有田和樹氏の「幕府役人の前原宿通行」

有田和樹氏の「幕府役人の前原宿通行」を読む

 この有田氏も面識を持たないが、朝鮮通信使研究の進展の一端をするだけに、実に興味深い。 副題「文化八年朝鮮通信使応接のため寺社奉行脇坂中務井大輔の対馬下向」がなければ、私も朝鮮通信使に関する研究であると夢にも思わなかった。一読三嘆とは、このこと。 筑前黒田藩領西端の前原宿はさほど大きい宿場ではない。しかも普段は唐津藩主の参勤交代などごくわずかな大名の宿泊場所として利用された程度であった(参考資料「殿様御巡見被為成ニ付前原御用人馬郡方諸品并縄薪夫役書上帳 志摩郡御床触」九州大学附属図書館)。  さて、文化元年【1804】に徳川幕府は朝鮮通信使招聘役として老中筆頭の戸田采女正ほか5名を任命した後、朝鮮通信使の来日が延期されて事に伴い、文化4年(1807)に正式に「差添御使 脇坂中務大輔安薹」が誕生した。  文化8年2月28日に、脇坂中務大輔は江戸を出発し、3月18日に大阪に到着。その後、3月23日に生国の脇坂に帰還。その後の経路は以下の通り。    文化8年3月18日 龍野ー有年→三石        4月9日  小倉泊           4月10日 小倉→黒崎→木屋瀬→飯塚        4月11日 飯塚→内野→山家→二日市→博多        4月12日 博多→福岡→姪浜→今宿→前原→深江        4月13日 深江→浜崎→唐津→呼子        4月14日 呼子→対馬   この長崎街道を通過した大名行列に関しては、   先触  1,継人足150人 長持24棹    但 駕籠3人       指駕籠17挺      分持12荷     駄賃銭支払  1,本馬70匹    乗掛23匹    駄馬47匹 とある。  有田氏の研究によれば、脇坂中務大輔が通行する3日前に、福岡藩は前原宿の手前の池田川から藩堺の多久川までの道路掃除を命令しているという。    怡土軍井原触(人夫36人、馬三匹) 池田川から前原宿東口    志摩郡御床触(人夫30人、馬20匹)前原宿西口から多久川  さらには、休憩場所として駕籠立場と水茶屋が配置されたそうだ。福岡藩の接遇は徹底しており、藩の威信にかけて微に入り細に入り準備に努めた。  前原宿の接遇責任者として、馬場村組頭嘉吉を配置し、各休憩者其々の休憩場所に「詰方」も配置するほどであった。有田氏の調査によれば、    休憩者 脇坂中務大輔  休憩場所 御茶屋 詰方 三坂村庄屋惣内・前原宿組頭孫助    休憩者 脇坂玄蕃    休憩場所 町茶屋 詰方 潤村組頭 又次 が良い例である。  朝鮮通信使応接役の「差添御使 脇坂中務大輔安薹」はれっきとした幕府の役人であるだけに、福岡藩から派遣された福岡藩郡奉行村上又左衛門、同行者である御免用方森武右衛門(馬廻組300石)・鈴木源太夫(大組800石)が前原宿にて待ち受けて、藩主の代理として挨拶を交わしたそうだ。  ちなみに福岡藩内では、有田氏の調査によると、黒崎から長崎街道を経て、博多・福岡・前原、そして深江までの通行に関しては、福岡の下簀子町在住の人足請負町人萬屋藤三郎が銀39貫目(650両)で請負い、約1000名体制を整えたという。 必要な物品に関しても、有田氏の報告にあるので、参照を願う。  いずれにせよ、福岡藩前原宿を経過する文化8年4月12日の数時間の事態であれ、有田氏の研究によって、詳細な報告が届いた。  この研究の延長線上に、朝鮮通信使一行の対馬から江戸までの往還における詳細な人・モノ・カネ・情報などの流れを究明できる時代に至った。  かっての「善隣外交」の旗頭に、先進国朝鮮が後進国日本に新しい文化を伝えたという一部の論者の偏狭な見解を脱していくには、有田氏の研究に認められる地に足のついた研究成果の積み重ね以外にあり得ないと信じる。       

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