朝鮮通信使と神奈川―延享年中・宝暦年中の通信使来日と神奈川のかかわり― 神奈川県立公文書 郷土資料課 小澤昭子氏の労作
神奈川県立公文書 郷土資料課 小澤昭子氏の労作
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【史料1-1】
延享三丙寅年九月
来々辰四月頃、朝鮮人来朝之筈候間、諸事享保度之通、被相心得伺等可被差出候
【史料1-2】
一 朝鮮人来朝に付、道中筋江戸表にて、彼是取繕候儀手重く結構には及間敷候、万事無滞様に申付、掃除等の儀申付候はゝ相済候
一 正徳之時分者、手重く取繕候儀も有之様に相聞候、此段紛不申候様に取計可然候
(『通航一覧 巻45』)
ちなみに正徳年中の状況を『通航一覧』でみると、正徳元年に「今度朝鮮人通候道筋、武家屋敷大門を開、金屏風を建、幕は段子、外幕は紫絹、或は晒、弓鉄砲飾立、番人麻上下、随分花やかに致候様被仰付候、町々も金屏風幕をうち、男女見物致候、幕は縮緬、白段子、紗綾、御所染類之幕打、おもひおもひ花やかに飾申候」とあり、豪華絢爛な飾りつけがなされていたことがわかる。
通信使の来日が決まると朝鮮人御用の担当となった役人によって、前回の来日時に納入した物品や差出した人足等についての調査が行われる。それと同時に前回又は前々回の来日に関する書付の提出を求められることもあった。延享4年には東海道・美濃路の宿場の問屋・年寄に書付の有無を尋ねるとともに、関連書類の提出を求める触が出されている。
【史料2】『延享三丙寅年十一月より 朝鮮人一件御用留帳』(部分)
乍恐書附ヲ以奉願上候御事
東海道宿々問屋・年寄
一 来辰年朝鮮人来朝ニ付、正徳年中来朝之節書物等可有之、所持仕候宿々差出シ候様被仰渡候ニ付、書留メ置人馬帳面有之候宿々ハ差上ケ申候、
(中略)
延享四年寅(卯)二月七日
東海道・美濃路共 宿々問屋・年寄
御六人 御代官様
(『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 藤沢市平野雅道氏所蔵文書)
こののち朝鮮通信使が通行する宿々や間の村々に対して、「先格」の聴き取り調査が行われるが、県内では藤沢宿御賄所(木村雲八・柴村藤右衛門ともに宿々賄代官)が御用を負担する村々に対し、延享4年に次のような内容の調査を行っている。
【史料3-1】『延享年中御用日記』(部分)
御廻状写
来辰年朝鮮人来朝ニ付、藤沢宿御賄所江村々より指出候品々左之通
一 人足 一 猪鹿 一 魚串、豆腐串 一 竹箒 一 杉はし
一 菖葉 一 青物野菜類 一 魚鳥類品々 一 貝類品々
右者享保年中朝鮮人来朝之節、藤沢宿御賄所江村々より差出候所、先格を以来辰年来朝之節も右同様被仰付候間、先格何品ニよらす御賄所へ指出候村々ハ、何品何ほと先格差出候と申儀并村高・御地頭付共書付致、来ル廿日迄藤沢宿自分共旅宿へ無間違持参可被致候、尤其節右ニ付御用有之間、村役人印形持参、名主・与頭之内可被罷出候
一 右品々先格差出有無村中とくと吟味之上、指出候例無之村々ハ廻状村名上ニ其断書致、村下ニ印形可被致候、若申偽隠置、後日於相知ハ其村々可為越度候間、可得其意候
(中略)
卯六月十日
木村雲八手代 吉岡勘九郎印
柴村藤右衛門手代 渡辺幸蔵印
三浦郡
小坪 下平作 上平作 池上 金谷 不入斗 小矢部 森崎 大矢部 衣笠 岩戸 長沢 津久井 上宮田
右村々名主中
(『新横須賀市史 資料編近世1』所収 横須賀市所蔵福本三郎家文書)
金谷村の名主勝右衛門は「御伝馬人足之外に右御書付の品々何にても指出不申候」と廻状の村名の上に書き記している。同上の史料に、名主勝右衛門が後日藤沢宿賄所の手代衆へ提出した証文が書き写されている。
【史料3-2】
藤沢宿ニ而右手代衆へ上ル証文写
一 来辰年朝鮮人来朝御用ニ付、道中継人馬差出シ申候、各々様御廻状之品々人足ハ不及申、其外何ニ而も藤沢宿御賄所へ指出不申候、右之通少も相違無御座候、為其連判指上申候、以上
延享四年卯六月
三浦郡金谷村
名主 藤右衛門印
柴村藤右衛門様御手代 渡辺幸蔵殿
木村雲八様御手代 吉岡勘九郎殿
(同前福本三郎家文書)
また、三浦郡と同じ内容で聴き取り調査が行われた高座郡の村からも、次(継)人馬の外に何も差出していないとの申し出があり、手代が再度確認を促す廻状を出している。
【史料4】『延享四年卯ノ六月 来辰年朝鮮人来朝ニ付被仰渡候御書付写』(部分)
一 享保四年亥年朝鮮人来朝之節藤沢宿御賄所へ村々より差出シ候品々、以先例来辰年来朝之節も藤沢宿御賄所江可為指出旨被仰出候ニ付、此間廻状を以て御賄所働人足、猪・鹿、魚串・豆腐串、竹箒、杉箸、□(青)物野菜類之内何品ニ而茂享保之節差出候村々者可申出旨申達候へ共、宿場次人足之外者何ニ而茂勤不申候由被申聞候、右之内猪・鹿者不指出義茂可有之候得共、御賄所働人足を初、其外品々之儀者鎌倉・高座両郡より差出候儀無紛候間、書物控へ無之候ハヽ、猶又村方年古キ者等承合否之儀、来ル五日迄ニ可被申出候、尤道中次人馬勤候村方者朝鮮人附送り之次人馬ニて候哉、又者朝鮮人次送りニ而者無之、常々之荷物附送り之方相勤候哉、委細書付ニ認可被罷出候、若隠置後日ニ差村等ニ而脇より於相知者、以之外成越度ニ相成候条念入可有吟味候、此廻状村下ニ名主致印形早々相廻シ、留村より可被相返候、以上
卯七月二日 石川より受取葛原へ遣ス
右者 木村雲八手代 吉岡勘九郎
柴村藤右衛門手代 渡辺幸蔵
(『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 藤沢市皆川邦直氏所蔵文書)
手代の再確認を促す廻状に対して、上記の村とは異なるが同じ高座郡の戸田村から、書面は残っていないが村方の申伝えに間違いはないとして連判証文が差出されている。
【史料5】「来辰年朝鮮人来朝藤沢宿賄人足の儀につき一札」
(端裏書)
「中野村へ」
来辰年朝鮮人来朝ニ付、藤沢宿御賄所江村々より差出候品々、享保来朝之格ニ被仰付候間、享保之節、御賄所働人足、青物野菜類・魚串・豆腐串・竹箒・杉箸之内、何品差出候哉可申上候、此義先達而御尋被成候処、道中継送り之外、何ニ而も差出候品、無之旨申上候得共、書面之品々鎌倉・高座之内より差出候儀無紛候間、書面之扣無之候共、猶又村方吟味之上否申上候、尤道中継人馬相勤候与申義ハ、朝鮮人継送り候哉、又ハ其節平日荷物付御吟味ニ付、猶又村中疾与吟味仕、年古キもの承合候得共、右之品々御賄所へ指出候覚無御座候、尤道中人馬之儀ハ、朝鮮人来朝ニ付送り之方相勤、平日荷物付送り之方ハ相勤不申候旨申上候ニ付、又候被仰聞候者享保之節者人馬継請負ニ被仰付、村々より役金差出候義ニ候間、右書面有之候哉、御尋之ニ御座候得共、右書面ハ類焼・流出等之覚も無之候得共、一向無御座候、村方申伝候覚を以申上候段申上候哉、御賄所働人足之義、凡高百石ニ拾人割程之当を以鎌倉・高座両郡より差出候義紛無之候所、右之通り拙者共証拠書物無之、覚を以申上候義、御取用難被成旨被仰聞候趣、逐一承知仕御尤ニ奉存候、来辰年来朝ニ付、藤沢宿御賄所働人足役之義、今般御吟味之上者拙者共違背可仕様無御座候ニ付、人足役之義何分共被仰付次第、少も違背仕間敷候、為其連判証文差上申処、仍而如件
卯七月四日
(相模国大住郡戸田村小塩家文書(神奈川県立公文書館所蔵))
このように手代が入念に確認をとるのは、これが次回の「先格」になるからであり、「先格」となったものを改めるのには相応の理由や裏付けが必要だからである。そのため申し出が認められた村々は、次回のために承認された内容や経過を書きつけ、証拠として残しておくのである。
【史料6】「乍恐書付を以奉願上候」
一 来辰朝鮮人来朝ニ付、御用継人馬藤沢宿より品川宿迄継人馬并馬入船橋御用人足被為仰付候ニ付奉畏存候、其上藤沢宿御賄所并働人足并魚串・豆腐串・竹串・杉箸之物類被仰付候得共、先格右村々より一切相納不申候、依之芝村藤右衛門様・木村雲八様御両所様へ御沙汰候通り御免被遊下候様ニ奉願上候、御慈悲を以御免被遊下候ハヽ難有奉存候、以上
卯九月十日
差上写
願人
蓑笠之助様御手代 本間丹右衛門様
佐々新十郎様御手代 野田郡蔵様
(相模国大住郡戸田村小塩家文書(神奈川県立公文書館所蔵))
ちなみに宝暦14年(明和元年 1764)家治襲職祝賀のため来日した際(当初は宝暦13年(1763)に予定されていた)にも同様の作業が行われており、三浦郡小坪・秋谷・諸磯・和田・上宮田の5か村の返答書がある。この中で三浦郡の5か村では鶏などの品々や賄所働人足は代銀でも納めたことがないとし、その理由としてこの5か村が浦付(漁村)であることをあげている。
【史料7】「乍恐以書付奉申上候」
乍恐以書付奉申上候
一 鶏并玉子 一 あひる 一 水菓子類 一 野菜之類 一 御賄所働人足
一 相州三浦郡秋谷村・小坪村・諸磯村・上宮田村・和田村右五ケ村名主共奉申上候、来ル未年朝鮮人来朝ニ付前書之品々先年茂御賄所江差出候哉、亦者代銀ニ而納候哉否早速可申上旨 御書付を以被 仰渡奉承知候、私共組合村々者前書之品々差出候儀者無之、尤右之品々代銀ニ而相納候儀も無御座候、且斉藤喜六郎様御支配之節私共組合村々者浦付ニ御座候間、延享五辰年来朝之節者藤沢宿泊御賄所御代官木村雲八郎様・柴村藤右衛門様右御両人様江魚類を代銀ニ而差上申候、勿論来未年来朝ニ付藤沢宿泊御賄御代官岩松直右衛門様・泉本儀左衛門様御手代橋本茂四郎殿・望月丈蔵殿右御両人藤沢御旅宿江当六月中私共組合村々不残被召出候処、先年之格通可申上旨被仰渡候間、則前々相納来候魚類代銀之訳書付相認右御手代中江差上申候、右者此度御尋ニ付奉申上候処、少も相違無御座候、以上
三浦郡小坪村 五右衛門
同郡 秋谷村 嘉左衛門
同郡 諸磯村 利兵衛
同郡 和田村 六郎左衛門
同郡上宮田村 喜右衛門
(『新横須賀市史 資料編近世1』所収 横須賀市秋谷若命寿男氏所蔵文書)
2.2 食材の調達
朝鮮通信使の一行350人前後に提供する食材・料理については、身分により中官は2汁6菜、通詞は2汁5菜(宝暦年間大磯宿昼休、帰国時)といったように品数等に規定はあったが、食材は現地調達が基本であった。ちなみに三使(正使・副使・従事官)・上々官・上官には食材供給のみ行われ(調理は通信使に同行した刀尺という専門家が担当(4))、それ以下の中官・下官には日本料理が提供されている(5)。
たとえば、宝暦14年(明和元年 1764)の大磯宿での下行渡(三使昼食分の食材等の供給)は、
- 白米(2升)
- 白味噌(7合5勺)
- 醤油(3合)
- 酢(3合)
- 胡麻油(2合5勺)
- 塩(2合5勺)
- 初首挽茶(5匁)
- 服部刻たばこ(20匁)
といった主食・調味料・嗜好品のほか、
- 鯛(1枚 但長1尺5寸)
- 鰡(ぼら)(1本 但長1尺2寸)
- 甘鯛(3つ 但長8、9寸)
- 大鮑(2つ)
- 鯣(するめ 3枚)
- 鰹節(2つ)
- 鶏(1羽 但活鳥)
- 鶏卵(8つ)
- 猪(1股)
など主菜となるもの、
- 菓子(まんじゅう7つ、求肥、カステラ、あるへい糖、らくがん各半斤)
- 野菜類(大根5本、蕪5本、菜2把半、牛房5本、人参5本、長芋5本、里芋5つ、芋2合5勺、葱2把、芹2把、慈姑5つ、柚5つ、塩松茸5本、椎茸1合、豆腐1丁、蒟蒻2丁、麩5つ、昆布1枚、小麦粉2合、葛2合5勺、胡椒の粉2匁5分、からしの粉1合、芥子1合、黒胡麻1合、山椒1合、生姜2合など)
- その他香物(奈良漬、味噌漬)
- 炭(2詰)
- 薪堅木(7把半)
とあり、食材等の大きさや分量など細かく規定されている。このような食材の供給は三使の他、上々官・上判事・製述官・上官・次官に対しても行われている。
宝暦14年(1764)の来日(帰国時2月14日の分)に際して大磯宿旅館では、三使ら52人分の食糧が下行場に並べられ、唐人3人・対馬守家来2人が立会い、下行渡が行われた(6)。これらの食材は保存が可能なものを除き、大部分は通信使一行が休泊する直近に県内各地で調達されたのである。
これらの食材の調達は入札で行われることもあり、延享年中には藤沢宿の旅館の修復、賄料理、宿へ納入する魚・鳥・野菜などの請負入札が行われている。ただし、この時の藤沢宿賄所からの入札希望者募集に対して、三浦郡の村々からの応募はなかったようである。
【史料8】『延享年中御用日記』(部分)
指上申一札之事
来辰年朝鮮人来朝ニ付、藤沢宿江旅館御修覆入札并御賄御料理、下行後之魚・鳥・野菜・酒・酢・醤油・塩・炭・薪等請負入札、其外御賄所勝手道具損料入札望之者有之候ハヽ、組合村々へ早々相触、来ル十七日・十八日入札披(ママ)候、間ニ合候様ニ望之者ハ当宿へ罷越、早速注文帳写取候様ニ被仰渡承知仕候、
(後略)
(『新横須賀市史 資料編近世1』所収 横須賀市所蔵福本三郎家文書)
藤沢宿へ肴(魚介類)の納入は高座郡・三浦郡の村々に割当てられていた。ただし、実際は三浦郡の漁村が請負ったようで、宝暦年中については、三浦郡秋谷組のうち秋谷村・小坪村・下山口村・芦名村の4か村惣代の名前で、納入する肴の大きさや価格を書き留めた文書が残っている。これによると、鯛をはじめ、鰤・鮑など計18品を採集したのは、三浦郡の浦郷組・三崎組・秋谷組・太田和組に属する35か村で、村々から集められた魚類を秋谷村等の請負人がとりまとめ、代銀を納めた高座郡・三浦郡の村々に替わって藤沢宿の賄所へ納入することになっていた。代銀の合計は1貫800匁9分になる。
【史料9】『宝暦十三年未九月 藤沢宿上肴壱ツ留直段請書写』
一 鯛八枚 目下壱尺五寸 此銀百弐拾弐匁四分 但壱枚ニ付拾五匁三分
一 鰤六本 目下壱尺 此銀三拾弐匁四分 但壱本ニ付五匁四分
一 小鯛弐拾五枚 目下五寸 此銀三拾五匁 但壱枚ニ付壱匁四分
一 鮑 三拾五壷 此銀八拾七匁五分 但壱壷ニ付弐匁五分
一 平目三枚 目下壱尺弐寸 此銀十六匁五分 但壱枚ニ付五匁五分
一 伊勢海老 四百七十五 此銀五百七十匁 但壱ツニ付壱匁弐分
一 車海老百 此銀三拾五匁 但壱ツニ付三分五厘
一 ■(魚偏に及)弐本 下壱尺弐寸 此銀拾匁 但壱本ニ付五匁
一 鰈弐百六拾 目下六寸 此銀五拾六匁五分(弐百六拾匁) 但壱ツニ付壱匁
一 かさこ五拾壱本 此銀九拾六匁九分 但壱ツニ付壱匁九分
一 わらさ四本 目下壱尺四寸 此銀十八匁 但壱本ニ付四匁五分
一 蛸拾九壷 此銀六拾六匁五分 但壱壷ニ付三匁五分
一 鰡七本 目下壱尺四寸 此銀弐拾八匁七分 但壱本ニ付四匁壱分
一 鰍拾五本 目下壱尺三寸 此銀三拾匁 但壱本ニ付弐匁
一 きす百 此銀百弐匁朱 但壱ツニ付壱匁弐分
一 みるかい五拾 此銀四拾五匁 但壱ツニ付九分
一 鰹二拾弐本 目下壱尺弐寸 此銀七拾七匁 但壱本ニ付三匁五分
一 氷魚五拾 此銀百六拾匁 但壱壷ニ付三匁弐分
小以銀壱貫八百匁九分
是ハ右拾八品相州三浦郡浦郷組・三崎組・秋谷組・太田和組御料・私領参拾五ケ村より先格ヲ以差出来候分、直段之義ハ請負人書出候、壱ツ当り直段ヲ以代銀ニ而取立候積り如此候、右当未年朝鮮人来朝ニ付、相州藤沢宿御賄所江同国高座郡・三浦郡御料・私領村々より村役ニ差出候品々藤沢宿御賄所請負人壱ツ当り直段ヲ以被仰触次第代銀差出可申旨被仰渡承知仕奉畏候、右為御請村々惣代之者、連印形差上申候、以上
宝暦十三年未九月
三浦郡秋谷組
伊奈半左衛門御代官所 秋谷村
同御代官所 小坪村
松平三七郎・水野藤次郎知行所 下山口村
稲垣数馬知行所 芦名村
右四ケ村惣代
秋谷村 嘉左衛門
小坪村 新左衛門
(横須賀市秋谷若命又男氏所蔵文書(神奈川県立公文書館所蔵 県史写真製本資料))
また食材を確保するため宿場近郊の村や町に対して、入札時に値段を上げたり、ほかの地域に売ったりしないようにとの触が出されたようで、それに対する請書が残されている。
【史料10】差上申御請書之事
差上申御請書之事
一 当未年朝鮮人来朝ニ付、品川・神奈川両宿御賄ニ達候、家鴨(あひる)・鶏(にわとり)・鶏卵(たまこ)(けいらん)之類売買致候者ハ追々入札申触候間、其心得、此節より囲置有之、重而入札致候節直段等も下直ニ可相成義申付、猥ニ外売買不致候様ニ被仰渡候処、拙者共村方ニ売買致候者一切無御座候、以上宝暦十三未年月
武州橘樹郡神太寺村
名主 太郎右衛門印
年寄 忠右衛門印
伊奈半左衛門様 御役所
(武蔵国橘樹郡神大寺村島田家文書(神奈川県立公文書館所蔵))
ここでは家鴨や鶏、鶏卵に限られているが、食材などで値段が入札によって決定される場合は同様の触が出されたものと考えられる。
2.3 人馬の調達
朝鮮通信使の通行は護衛の対馬藩主や藩士、随行の以酊庵関係者等含め、少なくとも650人~700人の大行列となることから、事前に人員の配置等の綿密な計画をたて、それに応じて人や馬を調達する必要があった。そのため食材の調達以上に前回及び前々回の状況を調査し、適切な対応策をとることが重要となった。
延享年中の通信使来日が決まった(7)のち、割と早い時期に代官斉藤喜六郎から宿人馬の差出し方(人馬賄の儀)について質問が出されたようで、延享4年正月17日に戸塚宿の問屋・年寄をはじめ、藤沢宿問屋、平塚宿年寄、大磯宿年寄から回答が寄せられている。それには正徳年中には宿泊所の戸塚宿へ郡中や隣宿からの人馬100疋100人で御用を勤めたが、遠方の村々は宿泊所に着くまでに3、4日もかかり人馬の矢来詰に苦労したこと、享保年中は町人請負の通し人馬(8)としたが、途中で行き詰って御用に差支えがでたので不足の人馬を急遽継ぎ立てることになり混乱が起ったとある。
【史料11-1】『延享三丙寅年十一月より 朝鮮人一件御用留帳』(部分)
二番
一 来辰年朝鮮人来朝ニ付、先規人馬賄之儀御尋ニ御座候
一 正徳元卯年来朝之節勤方之儀者、御泊ケ所江郡中人馬并隣宿より百疋百人宛御用相勤申候、遠方村方者前後三、四日も相懸り、大分之人馬・宿場矢来ニ仕難義仕候、隣宿ニ而ハ百疋百人御泊り所江差出シ、助郷計ニ而外御用相勤申候所、御通行之間者外御用御飛脚等之方手悪敷御座候事
一 享保四亥年来朝之節者、町人請負ニ而通シ人馬ニ罷成り候、此義如何様之訳ニ而通シ人馬ニ被仰付候哉不奉存候、勤方之儀者朝鮮人一件請負方ニ而引請、宿人馬之儀者平生之通り外御用相勤、勿論百疋百人差出シ候儀無御座ニ勝手宜敷御座候、然所請負余(途)中ニ而不埒ニ罷成り御用差支候ニ付、俄ニ宿々へ被仰付、請負方不足之人馬急ニ継立候故、殊外混雑仕候事
右之通り御座候へ者、今度御用之儀通シ人馬ニ罷成り候へ者、遠方村方矢来詰□難義無御座、隣宿より御泊り所江相詰候義も無御座、方(旁)以宿・郡中共々勝手宜敷御座候、然共右ニ申上候通り請負方ニ差支御座候而ハ難義ニ罷成り候、無差支御用相済申候ハヽ、宿・郡中共御救ニ罷成り申候、以上
卯正月十七日
右宿々問屋・年寄
(『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 藤沢市平野雅道氏所蔵文書)
また、同年2月には道中奉行の神谷志摩守久敬からも通信使が休泊する宿々へ申渡しがあり、同様に正徳・享保年中の事例の確認作業が行われていることが同上の史料からわかる(「宿々申渡ス書付」)。ここでは確認事項の回答部分のみ引用する。
【史料11-2】『延享三丙寅年十一月より 朝鮮人一件御用留帳』(部分)
乍恐書附ヲ以申上候
一 人馬溜メ矢来、先年絵図当時場所見立書付可差出事
此段、別段村絵図書付ヲ以申上候
一 正徳・享保之節人馬出方事
此儀、正徳元卯年ハ朝鮮人戸塚宿泊りニ御座候ニ付、人馬出方之義聢と不奉存候
享保四亥年ハ藤沢宿御泊りニ御座候得共、町人請負人馬ニ而御通り被成候ニ付、人馬員数等不奉存候
一 寄人馬何程宛差出し候哉、賃銭等請取候義有之候哉
此儀、正徳元卯年戸塚宿御泊り所江当宿より人馬百疋百人相詰、中馬(9)御用相勤申候、尤賃銭等請取不奉候
享保四亥年ハ請負通し人馬故、宿人馬之儀自余御用(10)相勤申候
一 寄人馬当日より幾日前ニ場所江揃候哉
此儀、正徳年中戸塚泊り之節、藤沢宿より御泊り御日限より一日前ニ相詰申候、在方詰刻之儀者聢と不奉存候
一 馬飼領(料)何方より渡シ候哉、自分入用ニ出シ候哉
此儀、正徳年中藤沢宿より戸塚宿へ相詰候節者、人足扶持・馬飼領共ニ自分入用ヲ以テ相賄申候
一 来朝より前後ニ罷越朝鮮人荷物者、宿役ニ人馬差出シ候例ニ候弥(哉)、其通りニ候哉
此儀、前後御通朝鮮人御荷物者、宿継ヲ以相賄申候
右之通御尋ニ付、書上仕候所相違無御座候、以上
延享四年卯三月
東海道藤沢宿問屋 七郎右衛門
同 七郎左衛門
名主 彦四郎
年寄 藤右衛門
同 三右衛門
道中 御奉行所様
藤沢宿では正徳元年(1711)は通信使一行が宿泊しておらず、さらに享保4年(1719)も町人請負通人馬であったため、人馬の出方は分からないとしているが、それ以外の質問には回答が認められた。
さらに延享4年6月には、人馬割代官の簑笠之助・佐々新十郎の連名で人馬送りの方法について申渡しがされている。この中で藤沢・戸塚・保土ヶ谷3宿の助郷村は村高100石に付き先年定められた通りに差出し、不足の分を助郷村以外の宿10里内の村々で差出すようにと定めている。
【史料12】『延享四年卯ノ六月 来辰年朝鮮人来朝ニ付被仰渡候御書付写』
一 来辰年朝鮮人来朝ニ付人馬附送り之儀、藤沢・戸塚・保土谷三宿ハ先年指出シ候通り、助郷村々之儀、高百石ニ当り先年之通り人馬指出シ候積り、猶又不足之分ハ助郷外拾里之内村々より為差出、右御用無滞為相勤可申旨被為仰出候条、可奉得其意事
一 右之外増人馬入候節ハ追割可申付候間、是又兼而其心得仕、其節ニ相当り無滞様可仕候、前方覚語(悟)不仕候故、及遅滞候段之断ハ不相立候事
一 本宿并ニ助郷之内より能馬撰出シ、中馬百八拾疋用之、相残宿馬并宿不足之分者朝鮮人方ニ相遣候、依之本宿往還之人馬指遣イ可申候間、助郷村々より本宿之代り人馬百疋百人宛宿々相詰罷有、往還御用無滞相勤可申候事
一 助郷之外村々之儀ハ、不足馬之分馬割付之儀、惣村高書付集り次第其割賦可申候、勿論其節人馬寄所并ニ日限等大積り可申渡候間、是又無遅滞急度指図之場所江寄可申候事
附り、馬無之村々ハ相対ニ而内証雇致候ハヽ、早々雇出シ相談可仕候、尤雇候馬持方より証文取之、写相認指出シ可申候、万一馬無之才覚間違相滞候段後日ニ申出候ハヽ、急度曲事ニ可申付候
一 人馬寄候日限相触候ハヽ、本宿之問屋・年寄ハ勿論、助郷村々名主并助郷之外村々庄屋・年寄等急度相添、人馬召連指図之場所へ罷出、掛り之相対江相達シ、着到ニ付ケ可申候事
一 朝鮮人到着以前人馬共小屋之内江寄集、人馬吟味為致候間、惣而人足之儀ハ老人・童又ハ病身もの・不達者もの指出シ申間鋪候、人馬共ニ不吟味仕儀有之ハ、其宿々村々之問屋・名主等急度曲事ニ可申付候事
一 人馬不自由之村々相対ニ而雇候とても、先方ニ諸事相任セ置候儀仕間鋪候、其村々問屋・名主・年寄ハ御用仕舞候迄ハ急度相詰、無滞様ニ致支配可申候、自然雇渡シニ仕候而、宿々村々問屋・名主・年寄等不相詰候段相聞候ハヽ、急度曲事ニ可申付候事
一 人馬共御用不相仕舞内致紛失候もの有之候ハヽ、其当人ハ勿論、問屋・年寄等迄吟味之上急度可為曲事事
右之趣急度相守可申候、万一相背遅滞候族有之、差支候儀有之ハ急度曲事ニ可申付者也
延享四年卯ノ六月
佐々新十郎
簑笠之助
右御書付之趣委細承知仕奉畏候、一郡又ハ組ぎりニ申合、人馬遅滞不仕、御用少も御手支無御座候様ニ相勤可申候、万一無情(精)之仕方御座候而御用指支申候ハヽ、急度曲事ニ可被仰付段、御紙上之趣一々奉畏候、為其印形仕指上申候、以上
延享四年卯ノ六月
(『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 寒川町田端木内哲夫氏所蔵文書)
翌延享5年(1748)正月には今回の来日の人馬送りは寄人馬(11)とする旨、代官の簑笠之助及び佐々新重郎両名の名で書付が出された。同時に村々から名主・庄屋などを才領として出し御用が済むまで宿に詰めさせることや、差出す馬についての細かい規定が記されている。
【史料11-3】『延享三丙寅年十一月より 朝鮮人一件御用留帳』(部分)
朝鮮人参向・帰国之節、兼而申渡シ置候村々、当辰年藤沢宿江寄人馬可申付旨被仰付候間、大切ニ相守り、先達而申付候通り人馬用意仕、差支無之様可仕旨、員数之儀追而可申渡候
一 馬無之村々ハ相対ニ而内証雇致指出シ候共、先達而申渡請印取置候通り無間違雇出シ心当可仕候、其節才覚間違ニ付指滞候段申出候ハヽ、急度曲事ニ可申付候、勿論相対ニ而雇申候迚も先方へ任置候儀不仕、其村々より名主・庄屋・才領等罷出「御用相仕廻候迄」(脱カ)場所ニ詰切り、其村々より雇出シ候馬指配可致候
一 朝鮮人到着三日前、人馬共ニ小屋之内へ寄集、人馬遂吟味候間、惣而人足之儀者老人・童又ハ病身・不達者差出シ申間敷候、馬之儀是又弱馬・癖馬・女馬・足不宜馬・盲馬等差出シ申間敷候、人馬不吟味之仕方於有之ハ、其宿々村々問屋・名主共急度曲事可申付候事
一 鞍・腹帯・荷縄等入念、尤飼葉等御用相勤候内手支無之様持参可申候心懸ケ可致候、朝鮮人参向段々近寄候間、人馬差出御支度専一可致候
右之趣宿々村々問屋・名主・年寄等其宿より申通、此書付写取、此旨心得候様可致候、尤村々請印致、藤沢宿問屋方江早々可相返候、以上
辰正月
簑笠之助
佐々新重郎
(『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 藤沢市平野雅道氏所蔵文書)
この時藤沢宿へ人馬を差出すことになったのは藤沢宿・戸塚宿・保土ケ谷宿の3宿で、それぞれの助郷(定助・大助)に割当てられていた村々及び役外の村々(ここでは三浦・大住・高座・鎌倉4郡の内118か村)の内から出すようにと、延享5年2月簑笠之助・佐々新重郎より申渡されている。
【史料11-4】
藤沢宿江人馬可寄宿々村々覚
藤沢宿 戸塚宿 保戸ヶ谷宿
藤沢宿助郷(48か村村名略)
戸塚宿助郷(35か村村名略)
保土ヶ谷宿助郷(39か村村名略)
役外村々
(相三浦郡)上平作村 下平作村 池上村 今谷村 不入斗村 小矢部村 森崎村 大矢部村 衣笠村 岩戸村 津久井村 長坂村 荻野村 大田和村 武村 林村 須軽谷村 赤羽根村 東岡村 高円坊村 佐野村 沼間村 山之根村 久野谷村逗子村 桜山村 長柄村 上山口村 木古葉村 中里村 入江新田 長浦村 中町岡村 原村 大津村 内川新田 野比村 左原村 長沢村 久村 八幡久里浜 鴨居村 走水村 (相大住郡)酒井村 岡田村 石田村 見付嶋村 (相高座郡)打戻り村 獺郷村 宮原村 小動村 大蔵村 小谷村 上河内村 恩馬本村 中河内村 社家村 中野村 上郷村 今里村 菖蒲沢村 葛原村 用田村 杉窪村 上大谷村 下大谷村 国分村 上今泉村 下今泉村 四ツ屋村 新田村 新戸村 磯部村 七ツ木村 上和田村 下和田村 福田村 長後村 蓼川村 本蓼川村 深谷村 上寺尾村 深見村 草柳村 上鶴間村 下鶴間村 鵜森村 渕野辺村 上土棚村 下土棚村 吉岡村 早川村 望地村 小薗村 柏ケ谷村 栗原村 上溝村 下溝村 中嶋村 平太夫新田 田端村 岡田村 行谷村 下寺尾村 芹沢村 浜郷村 西久保村 大曲り村 円蔵村 下大曲り村 萩園村 (鎌倉郡)今泉村 峠村 瀬谷村 宮沢村 (高座郡)橋本村 当麻村 座間村
右宿々村々当辰年朝鮮人参向・帰国之節共藤沢宿江寄人馬申付筈ニ有之間得其意、先達而申渡シ置候通其節人馬指仕無之様兼而用意可有之候、勿論人馬員数之儀者追而可申渡候、此段宿々村々問屋・庄屋・年寄等江其宿より可被申聞候、此帳面追而可相返候、以上
辰二月
簑笠之助印
佐々新十郎印
藤沢宿 問屋・年寄
外 宮山村五分 倉見村 中瀬村 香川村 藤沢宿旅館働人足出ル
辰年初而御願申抜村 柳嶋村 新田端村 市之宮村 門沢橋村 川原口村 中新田村
右ハ川舟役ヲ申立御免被成候 厚木村 戸田村 小柳村 大嶋村 田名村 橋本村 相原 此度御免
当麻 座間入谷村 此度半限
三浦郡廿八ケ村 愛甲郡 妻田・三田・戸室・依知領五ケ村 及川村 御免
(同前 平野雅道氏所蔵文書)
さらに、同年4月18日には寄人馬に関する詳しい触が出されており、この中で助郷高に対する人馬の割合が記され(助郷高100石につき、人足2人、馬2疋)、通信使一行が藤沢宿に到着する3日前に矢来に詰めるよう指示されている。その折矢来に詰める人足や馬は腰に郡・村名を記した札をつけることが伝えられた。
【史料13】「朝鮮人来朝ニ付寄人馬触書」
今度朝鮮人来朝ニ付藤沢宿江寄人馬可差出旨先達而被 仰渡村々致請印候通、助郷村々之分高百石ニ付人足弐人馬弐疋ツヽ差出矢来詰め可致候、若し村々五ケ村七ケ村程宛最寄ニ而村高組合場所有之候分、村々対談熟談之上何れニ成共組合可申候、尤人馬組合切御触当可有之候間、其旨可相心得候、并矢来詰日限我等共方より相触候事
一 人馬矢来詰参向帰国共朝鮮人藤沢到着三日前矢来詰致、尤村々人馬数何程并名主・年寄・才料・人馬士賄もの・飼葉持運之小あるき人足共矢来詰日限より可前ニ罷出着致帳ニ附可申候
一 人馬・才料并夫々之者共矢来出入之節、腰札為提何郡何村何人之内書記人数程札拵平付致、右夫之者極り次第札持参致役所割取可申候
一 先達而茂被仰渡候通馬共随分致吟味人足之義ハ、病人老人童人等不差出并触馬女馬盲馬差出申間敷候事
前書之通り村々名主・年寄大切ニ相守間違無之様ニ可被致候、以上
辰四月十八日
長 簑之助手代
桜井豊蔵手代
佐々新重郎手代
長井清兵衛
右拾壱ケ村々 名主 年寄
(『葉山町史料』所収 伊東家文書)
3 船橋御用
神奈川県内の河川のうち、酒匂川・馬入川には通常橋が架けられておらず、酒匂川は江戸初期には渡船による往来が行われていたが、延宝2年(1675)から歩行渡しになった。宝暦13年(1763)には幕府が諸道渡渉制度を定め、川留め、川明の正確な水量が決まっている(12)。また冬期の5ヶ月は年貢米上納に支障がないように仮橋が架けられていたことがわかっている。つまり朝鮮通信使がこの期間に酒匂川を通行する場合は船橋を架ける必要はなかったのである(例 第11回 宝暦14年(明和元年 1764))。ただし仮橋中も出水で橋が流失した場合は歩行渡しになった。馬入川はもともと渡船だったので、通信使が通行する場合は常に船橋が架けられた。
【史料14】『淘綾郡東海道大磯宿宿村大概帳』
大磯宿より小田原宿迄往還通間之村々雑之部(部分)
一 右川(酒匂川)三月五日より十月五日迄川越いたし、十月五日より三月五日迄仮橋にて通路いたす、尤仮橋中も出水橋流出いたし候得ハ、川越にて通路いたし来
(天保14年『東海道宿村大概帳』)
3.1 船橋掛船役
酒匂川の掛船役は伊豆国の村々に、馬入川の掛船役は三浦郡の村々に割当てられた。
伊豆国で酒匂川の掛船役が割当てられたのは、駿河湾に面した西伊豆の地域で、大部分が小規模な沿岸漁業を営む村々であった。船の規模も小さく、ほとんどが2~5人乗りの廻船や漁船・水揚ケ船であったらしい。これらの村々では享保4年(1719)の使節来日時には77艘の船が酒匂川船橋掛船として指定されている(13)。
三浦郡中では、正徳元年(1711)の使節来日に際して、御前御帳面船318艘(酒井雅楽頭知行所10か村に109艘)のうち、99艘が船橋御用船として割当てられており、そのうちの33艘分を浦ノ郷組が勤めることになっている。ちなみに318艘のうち67艘は御肴取船に指定されている。
【史料15】「覚(朝鮮通信使来朝につき馬入川船橋御用船)」
覚
一 御前御帳面船三百拾八艘 三浦郡中
内
百九艘 酒井雅楽頭知行所拾ケ村
此内拾九艘 久里浜村
三艘 八幡村
一 船三拾三艘 正徳元年卯十一月朝鮮人来聘・帰国共ニ相州馬入川船橋相勤候御証文如此ニ候
朝鮮人御用賄人
浦郷村 割元 安左衛門印
正徳元年卯十一月
八幡村
久里浜村 名主中
覚
一 船三拾三艘浦ノ郷組
右者舟橋御用船九拾九艘之内馬入江被相廻、来聘・帰国共御用被相勤候処仍而如件
正徳元年卯十一月
清田重助印
三留実右衛門印
狩野新五左衛門印
右村 割元名主中
右之通相違無御座候
(相模国三浦郡久里浜村長島家文書(神奈川県立公文書館寄託))
だが実際船橋の掛船は、酒匂川については小田原宿千度小路・古新宿町・山王原村・網一色村による請負(14)、馬入川については馬入村名主が請負っていたことが次の史料からわかる。
【史料16】「差上ケ申一札之事(酒匂川船橋掛船御用請負人に任せたき旨願書)」
差上ケ申一札之事
一 今度朝鮮人来朝ニ付、相州酒匂川船橋被 仰付候ニ付、先例之通伊豆国拾ケ組より船廻シ、懸渡候様ニ被 仰渡奉畏候、右之船豆州より相廻シ候而ハ百性(姓)不勝手ニ而天和年中朝鮮人来朝之節も小田原ニ而雇立、御用相勤申候ニ付、今度も於小田原浦ニ相雇候様ニ仕度旨奉願候所ニ、願之通被 仰渡候ニ付、小田原宿千度小路友右衛門・古新宿町九八・山王原忠右衛門・網一色名主六郎右衛門方江相対仕、御下知を請、請負人相願、漁船取集、都合百拾艘指出シ申候、賃金之儀者割合相極次第早速取立御指図を請、請負人江相渡シ可申候、明細帳面仕立、組中立会、勘定無高下致割合、惣代之者共奥印形仕、差上ケ可申候、若又請負人方ニ而、不埒成仕形御座候而御用不相勤儀も御座候ハヽ、私共方江引請、少も御難儀懸不申、御用相勤可申候、為其拾ケ組為惣代名主四人小田原宿ニ相詰罷有候上ハ御手支御座候ハヽ、何分之越度も可被 仰付候、為後証書判証文差上ケ申候、仍而如件
享保四年亥五月
伊豆国内浦組 戸田村名主 弥三兵衛
重須村名主 久左衛門
戸田村舟持 仁兵衛
仁科組 井田子村名主 半右衛門
宇久須村舟持 平三郎
松崎組 松崎村名主 孫兵衛
同村舟持 与三郎
加納組 大瀬村名主 佐平
手石村舟持 三郎兵衛
田中組 神益村名主 太郎右衛門
田京村名主 源右衛門
狩野組 下船原村名主 三郎左衛門
川津組
稲生沢組 浜村名主 平兵衛
立野村舟持 平蔵
東浦組 宇佐美村名主 藤右衛門
大川村組頭 佐左衛門
松原村舟持 理兵衛
三嶋組 原木村名主 弥兵衛
御薗村名主 武左衛門
遠藤七左衛門様御手代 太田縫右衛門様
大久保加賀守様御内 伊藤郷左衛門様
同 志谷金左衛門様
(『小田原市史史料編近世2』収録 『伊東市史資料編』所収文書)
この史料によると、享和年中の通信使来日に際し伊豆国の10か組合が先例の通り、伊豆国から船を廻して酒匂川船橋を架け渡すようにとの仰せが出されたことを受けて、豆州から船を廻していたのでは大変なので、天和年中も小田原で雇立(請負契約)をしているので、今回も前回同様に請負としたいと申し出ている。
【史料17】「覚(宝暦年中朝鮮人来朝につき、馬入川船橋掛船の儀)」
覚
宝暦年中朝鮮人来朝ニ付、馬入川御船橋
一 掛船八拾弐艘四分九厘七毛 三浦郡勤高
此割賦
三拾壱艘八分三厘八毛 浦郷組
五艘九厘五毛 [ ]
拾三艘壱分七厘四毛 長井組
拾六艘壱分壱りん三毛 三崎組
壱艘九分六りん六毛 和田組
拾四艘三分壱りん壱毛 秋谷組
内 秋谷組之内
七艘三分弐りん壱毛 小坪村勤高
合八拾弐艘四分九りん七毛
右ハ、朝鮮人来朝ニ付、馬入川御船橋掛船、三浦郡より相勤申候船数、組々割賦之通ニ而、私請負仕候所、少も相違無御座候、以上
宝暦十四年申三月
馬入川名主 船請負人 清兵衛印
渡辺半十郎様御手代 赤沼斧右衛門殿
久木仙右衛門殿
右割合之通、其村分船数被差出、令承知候、以上
申三月
渡辺半十郎
馬入村 御用場印
小坪村名主中
(『逗子市史 資料編2近世2』所収 新宿草柳博氏所蔵文書)
3.2 船橋諸入用
酒匂川や馬入川に船橋を掛けるための人足及び用材(丸太・藤縄・莚など)は県内各地から調達されている。
馬入川船橋役については、三浦郡・鎌倉郡・愛甲郡・大住郡・淘綾郡の郡役となっており、延享年中は船橋奉行堀江清次郎(幕府代官)によって掛渡しの作業が進められている。
三浦郡については、延享4年6月に大津村他5か村が享保年中の実績を代官堀江清次郎の手代に提出している。
【史料18】『延享年中御用日記』(部分)
馬入村ニ而右御手代衆へ差上候証文控
覚
一 高七百五拾九石四斗四升弐合 大津
内百廿六石三斗九合 馬堀
一 同百五拾七石四斗壱升六合 森崎
内三十壱石五斗八升六合 新田
一 弐百廿三石五斗弐升 不入斗
一 弐百七拾三石七斗三升八合 池上
一 百六拾四石九斗三升四合 金谷
一 三百六拾弐石壱斗弐升三合 小矢部
内廿四石三斗一升五合 松郷
右之通り高辻を以享保年中馬入川船橋御用相勤申候所相違無御座候、猶又此度船橋御用被仰付次第相勤可申候、以上
延享四年卯六月
大津村
不入斗村
金谷村
池上村
小矢部村
森崎村
堀江清次郎様御手代
平尾茂平太殿
長田用八郎殿
右之通馬入ニ而指上候
(『新横須賀市史 資料編近世1』所収 横須賀市所蔵福本三郎家文書)
この高辻を参考にして、延享年中の船橋御用がそれぞれの村に割付けられる。翌延享5年(1748)1月、藤沢宿にて手代より御用の申渡しが行われた。
【史料19】『延享四年卯ノ六月 来辰年朝鮮人来朝ニ付被仰渡候御書付写』(部分)
一 馬入舟橋村役之儀ニ付申渡御用有之候間、来ル廿五日馬入村我等旅宿江可被罷出候、右日限遅滞有之間敷候、此廻状刻付を以早々相廻し、留村より持参可被相返候、以上
辰正月廿一日
堀江清次郎手代 平尾茂平太
(『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 藤沢市 皆川邦直氏所蔵文書)
この申渡しに対して「先規之格」を以って村方相対(請負人に依頼)にしたいとの願書が残されている。
【史料20】「乍恐書付を以奉願候(馬入船橋御用請負人に任せたき旨願書)」
乍恐書付を以奉願候
一 朝鮮人来朝ニ付、馬入船橋先規之格を以村役品々御割賦被仰付、右品来ル廿九日迄ニ急度差出可申旨勿論、右御用中名主・組頭之内壱人宛相詰船橋懸渡ニ取掛り可申旨被仰渡奉畏候、然処御割賦之品々差出シ名主・組頭之内御用中人足為宰料被出候而ハ殊外内入用茂相懸、其上作毛仕付時ニ差懸り村方難義多御座候間、享保之節も村方相対を以請負人方江相渡シ候間、此度も村方相対之上請負人方江相渡シ度奉存候、然上者万一請負人方ニ而不埒有之御用御差支ニ罷成候ハヽ、村方引請船橋懸渡少茂御差支無之様ニ可仕候、尤御割返等ニ相成候品茂御座候ハヽ、村方江不及御案内ニ請負人江御渡シ可申候
右之通御聞済被下候ハヽ、村方御救ニ罷成有難有奉存候、以上
延享五年辰ノ正月
堀江清次郎様 平尾茂平太殿
(相模国大住郡戸田村小塩家文書(神奈川県立公文書館所蔵))
年代は異なるが、宝暦13年(1763)の馬入川船橋御用の請負に関する文書が、上記と同じ小塩家文書に残っている。この時の人足諸色入用は高1000石につき金6両1分であった。半金を9月10日、残金を同月20日までに支払い、それと引替えに本証文を渡す旨が記されている。延享年中の請負価格と比べると(史料23・24)、高1000石につき1分ほど高くなっていることがわかる。ただしこの時御用を請負ったのは葛飾郡(埼玉県北葛飾郡)の村であり、馬入川船橋御用を請負った理由は分からない(15)。
【史料21】「証文之事(馬入川船橋御用御普請請負につき)」
一 此度朝鮮人来朝ニ付馬入川船橋御用御普請方御触之通、人足諸色入用高千石ニ付金六両壱分、私とも相対を以御請負致候、其方諸色代金当月十日ニ半金、残金之儀ハ当月廿日相済シ可申候、其節本証文引替可申候、為後日仍如件
宝暦十三年未九月
武州幸手領佐左衛門村請負人 彦右衛門
請人 義兵衛
年寄 孫平治
名主 九左衛門
(相模国大住郡戸田村小塩家文書(神奈川県立公文書館所蔵))
馬入川の船橋御用は、これまで馬入村が一括して請負っており(3.1船橋掛船役参照)、延享年中も同様の予定であった。史料19の廻状と同時に馬入村から船橋役請負についての文書が名主九左衛門、年寄儀右衛門、同伝右衛門、百姓代孫八4人の連名で出されている。
【史料22】『延享三丙寅年十一月ヨリ 朝鮮人一件御用留帳』(部分)
一 以手紙得御意候、然者当村舟橋郡役之儀、御廻状を以被仰触候ニ付申進候、先達て馬入之者又者須賀新宿辺より御請負い申度抔と偽りを申、此義村勤ニ被成候儀者格別、若シ御渡シ御勝手ニ罷成候ハヽ、私共村請ニ相願申候間、双方勝手ニ罷成候様ニ御相談可申候間、御触日限時分私方へ御尋可被下候、尤会所相定札出置可申候、以上
辰正月廿一日
馬入村 名主 九左衛門
年寄 儀右衛門
同 伝右衛門
百姓代 孫八
(『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 藤沢市皆川邦直氏所蔵文書)
延享年中には馬入村や須賀新宿の辺りで船橋役を請負いたいと申し出ている者がいたらしい。船橋役を請負ってきた馬入村の名主一同としては、仕事を横取りされる心配もあってこのような文書を出したと思われる。この年の船橋役も例年の如く馬入村の名主が請負うことになった(16)ことが同上の史料に記されている。
覚
是ハ馬入船橋御用割付 高千石ニ付
一 杉丸太三本弐分 長三間、末口三寸
一 同五本七分六厘 長弐間、末口三寸
一 同弐本弐分四厘 長三間、末口三寸
一 同壱本 長壱丈、末口三寸
一 唐竹拾四本七分四厘 六寸廻り
一 同弐百八拾四本三分七厘 五寸廻り
一 綱藤拾八本弐分弐厘 五尺曲五尺縄〆
一 すくり藁六束三分九厘 弐尺縄〆
一 ねこた八分 横九尺、長弐間
一 わら五束九分 五尺縄〆
一 藁縄五房四分壱厘 壱房、弐拾尋房
一 明俵四ツ八分壱厘
一 人足弐百三拾五人七分四厘大積り
右之通馬入ニ而被仰渡候、千石ニ付金六両ニ而馬入名主九左衛門殿江渡ス、当分半金渡シ証文取置申候
【史料23】「証文之事」
証文之事
一 此度朝鮮人来朝ニ付、馬入川舟橋御用御普請方御触之面、人足・竹木・諸色入用高千石ニ付金六両ニ各々相対ヲ以拙者共は請負仕候、其御村高弐百八拾四石代金壱両弐分永弐百四文之内金三分慥ニ請取申候、然上ハ右御普請諸色御奉行様より御割付之通少も無滞差出可申候、若満水又ハいケ様成義有之候て、御奉行様より再御触被仰付候ハヽ、其許より御勤可被成候、私共請方之義、其御村方え少も御苦労かけ申間敷候、為後日証文進置候所、仍如件
延享五年辰二月
馬入村請負人 伝右衛門印
同 大津屋 五兵衛印
同 名主 九左衛門印
同 嘉兵衛印
(『秦野市史第2巻 近世史料1』所収 国立史料館所蔵文書)
この証文を見る限りでは、万が一満水(大水)等で船橋が流出してしまった場合は、請負に出した村々が掛船等勤めるように(「其許より御勤可被成候」)とあるが、実際は下の文書にあるように、請負人と再度請負契約を結んでいる。
延享5年(寛延元年 1748)馬入船橋は通信使が江戸へ参向するために5月19日に通行したのち、6月4日大風雨によって馬入川が満水となり流出してしまう。その11日後の6月15日には帰国のための通行が予定されていた(13日江戸発)ため、村々から諸色・人足を出していたのでは間に合わないとして、代官堀江清次郎の役所へ今回船橋役を請負った大津屋五兵衛、馬入村名主九左衛門・組頭伝右衛門が連名で再請負の願書を提出している。この中で相対金を高1000石につき3両2分2朱としたいと申し出ている(資料24)のだが、役所ではこれを高すぎるとして、端数を切り捨てて3両にするようにと指示している。請負う側としては今回の再掛渡しは急なことであり、材料の入手から人足の手配までいろいろと経費が掛るので、せめて1分の引下げで済ませたい、それでもどうしてもというのであれば1分2朱引下げて3両1分でお願いしたいと訴えている。
【史料24】『延享三丙寅年十一月ヨリ 朝鮮人一件御用留帳』(部分)
乍恐書付を以奉願上候
一 当月四日大風雨、馬入川満水ニ付、御舟橋流出仕候、然所朝鮮人十三日江戸発出被仰付、十五日通行ニ相成候、甚差懸り村々より諸色・人足等差出シ相勤候而ハ、遠方之村方も有之、急之御用御間ニ合不申候間、私共義ハ先達而村々より御願申上、郡役相対仕候者共ニ付、此度も郡役之品々代金之儀ハ村々相対仕、請負何分□□帰国御用御差支ニ不相成様ニ可仕旨被仰付奉畏候、尤流出之内御取上ケ置被遊候品々茂有之ニ付、右之分ハ相用候積り、其外男柱震込人足等も相掛り不申儀ニ候間、是等之義勘弁、村々ニても再入用之義ニ御座候間、村々難儀多不相懸様ニ可仕旨被仰渡「是又承知仕候、早速相対金相定可申処、右被仰渡」候流物之内御取上ケ被成候品々難相知、其節右員数難極旨申達置候村々も「有之候所、相対金之儀ハ六郡一同之儀ニ御座候」間、相定次第違乱可申様無之候間、何分ニも急御用御間合候様ニ請負□申可申旨相対仕候、御大切之御用ニ付昼夜打掛り被仰渡候御日限之通御舟橋仕立、帰国候間ニ合差上申候、依是相対金之義随分勘弁仕、高千石ニ付金三両弐分弐朱ニ村々相談之上相極申候、前書之通相対金員数ニ不構頼置罷帰り候村方も御座候得共、六郡一同之義ニ御座候間、右相対金員数を以御役所御取立被成被下候ハヽ、難有奉存候、依是書付を以奉願候、以上
辰六月
大津屋 五平衛
馬入名主 九左衛門
組頭 伝右衛門
堀江清次郎様御役所
前書之通願書差上候所被仰聞候ハヽ、男□震込人足其外持運御休木等之人足ハ相掛り不申、殊ニ流物之内取上候品々も有之ニ付致勘弁、村々相対ニ而相極候旨ニ候得□、此度之義者再返之懸渡村々及難儀候義ニ候間、尤相対金相定候得共高直ニ相見江候「間、引下ケ可申旨再三被仰聞奉承知候、右之段」掛渡以前より情(精)々被仰渡、私共随分勘弁仕、御用御差支無之様ニ出情(精)仕、殊ニ昼夜相懸り「急ニ仕立候故、存知之外人足も多分相懸」、其外損料買上物□品々茂品々直段合吟味仕候事も難成り、先方より申掛ケ次第買取候故金子も手廻り兼候間、何卒拝借等も仕度□□□□共差掛り難儀ニ付、可成丈相働、金子地借仕り御用之御差支不相成様ニ仕候故、物入多相懸り候得共、被仰渡重キ御儀ニ付、私共徳分之義ハ相止メ、随分手を詰相対仕候ニ付、何程被仰「付候共引下ケ難成奉存候得共、猶又被仰」渡候趣難黙止奉存候間、金弐朱引下ケ可申旨申上候処、猶又被仰聞候者、右之通ニてハ少分之引下ケ方村々割合之勝手ニも相成間敷候間、端金不残引下ケ、金三両ニ相定メ可申旨被仰聞候得共、此度之御用ハ余り差掛り候義ニ付、御請難仕奉存候得共、御代一度之御用ニ而可成丈ハ相勤可申旨、拝借等も不申上出情仕、地借を以御用相働候処、今更相対金過分之引下ケ被仰付候而ハ、乍恐御難題之様ニ奉存候、然共引下ケ候而□当ニ合候ハヽ、何程茂引下ケ可申候得共、随分手を詰相対仕候上、猶又引下候得者、交而引下ケ難仕奉存候得共、御直之御吟味無是悲(非)奉存候、金壱分引下ケ可申旨申上候所、然ハ金壱分弐朱引下ケ、三両壱分相定可申旨被仰渡候、何共難儀千万奉存候へ共、再返□御意[ ]被成候間、御請可仕候、右之□□を以御□□□成下候様ニ奉願上候、以上
辰六月
大津屋 五兵衛
馬入村名主 九左衛門
組頭 伝右衛門
堀江清次郎様
(『寒川町史2 資料編近世(2)』所収 藤沢市皆川邦直氏所蔵文書)
この結果、馬入川再掛渡しの相対金は高1000石につき金3両1分と決まり、宿々賄代官の堀江清次郎より廻状が出された。
馬入川再掛渡シニ付、郡役(17)受負人共別書之通書付差出シ候、相対金之義も村々対談済候といへ共、猶又令吟味引下ケ申付、高千石ニ付金三両壱分ニ相極候間、右割合ヲ以当月廿五日限り右相対金急度馬入村役所江村役人可致持参候、右日限相滞候ハヽ可為越度、則請負人願書并吟味之趣共写相廻シ候、可得其意候、此書付村下印形、村役人刻付ヲ以相廻シ、留り村より可相返候、以上
辰六月廿一日
堀江清次郎様御印
(同前)
またこの時は酒匂川の船橋も出水で破損し、新たに莚・山藤等を調達していることが、「寛延二年巳十月 朝鮮人御用御尋ニ付書上帳 篠窪村」(18)(相模国足柄上郡篠窪村小島家文書)からわかる。こうしたことを考慮してか、宝暦14年(明和元年 1764)の来日に備えて馬入川では、万一出水で船橋が流出した場合は渡船による川越を計画している。
【史料25】「御廻状之写(朝鮮人来朝に付き馬入川船橋流出の際、渡船にて川越)」
朝鮮人就来朝馬入船橋[ ]渡相済、此上出水等ニ候而万一船橋[ ]之節者渡シ船之積被仰渡候ニ付、去春中其村々遂吟味候、依之申渡度候[ ]之間十四日、十五日両日之内馬入[ ]等とも止宿江名主印形持参可被[ ]廻状村下ニ致請印、以刻付順達[ ]持参可被相返候、以上
申二月十一日
渡辺半十郎手代 久木仙右衛門
赤沼斧右衛門
右村々名主
(厚木市藤野義重氏所蔵資料(神奈川県立公文書館所蔵 神奈川県史写真製本資料))
延享5年(1748)7月8日に舟橋郡役の請負人から、朝鮮人御用の馬入川船橋役(高1000石につき金6両)に対して高1000石につき金1分が、世話焼き賃金として割り返されている(19)。
4 御用御免の請願
朝鮮通信使は江戸時代を通じて12回来日した。そのうちの10回が神奈川県内の東海道を通って江戸へ下っている(2回目は京都伏見、12回目は対馬での交聘)。単純計算すると、江戸時代266年間に10回(ほぼ27年に1回)だが、実際には第1回が慶長12年で、途中1回と最後1回を除くと第11回が宝暦14年(英祖40)なので、158年間に10回(ほぼ16年に1回)の来日になる。その度に凶作や災害は考慮されず膨大な負担が村々にかかってくる(20)。特に関所や宿場町周辺の村々では、日々の勤め(助郷人馬や関所の普請等)もあるので、なんとかこの臨時の負担から逃れたいと知恵を絞ることになる。この当時の御用の分担は先格(前例)が基本になっていることが多かったので、「先年来朝の節は」とか「前々の通り」「先格の通り」といったように、前例をあげて負担していないことを訴える必要があった。さらに御用が免除された場合は、文書で免除されたことを確認している。これが次回の「先格(前例)」になるのである。
【史料26】『延享四年卯ノ九月 朝鮮人来朝につき酒匂川船橋御用』
乍恐書附を以申上候事
一 此度朝鮮人来朝ニ付酒匂川船橋御入用村々より差出し候様ニ被仰付奉承知候得共、此村々之儀者朝鮮人・琉球人御用先年より相勤候儀無御座候、由緒之儀者川村御関所御門御修覆之御材木奥山家三ケ村ニ而元伐仕、中山家六ケ村ニ御下ケ持送り、其外柵詰・掃除・雪はき御用水并ニ御番人中御居宅破損仕候節取繕ひ申候、此御役之儀者駿州御厨坂下村々ニ而相勤候処ニ、四拾八年已前大久保長門守様御分地ニ罷成、此御役中山家奥山家村々江被仰付至極大役ニ御座候ニ而村々百姓難義ニ奉存候、依之ニ先年朝鮮人・琉球人来朝之時分茂此段御訴申上候ニ付、先年小田原御領分より御預所之節御役御免被成下、一向相勤候儀無御座候、此度之儀茂前々之通り御用捨を以御免被成下置候様ニ奉願候
右者此度朝鮮来朝ニ付酒匂川船橋御用相勤候哉与御吟味被遊候処ニ中山家・奥山家九ケ村并谷ケ村拾ケ村之儀ハ、河村山北・谷ケ村両御関所役年々相勤候ニ付、前々より酒匂川船橋御用御免成シ被下相勤不申、尤外村より船橋御用相勤申候様ニ申上候ヘハ、何分之越度ニ茂可被仰付候、依之此度御用之儀も前々之通り御免成被下置候様奉存候、以上
延享四年卯九月
相州足柄上郡 谷ケ村 名主 文八印
組頭 与三左衛門印
百姓代 政右衛門印
堀江清治郎様御手代 平尾茂平太殿
大久保出羽守様御内 松浦喜太夫殿
右之通り此度堀江清治郎様御手代様より酒匂船橋御用御吟味ニ付、尤村々高書付前々より相勤不申候段、前書之通り書付差上申候、依之御注進書差上申候、以上
延享四年
相州足柄上郡谷ケ村 名主印
組頭印
百姓代印
上野一右衛門様
横山覚太夫様
右之段小田原郡御役所様へ書付差上申候
前書
右之通書上申候所、少茂相違無御座候
卯十一月廿七日 御用所差上申候
松浦喜大夫様
保田孫三郎様
(足柄上郡谷ケ村武尾家文書(神奈川県立公文書館寄託))
この史料の谷ケ村等10か村(中山家六か村/西山家 皆瀬川村・都夫良野村・湯触村・山市場村・神縄村・川西村 奥山家三か村/新山三か村 世附村・中川村・玄倉村)は、谷ケ関所・川村関所の御用を勤める村々で、先年から朝鮮人・琉球人御用は勤めていないとしている。この48年以前大久保長門守の分地だったときに、朝鮮人・琉球人御用を仰せ付けられて難儀したことがあり、小田原領御領分から幕府預所になった時(宝永5年(1708)閏1月7日~延享4年(1747)9月5日)に訴えが認められて御役御免になったと書き記している。この訴えは先年の通りに認められ、上記10か村の名主・組頭が連判している。
【史料27】朝鮮人船橋役御免につき
一 皆瀬川村より谷ケ村迄十ケ村、右村々義ハ川村・谷ケ村両御関所御用相勤候ニ付、前々御役御免被下置候よし、朝鮮人船橋御用懸り堀江清次郎手代吉田民右衛門様・平尾茂平太様へ、以書付申上候所ニ、御吟味之上相済、此度先年之通り御役御免被下置候由被仰付、御注進申上候、以上
延享四年卯十二月
玄倉村より谷ケ村迄十ケ村名主・組頭壱人ツヽ連判
(『山北町史 資料編近世』所収 山北町神縄山崎佐俊家文書)
この延享5年(寛延元年 1748)の朝鮮人御用の御免は、次の宝暦14年(明和元年 1764)朝鮮人来日時に先格として運用されている。
【史料28】宝暦十二年午閏四月中山七兵衛様江指出し
一 延享五辰年朝鮮人来朝ニ付、酒匂川舟橋御役勤高書上候様ニ被 仰付候所、其節堀江清次郎様手代吉田民右衛門様・平尾茂平太様御吟味ニ付、於網一色村先規之格を以御願申上候所、朝鮮人高役御免ニ而何ニ而茂相勤不申候、尤寛延二巳年十一月十四日此段御尋ニ而上野一右衛門様・横山覚大夫様御代官之節書上申候、其以後、琉球人参向ニも高役相勤不申候、以上
閏四月十五日
十ケ村名主・組頭・百姓代
神縄村 名主 佐左衛門
田代忠太様
横山類右衛門様
(『山北町史 資料編近世』所収 神縄山崎佐俊家文書)
宝暦13年(1763)5月に提出された書付には、64年前に松田・川村・中山家・奥山家の14か村で負担していた川村山北関所の柵結建てのことも(宝暦13年は駿州御厨坂下12か村が負担している)記されている。その他関所御用として、川村関所定番の居宅普請や修復、川村・谷ケ両関所の御門道具御用、川村関所木戸番への給米、川村関所要害の石垣人足、川村関所の御用水人足などを記載している。こうした負担があることから享保年中に朝鮮人人馬御用掛り遠藤七左衛門の吟味によって御用御免となり、さらに延享年中にも朝鮮人人馬御用役人より御用御免の認可を得たと記している。その他にも川村関所の掃除を1か月に3度行い、12月には煤払いのための人足も出しているとしている。また同年7月29日には、朝鮮人来日に伴う道中掃除人足も上記の理由で(朝鮮人御用は鶏・玉子、猪狩りせこ人足以外)前回も差出していないことを書面にして手代の田代忠太・内田半助に提出している。
上記の場合は関所御用を勤めていたため朝鮮人御用免除(御免)となった例だが、この他にも三浦郡内で、浦賀番所付の村になったので下田番所の村々と同格の扱い(朝鮮人人馬・舟役等の御免)とするようとの訴えが出されている。これは当時の朝鮮人御用掛であった酒井修理大夫(寺社奉行酒井忠用)・河野豊前守(大目付河野通喬)・逸見出羽守(勘定奉行逸見忠栄)に提出され、願書の通りに認められている。この場合は「下田番所」という先例があったからである。このことは寛政9年(1797)閏7月の東浦賀村村明細帳の記載からも確認することができる(21)。
【史料29】朝鮮人来朝之節人馬船役御免之儀申渡書付
先達而御差出候浦賀・三崎町・城ケ嶋、当時者浦賀御番所附ニ成候ニ付、先年下田御番所附村々之格を以此度朝鮮人人馬役・船役等相除、下田村々之儀者当時御番所附相止候間、人馬役・船役等相勤可然旨雅楽頭殿江伺候処、伺之通可申渡旨被仰渡候ニ付、右村々役相除候様ニ御代官江申渡候、以上
今度朝鮮人来朝ニ付、人馬役・船役等之儀 御免之儀相願候ニ付、右之書付朝鮮人御用掛酒井修理大夫・河野豊前守・逸見出羽守被相渡候、右之通朝鮮人来朝ニ付、人馬役・船役等 御免之事ニ候、可令承知候
延享四年卯九月十五日
斎宮印(22)
東浦賀 名主・年寄 共
(『新横須賀市史 資料編近世1』所収 横須賀市所蔵 石井三郎兵衛家文書)
この文書には浦賀・三崎町・城ケ島の3か村のみ、浦賀番所附の村として朝鮮人御用を免除されたことが記されている。実はこのほかにも大津村・走水村・鴨居村・内川新田・八幡久里浜村・左原村・久村・野比村・長沢村の9か村も浦賀番所附の村であるとして、3か村と同様の朝鮮人御用御免を求める願書を江戸へ提出していたのである。そのため三浦郡浦郷組・大津組・大和田組・秋谷組の4組合村は、浦賀等3か村が御用御免となったことについて請書の提出の延引を願い出るとともに、御用御免を知らせる廻状を馬入川船橋役所へ返上している。これに対して代官堀江清次郎の手代吉田民右衛門・平尾茂平太が再度請書を提出するようにとの書付を出している。
【史料30】『延享年中御用日記』(部分)
浦賀并三崎町・城ケ嶋村之儀、当時ハ浦賀御番所附ニ成候ニ付、先年下田御番所付村々之格ヲ以、此度朝鮮人人馬・舟役等御免之旨被仰付候間、□□相心得、懸舟之義指支無之様ニ村々申合可相勤、先達而勤高願之義者御下知次第追而可□渡候、右之趣承知仕候段、別紙請書早速可□出者也
卯十月廿四日
堀江清次郎印
相州三浦郡 大津組 村々
名主
組頭
追而此書付早々順達、留村より大磯宿我等手代旅宿へ可相返者也
右廻状ニ付、大津内蔵助・清六、金谷勝右衛門大磯へ罷出候、御請□之義日延証文左之通差上申候、十月廿七日ニ出、十一月朔日ニ帰ル、出入四日、上下四人ニ而壱両弐分程使申候
乍恐口上書を以申上候
一 此度浦賀・三崎・城ケ嶋之儀、人馬役・舟橋御免被仰付候ニ付、御廻状ヲ以被仰触、馬入川舟橋掛船御用之儀、御請書指出候様ニ被仰付候得共、拙者共組合村々之儀ハ段々御□申上度義も御座候間、当分御請書之義御指延被下置□様ニ奉願上候、此度ハ御廻状返上而已ニ罷出候間、村方□□帰組合相談之上、追而書付指上申度奉存候、右為□□申上候、以上
卯十月廿九日
三浦郡浦郷組 安左衛門□
大津組 内蔵助□
清六印
大田和組 四郎左衛門印
秋谷組 源左衛門印
新左衛門印
馬入川船橋 御役所様
右之通日延証文平尾茂平太様・吉田民右衛門様へ差上候
浦賀・三崎町・城ケ嶋之義、人馬・舟役御免ニ付、請書可指出旨先達而御代官より廻状ヲ以被申触候処ニ、村々相談之上可差出旨断ニ候所ニ、今以差出シ無之候、来ル八日迄ニ我等旅宿大磯迄可被指出候、無間違様村々可申合候、此書付留村より可被相返候、以上
卯十一月五日
堀江清次郎手代
御用ニ付無印 吉田民右衛門
平尾茂平太印
三浦郡大津組村々 名主・百姓 共
(『新横須賀市史 資料編近世』所収 横須賀市所蔵 福本三郎家文書)
手代の催促に対して大津組の村々はさらに請書の日延を行い、郡中の組頭が寄合を開いて別の願書を作成したらしい。この寄合に参加したのは浦郷組の安左衛門、義左衛門(長井村)、源左衛門(秋谷村)、新左衛門(小坪村)、増右衛門(長坂村)、四郎左衛門(大田和村)、元右衛門(下宮田村)、丈右衛門(松輪村)、勝右衛門(金谷村)の9人であった。願書自体は残っていないが、浜方が勝手を言い募り、後々岡方の難儀になりそうな内容であったらしい。このため馬入役所へは浦郷組の安左衛門と金谷村名主勝右衛門が請書の日延証文差上げに大磯宿の役所(大磯旅宿)へ出向き(大津組からは誰も同道しない)、その途中で願書の内容を協議して結局馬入役所では内見のみに留めたようである。この時に提出された日延証文は次の通りである。
一 来辰年朝鮮人来朝ニ付、相州馬入川船橋御用船御役、先格を以三浦郡村々へ被仰付奉畏候、先達而御請書差上申候、然所ニ三浦之内浦賀・三崎町・城ケ嶋村、右三ケ所浦賀御番所付浦ニ而、先年下田御番所付之格ヲ以朝鮮人諸御用御免成被下候旨、以御廻状被為仰渡承知奉畏候、先達而御請書仕差上可申所ニ、村々相談之上御請書指上申度旨日延御願申上候、然所ニ延引ニ付猶又御廻状を以被仰下承知仕候得共、右三ケ所御免之外、大津村・走水村・鴨居村・内川新田・八幡久里浜村・左原村・久村・野比村・長沢村九ケ村之義、浦賀附村々ニ而朝鮮人御用向御免之段、此度江戸表御願ニ罷出候、右三ケ所御免被仰付候而も舟役難勤り難儀ニ奉存候所ニ、右九ケ村御免可有之哉難計ニ付、御請書延引仕候、其上名主共江戸表へ罷出、印形相揃不申候故、何卒当月十九日迄日延被為仰付被下候様ニ奉願上候、各々様当表御用向相済御帰ニ候ハヽ、右日限迄ニ江戸表御屋敷迄無間違可罷出候間、願之通被仰付下候様ニ奉願上候、以上
延享四年卯十一月
相州三浦郡惣代下宮田村名主 元右衛門印
秋谷村名主 源左衛門印
大田和村名主 四郎左衛門印
堀江清次郎様御手代 平尾茂平太殿
井上忠蔵殿
右之通十一月八日ニ大磯宿へ罷出候、三人之者惣代印形指上候、浦郷喜右衛門・金谷勝右衛門参候得共、割元代之由を申印形ハ不仕候
(同前 福本三郎家文書)
この結果は史料がないので、どのようになったのかわからない。浦賀番所が管轄していた村は享保5年(1720)の創設当時には東西浦賀と三崎・城ケ島であった。文化8年(1811)に佐原村・久村と広がり、文政4年(1821)6月には浦賀奉行の役知に、武・衣笠・小矢部・岩戸・上平作の各村が、東岡・原・毘沙門・松輪・金田・菊名・津久井・長沢・野比・大矢部・内川新田等が預所になっており、合計27か村を支配していたと考えられる(23)。また、浦賀番所に水主や増水主(街道でいうところの助郷・増助か)を出す村々が規定されており(『万控帳』同上)、水主村として浦付の村々の内、野火(野比)、佐原、久里浜、森崎、八幡、長沢、内川新田、鴨居、走水、大津、公郷、深田、逸見、田浦、長浦、横須賀、浦郷の17か浦が指定されている。増水主には津久井・上宮田・菊名・金田・松輪・毘沙門・宮川・向ケ崎・二町谷・諸磯・網代・三戸・下宮田・和田・長井・佐島・芦名・秋谷・下山口・一色・三ケ浦・小坪の22か浦が記されている(24)。これらを踏まえて上記史料の吟味結果を想像すると、浦賀・三崎・城ヶ島の3か所は浦賀番所創設当初からの浦賀奉行支配であることから、浦賀番所付の村であるとの判断は可能であり、下田番所の先格が適用されることが理解できる。しかし、新たに浦賀番所付の村であると主張する9か村(大津・走水・鴨居・内川新田・八幡久里浜・左原・久・野比・長沢)は水主村ではあるが(久村は不明)、この他の水主村である森崎・公郷・深田・逸見・田浦・長浦・横須賀・浦郷の8か村が訴えに参加していないことを考慮に入れると、この訴えは却下になったと思われる。
同じ三浦郡内の村でも、日々の御用(浦賀奉行御用等)が多いので御用御免を願い出る村もあった。
【史料31】「朝鮮人来朝御用御免願書」
右拾七ケ村之者共御訴訟申上条、来辰年朝鮮人来朝ニ付藤沢町御泊宿御用人馬并馬入川船橋御用竹木諸宮御普請人馬大工釘等之諸御入用三浦郡村々江被為仰付奉畏、先達而御請書差上申候、然処ニ私共村々之儀年中品々御用相勤候訳、左ニ書付奉入御覧奉願上候御事
一 享保五子年下田番所浦賀江御引移以来、浦賀御奉行様御往来之人馬御役其外年中御番所附諸御用相勤申候御事
一 城ケ嶋御用ニ付御役人中様御往来之人馬相勤□□御事
一 御犬捉飼御用人足相勤申候御事
一 海鹿御用人足相勤候御事
一 大筒御用人足鵠沼村迄差出相勤候御事
右之通年中品々御用相勤候ニ付、先年 日光御社参之節御用人馬之儀茂御免被成下置候、私共村方之儀右申上候通年中昼夜を不限諸御用相勤候処、此度朝鮮人御用人馬并馬入川船橋諸御用被為仰付奉畏候得共、何れ□大切之御用差またき候を相勤候儀難儀至極仕候、何卒御慈悲を以此度朝鮮人一件之御用御被免成下置、平月之御用無恙相勤候様ニ被為 仰付被下置候ハヽ、難有御救奉存候、以上
延享四卯年十二月
相州三浦郡
村越茂助知行所 下平作村 名主 伊右衛門
水野藤次郎知行所 上平作村 名主 幸七
向井将監知行所 金谷村 名主 勝右衛門
同 池上村 名主 儀右衛門
同 小矢部村 名主 佐五兵衛
同 森崎村 名主 佐助
蓑笠之助様 御役所 同 不入斗村 名主 三郎左衛門
鈴木四郎左衛門知行所 佐野村 名主 与右衛門
御領分九ケ村
酒井雅楽頭知行所 中里村 名主 五左衛門
組頭 茂平次
上山口村 名主 市右衛門
同 善右衛門
組頭 利右衛門
木古庭村 名主 太右衛門
組頭 兵右衛門
長柄村 名主 庄右衛門
同 伝左衛門
惣右衛門
桜山村 名主 六郎左衛門
同 久左衛門
逗子村 名主 加左衛門
組頭 儀右衛門
同 林右衛門
久野谷村 名主 六郎兵衛
組頭 杢右衛門
山ノ根村 名主 平左衛門
組頭 利右衛門
沼間村 名主 八左衛門
組頭 新助
同 権九郎
(『葉山町史料』所収 伊東家文書)
ここに名前を連ねている村々のなかで森崎村以外は、浦賀番所の水主役及び増水主役を負担している村ではない。このうち木古庭・桜山・久野谷の各村には「村明細帳」(25)が残っている。朝鮮人御用は村明細帳にも記載される諸役なので、御用御免となればその旨記載されるはずである。しかしこのような記載は文化8年(1811)の桜山村明細帳に「宝暦十二午年より鎌倉人馬之儀ハ先規之通相勤申候処、宝暦年中来朝之節より以来相勤不申候」とあるが、現在確認できる木古庭・久野谷の明細帳にこうした記載はない。
5 村筒(村足軽)による警固
中世末から近世初にかけて兵農分離が進んでいく過程で、百姓の刀・鉄砲類の所持は禁止されたことになっているが、鉄砲に関しては17世紀以後山野の開発に伴い、有害鳥獣類の駆除などの名目で山村に急激に普及していく。幕府も初めはこれを容認する方針をとったが、明暦3年(1657)関東悪党取締令を強化して免許地以外での鉄砲の所持を禁止した。さらに延宝4年(1676)には山中で鳥獣害のため鉄砲を必要とするところのみ、領主や代官の指示で特別に所持を許可することとている。
小田原藩では山間部で狩猟を糧として生活する者(主に猟師)の鉄砲所持(村足軽・郷足軽あるいは村筒)や、農産物を荒らす鳥獣の威嚇用四季打鉄砲(実弾を装備しない威鉄砲)の所持(脇筒)を特別に許可している(『小田原市史通史編 近世』)。
5.1 村筒(村足軽)とは
小田原藩領において村筒の多くは箱根や丹沢山中・御厨領の山間村に集中している。これは前記の通り、鉄砲が山野村における有害鳥獣の駆除を目的として所持されたからである。村筒の主な諸役は、藩主が将軍上洛や日光参詣に供奉している最中と朝鮮人・琉球人使節が小田原宿を通行する際に、小田原城下の辻番(小田原番)及び箱根等関所の加番とを勤めることであった(『小田原市史通史編 近世』)。この時には藩から1人1日につき、1升の扶持米が味噌・塩とともに支給されている(『貞享三年相模国足柄上郡中筋皆瀬川村指出帳』(皆瀬川村井上家文書)等)。その他「殿様御しゝ狩御被遊候節、村筒御用次第御役相勤申候」(同上『皆瀬川村指出帳』)や『貞享三年相模国足柄上郡谷ケ村指出帳』(谷ケ村武尾家文書)に「御役目朝鮮人往来の節御番、又は殿様御狩の節は御用次第に勤申候」ともあり、領主が狩に出るときには供をしていたことがわかる。
寛永14年(1637)小田原藩は村筒(村足軽)に対して諸役免除を通達している。『小田原市史通史編近世』ではこのことについて、稲葉氏が入封後に関東御要害構想の一環として箱根関所等の警衛強化がはかられ、当時の村筒(村足軽)の動員が正規に位置づけられたことによるものであるとしている。寛文2年(1662)10月4日小田原藩は領内において鉄砲改めを行い、鉄砲の所持者を掌握するとともに、札(鉄砲鑑札)を支給している。これ以後小田原藩内の鉄砲所持者(村筒)数は固定される。こののち小田原藩は大久保氏に引き継がれるが、貞享3年(1686)稲葉氏が移封の際に提出した「稲葉家御引送書」に
一 在々村足軽都合三百拾八人、銕炮壱挺所持小頭拾四人者米弐俵充遣候、小頭平之者共ニ持高拾石迄者諸役引遣候
三廻部村杢右衛門組 弐拾壱人小頭共ニ 向原村藤右衛門組 弐拾壱人小頭共ニ
皆瀬川村茂右衛門組 弐拾壱人小頭共ニ 世付村長十郎組 弐拾壱人小頭共ニ
久野村六郎兵衛組 弐拾壱人小頭共ニ 湯本村与五右衛門組 弐拾壱人小頭共ニ
底倉村市郎兵衛組 弐拾壱人小頭共ニ 宮上村弥平治組 弐拾壱人小頭共ニ
(以下静岡県内 6組各25人)
(『神奈川県史資料編4 近世(1)』所収)
とあり、14組318人が記されている。このうち皆瀬川村茂右衛門組に属する村々は皆瀬川村5人・湯触村2人・都夫良野村1人・山市場村1人・神縄村3人・河西(川西)村7人・谷ケ村2人の計21人(小頭を含む)であった。その他脇筒が11人(延享5年「一札(村筒改めにつき一札)」谷ケ村武尾家文書)いたことがわかっている。
5.2 村筒の朝鮮人御用
5.2.1 猪・鹿の調達村筒の朝鮮人御用は主に小田原城下の辻番だったが、それ以外にも食材として猪や鹿を小田原宿に供給している。延享5年(1748)に朝鮮人使節が来日した際には、次のような廻状が出されている。
【史料32】『辰ノ年御用次御配符上下書留覚』(横帳 部分)
此度朝鮮人御用之猪其村々ニ而打セ候間、村筒打留メ候ハヽ、皆瀬川村筒小頭茂右衛門方江村次可相届候、以上
辰四月六日
地方御役所
(相模国足柄上郡皆瀬川村井上家文書(神奈川県立公文書館寄託))
同じ横帳の4月16日の箇所に、地方役所の田口浅右衛門から小頭茂右衛門へ、塩漬けにした猪を役所へ届けるようにと指示があったことが記されている。
覚
昨今注進被致候、其村々ニ而打候猪弐匹分塩漬いたし、樽ニ入、こも上包、指札ニ朝鮮人御役所迄と相認付候而、明朝小田原江可被指出候、尤此方昼八ツ時分相届候様ニ其元より明十七日未明差遣可被申候、是又別紙ニ村次指図差遣候間、右之指紙付候而遣可被申候、以上
辰四月十六日
田口浅右衛門
皆瀬川村村筒小頭 茂右衛門殿
四月十七日朝五ツ半時分出ル 御用猪小田原江出候
この年皆瀬川村茂右衛門組として4月6日から5月6日までの間に、次の史料のように猪を4匹、鹿を1匹小田原へ納めている。
【史料33】『朝鮮人御用鹿猪帳』
覚
四月十五日
一 猪弐ツ 内 壱ツ都夫良野村内留、谷ケ村ニて打留申候
一 松本樽ニ四ツ入申候 内 壱ツかの(狩野)村組江かシ申候
同四月十七日出候
一 三樽 小田原御役所様江指出シ候 指出人足六人
一 壱樽 同御役所様江指出シ候
是ハかの村より小田原へ皆瀬川分と申納申候
五月六日打申候
一 猪弐ツ 内 是ハ侭沢之入柳嶋山ニ而、壱ツ皆瀬川村ニて打留、壱ツ都夫良野村打留、是ハ平山太き入内山山ニ而打留申候
五月六日
一 樽四ツ 内
同十一日
弐樽御役所へ遣申候、是分弐匹ニ御注進申候
五月十五日
同弐樽御役所へ遣申候、此分弐匹ニ御注進申候 〆人足八人
五月七日
一 鹿壱ツ 八丁山ニ而打留申候、ぶしん(普請)ニ而小田原へ指遣申候 人足壱人指出シ
四月十五日より五月六日迄
〆 松本樽八ツ
外ニ鹿壱ツ
(後略)
(相模国足柄上郡皆瀬川村井上家文書(神奈川県立公文書館寄託))
この猪狩りについては、村筒衆へ扶持米が支給されており、小頭の茂右衛門が受取手形を提出している。米1石1斗1升は、村筒1人1日につき1升の扶持米として計算すると、111人分になる。皆瀬川茂右衛門組は小頭を含め21人で構成されているので、1人平均5.3日出動したことになる。
【史料34】「覚(朝鮮人御用につき扶持米受取り)」
覚
一 米壱石壱斗壱升
右者朝鮮人御用之猪、昼夜村筒之者随分被仰付候ニ付、御扶持米入内借り受取申所、実証ニ御座候、重而本手形引替可申候、仍而如件
辰ノ四月
皆瀬川 小頭 茂右衛門
(相模国足柄上郡皆瀬川村井上家文書(神奈川県立公文書館寄託))
5.2.2 小田原番
朝鮮人御用の際村筒衆は大小の二刀を差し、鉄砲を持って小田原宿等で警備にあたる。
この御用は使節が止泊する時だけではなく、使節一行の通行に先だって献上の鷹が小田原宿を通行する際にも召集されている。延享5年(1747)の来日の際は、献上の鷹が小田原宿に泊まる10日ほど前に地方役所から、触れがあり次第指定の場所に集合させるようにとの指示が村筒小頭に出された。この時は当初20人を連れて集合するようにとの指示があったが、1週間前には5人に減ぜられている。最終的に4月28日に鷹が小田原宿へ泊まることが確定した25日に、明後日の朝六つ時(午前6時頃)までに小田原へ到着するようにとの触れが出された(『辰ノ年御用次御配符上下書留覚』皆瀬川村井上家文書)。
実際通信使一行が小田原に宿泊するにあたっては、数日前から村筒衆が宿に詰めて警備にあたっている。
延享5年の来日時は5月12日から5月20日までの9日間、帰国時は6月11日から21日まで11日間同様に小田原宿に詰めている。使節の来日時13組あわせて1348人が朝鮮人御用で小田原宿に詰めていたことになる。帰国時もほぼ同様だったと考えると、
【史料35】「覚(朝鮮人御用につき逗留日数書上げ)」
覚
一 村筒弐百廿三人 小頭共 五月十二日より同十三日迄 壱泊り
一 村筒弐百九人 五月十三日より同十四日迄 壱泊り
一 村筒百九拾八人 五月十四日より十六日迄 二泊り
一 村筒百八拾八人 五月十六日より同十七日迄 壱泊り
一 村筒百拾六人 五月十七日より同十八日迄 壱泊り
一 村筒弐百人 五月十八日より同十九日迄 壱泊り
一 村筒弐百拾四人 五月十九日より同廿日迄 壱泊り
〆 千三百四拾八人
右者朝鮮人御用ニ相詰候逗留日数相違無御座候、以上
辰五月
二枚橋村 小頭 又七
井野村 同 安右衛門
神山村 同 太郎左衛門
清後村 同 次郎左衛門
竹下村 同 又左衛門
宮上村 同 又左衛門
向原村 同 与惣兵衛
湯本村 同 与五右衛門
底倉村 同 八右衛門
皆瀬川村 同 茂右衛門
世付村 同 長十郎
狩野村 同 政右衛門
下多賀村 同 伊左衛門
(相模国足柄上郡皆瀬川村井上家文書(神奈川県立公文書館寄託))
また、皆瀬川村茂右衛門組をみると、来日時は151人、帰国時は143人が小田原宿に詰めていたことが記されている。来日時は1人平均7.2日、帰国時は6.8日それぞれ召集されている。史料では御鷹通行時と使節一行が通行した時のものしか確認できないが、このほかにも献上の馬や別幅が通行する際にも同様に召集されたと考えられる。また、小田原藩は箱根での昼休も担当していたので、村筒衆の召集はこの期間の連日にわたったものと思われる。村筒衆の負担も重かったのである。
【史料36】「覚(朝鮮人来朝及び帰国の節、村筒衆宿泊数書上げ)」
[ ]
皆瀬川村茂右衛門組
[五]月十二日夜泊り 一 人数弐拾壱人
同十三日夜泊 一 同 廿壱人
同十四日夜泊 一 同 廿壱人
同十五日夜泊 一 同 十八人
[同]十六日夜泊 一 同 十六人
[同]十七日夜泊 一 同 十七人
同十八日夜泊 一 同 十五人
同十九日夜泊 一 同 廿一人
同廿日夜泊 一 同 壱人
〆百五十壱人
右之通、村筒衆朝鮮人来朝之節御宿仕申処相違無御座候、以上
宿 平十郎
孫市殿
皆瀬川村茂右衛門組
六月十一日夜泊 一 人数弐拾壱人
同十二日夜泊 一 同 弐拾壱人
同十三日夜泊 一 同 拾人
同十四日夜泊 一 同 七人
同十五日夜泊 一 同 七人
同十六日夜泊 一 同 拾三人
同十七日夜泊 一 同 弐拾人
同十八日夜泊 一 同 三人
同十九日夜泊 一 同 拾九人
同廿日夜泊 一 同 弐拾壱人
同廿一日夜泊 一 同 壱人
〆百四拾三人
右之通、村筒衆朝鮮人帰国之節御宿仕申処相違無御座候、以上
辰[六]月廿ニ日
宿 平十郎
孫市殿
右之通夜数人数共相違無御座候、以上
皆瀬川村 村筒小頭 茂右衛門
(相模国足柄上郡皆瀬川村井上家文書(神奈川県立公文書館寄託))
6 その他の御用
上記の朝鮮人御用の他に、通信使が通行する往還(県内では東海道)の維持管理に関する御用も割付けられる。尤もこれらは朝鮮人御用のみの臨時の割付ではなく日常の業務に係わるものだが、幕府の威信をかけた一大事業であった通信使の来日に際して、特に念をいれて作業が行われたと考えられる(26)。
【史料37】「覚(朝鮮使節来朝につき立枯れ並木処理の件)」
覚
一 松壱木
一 松葉枝弐拾五わ 但五尺縄
右者此度朝鮮人来朝ニ付、御並木立枯并枝往還へ出張之分伐払被仰付候ニ付、枝出張之分伐払仕候様ニ書面之通ニ御座候ニ付、御改之上村方へ御預ケ被遊奉願候、尤大切ニ仕紛失無之様ニ可仕旨被仰付奉畏候、依之預り之書付差上申候、以上
宝暦十三年未十二月
生麦村 名主 次郎右衛門
年寄 勘左衛門
(武蔵国橘樹郡生麦村関口家文書(神奈川県立公文書館所蔵))
【史料38】「覚(国府津村往還掃除丁場割付につき)」
覚
一 国府津村丁場拾七間半也 六ケ村分
代銭弐貫四拾文 皆瀬川村
同 弐百八拾八文 都夫良野村
同 弐百八拾八文 湯触村
同 壱貫四百五拾六文 川西村
同 百四拾四文 山市場村
同 八百七拾弐文 神縄村
今度朝鮮人来朝ニ付、道中掃除并道塚芝附申候由、被仰付候通少も相違無之様ニ仕立、賃銀壱間ニ付四匁宛相定請負申候、朝鮮人帰国迄右掃除仕立、其元より少も御構不被成候様ニ可致候、即賃銀不残受取申候、以上
卯ノ六月六日
国府津村 理左衛門印
右村々 御名主中様
(『山北町史資料編 近世』所収 都夫良野岩本宣夫家文書)
生麦村は神奈川宿と川崎宿の間にあり、享保初年(18世紀初)には鶴見村とともに人足立場・馬立場が百姓によって経営されていた。文政8年(1825)の紀行文である『杉田図絵』(竹村立義著)に「生麦村、このあたり食事、酒などあきなう家多し」とかかれているように(『鶴見町史』)、往還を行く人々でかなり賑わっていたと思われる。
国府津村は小田原宿と大磯宿の間にあり、村の南の海岸部を東海道が通っている。この東海道のうち、17間半分(約3150m)が中山家6か村の掃除丁場となっており、これを延享4年(1747)6月6日に国府津村の理左衛門が1間につき銀4匁で請負っている。代銀は村高に応じて6か村で割付けたと思われ、17間半分の代銀60匁(6か村の代銭の合計5貫88文)を請負主に渡している。この他にも奥山家3か村分の請負証文も残っており(『山北町史資料編 近世』文書解説)それぞれが請負に出していたことがわかる。
また、酒匂川や馬入川に船橋を架けた場合、使節の通過後に橋を取崩す作業があり、人足が割り当てられている(27)。
【史料39】『未年御配符の覚帳』(部分)
覚
惣郡役高懸り
一 人足五百三拾六人
是ハ、朝鮮人帰国従、土橋木類置砂等取払手間一式
右者酒匂川土橋懸渡人足之内、朝鮮人帰国従一式取払手間、先達而積落ニ付、此度書面之通相増候間、其旨相心得、追而割賦相触次第無間違可被差出候、此廻状村下ニ名主致請印、早々相廻留り村より小川甚平方迄可被相返候、以上
未十二月十二日
楠田小忠太
横山覚太夫
(開成町金井島瀬戸家文書(神奈川県立公文書館寄託))
宝暦年中の来日は酒匂川に土橋が架かっている期間(10月5日~3月5日)にあたったため船橋を架渡していないが、この土橋取崩しのための人足は朝鮮人御用として割付けられている。ちなみにこの年、宝暦14年(明和元年 1764)通信使が帰国のために酒匂川を通行したのは3月13日であり、使節の通過後すぐに取崩されたと思われる。
この他にも宿へ火消人足や給仕人・料理人を派遣したり(28)、食材を納入したり(29)している。これらは来日前に個数を割当てられても、帰国時さらに増量されることもあり(30)、帰国のために通信使一行が宿を出発するまで気を抜けなかったことだろう。
7 おわりに
以上、県内の村々に割付けられた朝鮮人御用と村々の対応を、現在確認できる(刊行物に収録されているものを含む)史料を中心にみてきたが、史料の関係で相模国が中心になってしまったことは否めない(31)。
通信使の来日が決定すると幕府総出で饗応や応接の準備に取り掛かることになるが、準備から帰国後の後始末までに3~4年(宝暦年中は11年1月18日に宗氏に伝達、実際の来日は朝鮮側の都合で4か月ほど延期され、14年2月16日江戸着)かかることもあり、御馳走役や朝鮮人御用掛に任命された大名や代官はこの間大忙しであったことだろう。朝鮮通信使の応接は幕府の威信をかけた一大事業(江戸期6回目徳川家綱以降は将軍にとって一世一代の事業)であり、万が一にも不手際があってはならないものであった。そのため前回、前々回の事例を「先格(前例)」として重視したのである。
最後に宝暦年中に出された心得を引用しておく。このような心得が出されるということは、このような振る舞いをする者がいる、もしくは過去にいたということを暗示しているといえよう。朝鮮通信使の来日は諸役の負担増加ということがあった反面、行列の見物は庶民のささやかな楽しみだったのかもしれない。
【史料41】「覚(朝鮮人使節来朝につき往還通行の節の心得)」
此度朝鮮人来朝ニ付、往還村々通行之節、村々行義・作法宜并ニ自分の家廻り掃除以下家主共随分心ヲ附、別而火之元無油断入念大切ニ可仕候事
一 村々喧嘩・口論ハ勿論、其外不依何事さわかしき義無之様申会、尚又役人可心附候事
一 書翰轎(32)、朝鮮人、宗対馬守様御通行之節、往還通り村々表向見江候処者、作法宜仕、男之分者土間ニつくはい可罷在候、女ハ床之上居候共、立候而不可罷在候、他所旅人ニ候とも断申達床ノ上不及申、惣而立せ申間鋪候
附り官人見物として罷出候者ニ有之候ハヽ、右申触候御作法宜様ニ申達取計可申候、他所より参候者、声高或ハ不行義於有之ハ、家主越度ニ付候事
一 宗対馬守様御家来ニ迄茂惣而売物等高直ニ仕間敷候、其段下男下女迄茂堅可申付置候事
一 箱根宿其外小休之場所ニ而ハ別而心ヲ附、荷物等紛失無之様ニ可致候、御宿主共ハ勿論其外押立候宿主之分ハ、上下着用可致事
一 小田原止宿之節者往還筋者勿論御領分近郷之者共、家主不寝番いたし火之元入念可申事
一 万一出火於有之ハ、欠付差図次第消鎮メ可申候、勿論随分騒働無之様ニ取計、往還通筋出火之節者、向寄ニ集り罷在差図次第消鎮可申事
但シ往還通筋之節者
江浦筋村々ハ筋違橋町大蓮寺前
小森山角町王伝寺前
中筋土手内辺ハ浜手口御門外
東筋ハ唐人町
一 往還通村々ニ而、家並草履・木履等迄高キ所江不差置、下へ差置可申候事
一 乱心者等之儀弥入念事
一 往還筋江外村々より罷出候者共、諸事相慎慮外無之様ニ入念可申事
一 往還通村々、書翰轎・三使・宗対馬守様(33)江者急度御時宜可仕候、其外朝鮮人ハ不及申、諸大名方之御家来等迄、無礼之躰無之様心ヲ付可申事
一 往還通村々朝鮮人・宗対馬守様御通行之節子供たり共往還江出シ不申様ニ可致候事
一 先達而申触置候通、進上之御鷹通行之節、近村ニ而犬・猫繋置可申候事
右之趣、急度相守可申候、往還通り者勿論、其外村々ニ而来朝・帰国共右之心得ニ而罷有諸事入念可申事
十一月
右者此度朝鮮人来朝ニ付書面之通、村々百姓共急度可申付置候、此段相触候、以上
未十一月九日
内田半助(34)
(相模国足柄上郡皆瀬川村井上家文書(神奈川県立公文書館寄託))
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