通転、俾存界限、期還大雅」(「奎章全韻凡例」『雅亭遺稿』巻5、28張A-B。韓国学中央研究院図書館蔵、ただし、本記事は『奎章全韻』現行本<拙蔵>に未収録)
注目すべきは、「奎章全韻凡例」の著者である李徳懋らの
「自今主試者、詩則許押入聲及増韻」
の記事である。研究史を辿るならば、管見によれば、本記事に止目した最初の専門家は佐藤進氏であった。佐藤氏の功績は高く評価しなくてはならないのは、次の指摘である。
「『奎章全韻』で入声の扱いを他の三声と同等にした「四格主義」と、「意諮如也」の御題との関連の強さはうたがうべくもない。入声押韻を科場においても許すという方針が、科場そのものではないにしろ実際に適用された一例とみてもよいと思う。」(佐藤進「李朝の韻書と漢詩押韻の変革文字使用政策の一例として」『国立民族学博物館研究報告』9巻―3号、1984年、631―644頁)
我々の観点から議論を整理するならば、「奎章全韻凡例」が提示したのは、朝鮮国の科挙詩における変革であった。
「尚ほ本書の到布により從來行われ來たった三韻主義の押韻法を根抵から覆さんとしたことが伺はれる」(小倉進平『朝鮮語学史』、刀江書院、1964年、524―525頁)
と、小倉の教示通りに、そもそも「入声押韻を許さず」という中国や日本での漢詩作法の原則を、朝鮮の正祖王は御定『奎章全韻』でもって覆したと考えられる。
とするならば、今後、少なくとも文化度朝鮮通信使唱和集などを読み解く上で、この佐藤進の卓説を念頭に置きながら、両国文人の唱和を観察しなくてはならないに違いない。なぜならば、両国文人が気づきながらも、互いに遠慮しながら漢詩の破格を明示せず、相手方を慮って、それでいて、「すれ違い」のままであった漢詩作法は、上記の理由であったという仮説を提示しておきたい。
それを裏付けるように、
「初会の日、余、華音を詠せし後、師の話に前度は韓客、邦儒を睥睨して、倭人華音に通ぜす、詩韻調律に不諧はなどど謗り、その国音を華に同きように誑き誇れるゆへ、汝に一詠を命せしなり、此たびは得て誑き誇ることはあるましきぞ、と云て一哂せらる」(『津島日記』下、34B)
という誤解が発生する原因も、上記の説明で諒解されるに違いない。
ところで、朝鮮通信使と言えば、日朝両国の「平和と友好の象徴」であるとか、あるいは朝鮮の先進文化を日本に伝えたという「小中華論」(韓国高校国定教科書『国史』2002年版など多数)を韓国側から提示されて、日本側でも無批判に鵜呑みしつつ、それを増幅して声高に主張する方々も決して少なくない。そうした風潮に安易に迎合せず、以下の夫馬進氏の所論に有る通り、
「朝鮮、日本、中国が当時それぞれに置かれていた文化学術の位相とその変化を測ろうとする試みや、両使節(引用者註:燕行使と朝鮮通信使)によって獲得された異国の学術情報がソウルにおいてどのように交差したのかを明らかにする試みは、これまではほとんどなかった」(夫馬進「朝鮮通信使による日本古学の認識」『思想』981号、2006年1月号、4頁)
また、
「あと一つの問題は、たとえば宋学すなわち朱子学の日本ヘの伝播、あるいは日本と朝鮮の朱子学者の交流に関する研究に見られるように、通信使といえば朝鮮文化を日本に伝えた役割のみが強調されてきたかに見えることである」(夫馬進、同上、4頁)
の驥尾に付して、いささか言及するならば、次の通りである。
まずは、草場珮川の日記に注目しよう。
「以前は、彼より堀川護園の学風を破して、本邦の諸儒往々朱子正大の学術に由ずして、邪路に迷へるは、可憫むことなりと、所謂李退渓・鄭栗谷(李珥<1536年-1584年>の誤りか。李珥は、号は栗谷、字は叔献、徳水人)などを盾にして、毎々我れを攻撃せしこと、諸筆談集に見えたり、このたひは吾師、大学纂釈等の著述もありて、我邦学風の正きに帰せしことを賞嘆せり、最後に彼より我に贈りし冗長なる書牘あり、その中に陸学を混用せし説あり。吾師此説は、為に蔵拙すべきとのことゆへ、筆談中には脱し置ぬ」(『津島日記』)
とあり、金科玉条のごとく朱子学を尊崇し、猛然と「攻撃」してきた彼ら朝鮮通信使たちが、「我邦学風の正きに帰せしことを賞嘆せり」という。この場合の「我邦学風」とは、その直前の文に「以前は彼より堀川・蘐園の学風を破して本邦の諸儒往々朱子正大の学術に由ずして邪路に迷へるは可憫ことなりと」〔142枚目)とある事から判断して、「堀川(伊藤古義堂)・蘐園(荻生徂徠)」を示すと断じて良いだろう。観点を変えれば、「堀川(伊藤古義堂)・蘐園(荻生徂徠)」でなければ、朱子学一辺倒の朝鮮通信使が「正きに帰せしことを賞嘆せり」という文意と一致しない。しかも朱子の論敵であった陸象山の学説を「混用した書牘」が朝鮮通信使から草場珮川へ送られてきたともある。草場珮川の言は「身びいき」もあるだろうから、若干の差し引きをせざるをえないだとう。
誤りを恐れずに云えば、朝鮮では長く「異端の学」であった王陽明や陸象山の学説にも通じ、日本の古学派や徂徠学派らの書籍にも理解を示すことで、文化度の朝鮮通信使一行の中の幾人かは、中国の新しい思想界の動きを無視できないと気づいていたと考えるのが自然だろう[2]。
4. おわりにかえて—朝鮮通信使との筆談唱和
本稿の目的である「朝鮮通信使との筆談唱和に法ありや、なきや」の問いに対する回答は、この時点で再言するまでもあるまい。誰しもが予測するとおり、自由に気楽に朝鮮通信使との筆談唱和を楽しむことはあり得なかった。むしろ事前申請・申請者の教養レベルなどの審査・事前検閲・立ち会い・筆談唱和中の話題やトピックのチェックなど、加えて事後の筆談唱和内容の校閲(もしくは検閲)も林家の手で実施するなど、幕府側は想定される限りの諸制限を加えたと考えて良い。いわば「がんじがらめの縛り」の中で、監視付きの筆談唱和の光景を思い浮かべなくてはならないだろう。とすれば、多くの方の疑問は、それは何時から始まったのか、であるまいか。現存する資料に依拠する限り、それに対する正解を提示し得ないのは残念であるが、遅くとも享保度(1719年)には「筆談唱和の法」が実施されていたと考えたい。
さて、残された問題も多いものの、与えられた紙面は尽きており、詳細な考察は後日に譲るが、いくつかの点だけは、その見通しを述べておきたい。
その1:朝鮮通信使筆談唱和集とは、朝鮮人通信使との対談記録集であるものの、その一方で、語りたくても、語り合えなかったことを、「掟通りに」語らなかったことの証明書である。一方、朝鮮人文人が語りたかった「朱子学尊崇」は朝鮮国の国法通りに主張しつづけ、日本の陽明学者や古義堂学派や蘐園学派などの雑音に惑わされなかったという証明書とも成るはずである。ただし、朝鮮国でそれが要求されたかどうかは不明である。
その2:朝鮮通信使唱和集とは、文人サークル集である。例えば、『七家唱和集』(10巻10冊)が室鳩巣・祇園南海など木下順庵門下7人の唱和集であり、そして『問槎畸賞』(3巻3冊)が、荻生徂徠門下夷之唱和集であることからも、むげにその考えを一笑に付すことはできないだろう。
その3:朝鮮通信使筆談唱和集とは、漢学者や文人の令名を上げ、仕官したり、門人を集めるための目的で編集されたものである。つまり、当代にあって、優れた漢学者であるとか、詩人であるという全国レベルでの評価者が不在であったために、外国から来訪した朝鮮通信使スタンダードを導入し、彼らによる認定を受けたという証明書が、彼らとの筆談唱和集であったと仮説しておきたい。それゆえに、筆談唱和集の刊行によって、どの地域に、いかなる高名で実力を有する漢学者や詩人がいるか、を教える便利帳であったと言えば、うがちすぎかもしれない。管宗次氏が的確に指摘するように、朝鮮通信使との筆談唱和は、
「披露場と考えたからに他ならない。己れの力量や日頃の学問の精進の如何が試される貴重な体験でもあった。」(「朝鮮通信使文芸資料〔新出〕をめぐって」『日本文化学報』第15号、2002年173頁)
と見なすべきである。また、鈴木健一氏が喝破するように、
「日本の詩人たちにとってこの通信使との贈答は、実力を試すという実技的なレベルと、名声を得るという処世的なレベルの両方において、一流詩人への階梯の一つと捉えられていた。彼ら(引用者註:日本の詩人たち)はそれに向けて一度きりの絶好の機会とばかりに鼻息も荒く勢い込んでやって来るのである」(鈴木健一「李東郭の詩二題」『日本思想史』49号、1996年、4頁)
という。
朝鮮通信使筆談唱和集の研究は、その端緒についたばかりである。
[1]
本稿では、影印および翻字、解説(長正統執筆)を付して刊行された『津島日記』(西日本文化協会版、上下、昭和53年)を活用することとして、今、書誌情報の詳細は長正統氏の解説に譲りたい。
[2] 夫馬進氏の力編『朝鮮燕行使と朝鮮通信使』名古屋大学出版会、699頁、2015年を参照すべし。
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