延享5年の朝鮮通信使

 

延享5年の朝鮮通信使

 

(1)  8代将軍徳川吉宗は、老齢を理由に、延享2年(1745年、英祖21年)9月1日に隠退を公表。

(2)  同日、徳川家重が将軍職を継承。

(3)  延享2年11月2日、将軍宣下の大礼が実施。

(4)  延享2年11月24日、対馬藩平田将監が和館にて、東莱府使沈錘に対して渡した吉宗隠居の報告を、この日、領議政金在魯が英祖に上啓。(『英祖実録』21年11月丙申条。『承政院日記』乾隆10年11月24日条。『備辺司謄録』21年11月26日条)

(5)  延享3年正月、対馬藩浅井与左衛門が礼曹参判金尚魯(?)に徳川家重の襲位を伝える。(『同文彙考』附編巻3、告慶、丙寅、島主告関白新立書)

(6)  延享3年(1746)、幕府は宗対馬守義如に対して、来聘交渉を指示。

「御代替ニ付、朝鮮人来聘之義被相伺候、来々辰年四、五月頃可為来聘旨、被仰出置候段、可被相達候、以上

 

寅八月廿七日」(「延享信使記録」下、吉宗様御隠居家重様江御代御譲り初而殿様御参勤被成信使御伺被蒙仰候覚書、『宗家記録』慶應義塾大学図書館蔵)

(7)  朝鮮の礼曹参判金尚魯からの返書(延享3年3月)

「恵音遠届、慰荷良深、■ (人+乃)聞、貴大君克紹前烈、不■(ヨウ)洪緒、要我通信修■(ケツ)旧好、茲■(人+乃)善隣之誼、■(褐、衣の無い文字)勝欣感之私、使行程期当如来示、謹領珍■(月+兄)、略伸韮儀、統希照亮、不備」(「延享信使記録」下、吉宗様御隠居家重様江御代御譲り初而殿様御参勤被成信使御伺被蒙仰候覚書、『宗家記録』慶應義塾大学図書館蔵)

(8)  対馬藩からの渡海訳官の要請は、訳官迎裁判である鈴木文之進の手でなされた。

(9)  延享3年(英祖22年、1746年)9月21日、寺社奉行秋元攝津守・大目付河野豊前守・勘定奉行逸見出羽守が朝鮮人来聘御用掛を命じられた。

(10)延享3年12月、修聘使正官古川主典・都船主杉村帯刀、封進阿比留太郎八が和館にて、東莱府使に対して来聘期日を通告。

(11)延享4年1月23日、老中酒井雅楽頭より朝鮮人街道沿道の各藩に御用掛が通達された。

   「朝鮮人来朝に付、道中筋江戸表に而彼是取繕候儀、手重にして結構に取繕候に者及ぶ間敷候、万事不滞様申付、掃除等之儀申付候はは可相済候」(『通航一覧』巻き40、朝鮮国部16、来聘御用掛附御書付類御褒美等・寛延度)

(12)延享4年3月21日、朝鮮王朝は通信使を任命。上使(洪啓禧)、副使南泰耆、従事官曹命采。

 

 

(13)延享4年4月から9月、町々への心得の通達。

   「朝鮮人通筋之町々、格別道悪敷所計道作可申候、尤隣町見渡能様に作可申候、惣而掃除は到着1日前に可仕候、道作候儀も到着二三日前に出来候積に仕、出来候は其筋より朝鮮人通候当日迄、牛車、大八車、右之道筋通申間敷候」(『通航一覧』巻47、朝鮮国部23、信使来聘に付町触れ等・寛延度)

(14)延享4年八月、対馬藩から迎聘参判使・大浦兵左衛門、都船主・松浦賛治が和館に到着。

(15)延享4年(英祖23年、1747)11月28日、通信使一行が漢城を出発。

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