対馬藩「韓語司かんごけいこどころ」の朝鮮語教育

 

目次

対馬藩「韓語司(かんごけいこどころ)」の朝鮮語教育

松原孝俊 趙眞璟

 

1

雨森芳洲と対馬藩「韓語司」設立経緯をめぐって

一 はじめに

二 享保年間以前の対馬藩における朝鮮語教育

三 享保五年の対馬藩

四 雨森芳洲の外国語学習

五 「韓語司」の学校運営と稽古生募集

六 「韓語司」第一期生に対する教育内容

七 「韓語司」第一期生に対する評価方法

八 まとめにかえて

第1章註

 

2

厳原語学所と釜山草梁語学所の沿革をめぐって-明治初期の朝鮮語教育を中心として-

一 はじめに

二 厳原朝鮮語学所の開設

三 厳原韓語学所の運営

四 厳原韓語学所の廃止

五 釜山草梁倭館の語学所の設立と廃止

六 まとめにかえて

第2章註

 

参考文献

 


対馬藩「韓語司(かんごけいこどころ)」の朝鮮語教育

松原 孝俊

趙 眞 璟

 

 

第一章 雨森芳洲と対馬藩「韓語司」設立経緯をめぐって

 

一 はじめに

  本稿の目的は、対馬藩の韓国語教育機関であった「韓語司」の設立経緯の解明と、その開設に尽力した雨森芳洲の外国語教育理念を、韓国語教授法の観点から分析することにある。

 そもそも江戸時代の対馬藩における「朝鮮言葉」を解する通詞は、朝鮮国との対外交渉の最前線で活躍する外交官役を務め、

 

[資料1]「朝鮮ニ相勤候御役人館守裁判一代記ハ勿論の事に候~~(中略)~~、其外ニハ隣交之儀、通詞より切要なる役人ハ無之候」(長崎県立対馬歴史民俗資料館蔵写本『朝鮮御通交ニ付雨森東五郎存寄』)

 

ように、「御隣交之御役」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」)と考えられた。なるほど

 

[資料2]「朝鮮向之御役目相務候人数多有之之内、通詞之義ハ身分軽御座候            而も、役目ハ大切成事ニ奉存候。」(雨森芳洲「韓学生員任用帳」)

 

であったものの、藩内において家老にのみ許された錦服であったが、例外的に通詞にもその着用が許可され、特別に遇されたという(小倉進平、1934年、73頁)。しかしながら朝鮮語学の大先達である小倉進平でさえも、およそ70年経過した明治維新前の対馬藩における朝鮮語教育の実態に関する知識は、ほとんど無かったようである。

     小倉進平「釜山に於ける日本の語学所」『歴史地理』第63巻第2号、        1934年

 

[資料3] 「当時まで(明治4年…筆者注)の対馬に於ける朝鮮語研究機関を見るに、特別に語学所とか語学研究所など称するもの無く、厳原在住の勤番通事なる者が其の家塾にて子弟を教育した」(小倉進平、1934年、P72)

 

と説明しているにすぎず、慧眼な小倉進平にしてもほとんどその実態を知らないままで、わずかに「勤番通事なる者が其の家塾」での朝鮮語学習があったと報告しているだけである。これは、明治初期に設置された釜山語学所で朝鮮語教育を受けた、当時78歳の中村庄次郎翁の思い出話を書き留めたものであるが、中村翁の追想によると、幕末・維新初めの朝鮮語教育は、その教わった言語が「京城(現在のソウル)の標準語」であったこと、そして先生は朝鮮人ではなくすべて日本人であったこと、雨森芳洲が著したという『交隣須知』と『隣語大方』などを教科書として利用したという。

 対馬及び釜山での朝鮮語教育の実態を報告した小倉進平の文を読んだ、釜山在住の郷土史家の大曲美太郎は、地の利を生かして旧釜山倭館時代資料の収集に努めた。大曲は主として釜山府立図書館所蔵の『朝鮮事務書』に依拠して、明治初期から明治39年までの朝鮮語教育の歴史を概括し、併せて明治六年(1873)に開設された「草梁語学所」の諸規定などを紹介した。今日では、忘れ去られ、ほとんど資料さえ見出せない「草梁語学所」ばかりでなく、明治12年に大谷派本願寺僧侶・奥村輪番によって創立された「韓語学舎」や、明治39年ごろの釜山港日本居留地釜山公立小学校補習科朝鮮語教室などの貴重な情報を、大曲は数多く残してくれたのである。

大曲美太郎「釜山に於ける日本の朝鮮語学所と『交隣須知』『ドルメ           ン』1935年3月号

大曲美太郎「釜山港日本居留地に於ける朝鮮語教育」『青丘学叢』第2          4号、1936年

  ここでどうしても注意して置かなくてはならないことは、昭和10年代に釜山に居住していた、かっての釜山草梁語学所で学んだ経験者からの聞き書きには、江戸時代対馬藩の朝鮮語学習に関して、小倉進平の文では「其の家塾にて子弟を教育した」とあり、また大曲美太郎の文では「従来の宅稽古」(大曲美太郎、1936年、148頁)とあるように、かならず個人レッスンを中心とした私塾での教育が行われたとあり、決して学校教育と記載されていないことである。大曲にいたっては、

 

[資料4]「愈愈五年十月二十五日(1872)より厳原光清寺に語学所が        配置せられ同寺の本堂(方七間)を教場として朝鮮語が住永友ノ輔等によって教授された。茲に始めて従来の宅稽古より学校教育に変わった」(大曲美太郎、1936年、148頁)

 

のように、「茲に始めて」と特記するほどであった。小倉進平と大曲美太郎の二人の文を読む限り、対馬藩においてまったく朝鮮語学校が存在しなかったような印象を受けるに違いない。

  それに対して、田川孝三の研究は本格的に対馬藩の朝鮮語教育を取り扱ったものではなく、対馬藩でも名高い通詞であった小田幾五郎の経歴とその著書を解明したものにすぎない。しかしながらわれわれにとって驚くべきは、この田川の論文の中で言及されている、対馬藩の通詞の沿革である。次の論文である。

    田川孝三「対馬通詞小田幾五郎と其の著書」『書物同好会冊子』第11号、

1940年(『書物同好会会報付冊子』龍渓書舎、

1978年に復刻・再録)

 全体が十二頁の中の、わずか四頁に満たない分量であるが、この論文には「私も未だ充分の調査を遂げたと云ふのではなく、覚書の程度に過ぎないのであるかが、今日迄主として朝鮮史編修会所蔵の旧宗家文書により知り得た所」との前提がついているが、

 

[資料5]「対馬の通詞の歴史は、大体之を二期に分けられる。即ち享保以前と、それ以後である。享保以前は謂はゝ自習時代とも云ふべく、何等組織的教育機関とてなかったが、朝鮮語には堪能な者が頗る多かった。而して士分にして朝鮮語に通じ直接会話の出来た者もあったであらうが通詞として活躍したのは殆ど町人であった。~~(中略)~~、その後宝永年間よりは和館も漸次衰微し、商売の為渡る者も減少し、朝鮮語に通ずる者並に稽古に励む者も途絶えて少なくなって来た。只僅かに弱年にして稼の為に、或は人に付従って渡鮮下者、生残の者の中から漸く撰び出すと云ふが如き有様であった。その後さらに十四年もたち館中の衰微愈甚しく、鮮語に通ずる者殆ど地を払ひ、当時対府の町中吟味しても通詞に仰付けるべき程の者は一人もあるまいと云はれる程になった。~~(中略)~~、然るに丁度此の頃(筆者註:元文年間)、彼の有名な芳洲雨森東五郎が対馬侯に仕へるようになり、彼の力によって朝鮮語研究の復興が企画され、又通詞も組織的に養成されるようになったのである。~~(中略)~~、各彼自身熱心に研究したばかりでなく、通詞の重要なる事を慮って、建議する所あり、遂に韓語司を設け、教授を置き、訳生を募集して、組織的に通詞を養成する事となった。」(田川孝三、1940年、2~4頁)

 

  いささか長い引用文となったが、率直に言えばこの見通しが実にすばらしいからである。われわれの考察も、ほぼこの基本線の上で展開することになるはずである(註1)。

 またこの後、対馬藩の朝鮮語教育に関する考察は発表されることはなかったが、およそ半世紀経過して、次の田代和生・米谷均の両論文がほぼ時を同じくして公刊された。

    田代和生「対馬藩の朝鮮語通通詞」『史学』60ー4、1991年

    米谷 均「対馬藩の朝鮮語通詞と雨森芳洲」『海事史研究』48、1991年

  田代と米谷の両氏の関心はほぼ同一であり、雨森芳洲の行った朝鮮語通詞養成の意義と、対馬藩内の朝鮮語通詞の構成、変遷、地位、活動実態とその藩内における職階と、藩政に果たした通詞の主要な役割を解明することにあった。田代・米谷の両論文の特徴は、田川が資料名こそ公表しないで活用した『詞稽古之者仕立記録』(朝鮮史編修会旧蔵・韓国国史編纂委員会現蔵)に加えて、長崎県立対馬歴史民俗資料館現蔵の「宗家文庫」資料などを綿密に調査して、通詞養成過程の輪郭を膨大な文書群(例えば、『類聚書抜』ほか)の中から見事に説明したものである。朝鮮語教育の観点からの分析を試みるわれわれにとって、田代・米谷の両論文に裨益される所少なく、むしろかれらが発掘した資料群なくして、本稿は生まれ得なかったほどであり、あらためて二人の学恩を特記したい。しかしながら両氏の分析視点はあくまでも日本史学の枠内にとどまっており、われわれとの問題設定との相違も大きい。まだまだわれわれに残された問題が山積しているように思える(註2)。

  1991年には、もう一つの注目すべき論文が発表されている。中国文学研究者の上野日出刀の、

      上野日出刀「雨森芳洲」『木下順庵・雨森芳洲』(叢書・日本の思想家⑦)              明徳出版社、1991年、115~257頁

である。平易な叙述で、芳洲の生涯と思想的変遷を丹念に辿っているが、われわれにとっても、その第6章「朝鮮言葉稽古」(148~152頁)は無関心でおられない。ただし、朝鮮語教育に関する独立した章があるものの、上野の主たる関心は別なところにあるばかりでなく、宗家文書を十分に駆使していないだけに、結果的に上野の論も田川の概略以上のものとなっていない。

  なお比較文化と国際交流の観点を前面に押し出した、

      上垣外憲一『雨森芳洲』中公新書、1989年

があることを、われわれは留意しておきたい(註3)。

 

 

二 享保年間以前の対馬藩における朝鮮語教育

 

趙慶男の『乱中雑録』庚午(1600年)五月の条に、

 

[資料]「対馬島(対州)管二郡~~(中略)~~、其女子多着我国衣裳、而其男子幾解我国言語、称倭国必曰日本、称我が国必曰朝鮮、未嘗専以日本自居、在平時蒙利於我国者多、蒙利於日本者少」

 

とあり、対馬女性は朝鮮の言語を知らないが、朝鮮服を着用していたという。一方、対馬男性の「幾人」は朝鮮語を流暢に話していたという。そうした朝鮮語取得の方途として、

 

[資料]「対馬之倭鋭毒不足、而巧詐百出、於我国之事、又不周知、自平時択島中童子之怜悧者、以教我国言語、又教我国書契簡牘之低仰曲折、雖明眼者倉卒不可弁其為倭書」

 

  この記事によると、対馬島の中でも「怜悧な童子」に対して、朝鮮語を学習する機会が与えられていたとある。しかしこの文中の「教」がはたしていかなる意味に用いられたかは、はなはだ疑問とすべきであり、これがただちに「朝鮮語学校」を指し示すものではないことは留意しなくてはなるまい。それと符合する記事として、1682年(天和2年、康煕21年)に来日した訳官金指南が書いた『東槎日録』壬戌八月二十一日の条に、

 

[資料]「而貴国之語、即馬島之人、多能通暁、用是国無置講習之規歟」

         (『海行愡載』巻4、朝鮮古書刊行会、1914年、107頁)

 

の記事によって、「講習之規」はないとあり、学校などによる学習のチャンスは置かれていなかったが、対馬人たちは朝鮮語に「多く能く通暁す」とある。ただ、この金訳官を尋ねた対馬人通詞が、こう告白したという。

 

[資料]「其倭連日来候、候事質問、而不能為軽唇音、且有入聲、我国之呼者、如穀與骨質與職等音、頗有所弁、余嘗見崔世珍所撰四声通解韵蒙韵、皆不用終声、而唯南音之呼」(『海行愡載』巻4、朝鮮古書刊行会、1914年、108頁)

 

つまり日本人には、軽唇音と入聲の発音が困難である、と。同じ朝鮮通信使一行の一人の日記にも、福岡県藍島での風待ちの間の暇に任せて、

 

[資料10]「両国言語之相通、全頼訳舌、而随行十人、達通彼語者甚鮮、誠        可駭然、此無他、倭学生涯、比益肅條、朝家勧懲、近亦疎虞故耳、首訳輩、以為倭語物名冊子、訳院亦有之、而以其次次翻謄之、故訛誤既多、且彼人方言、或有変改者、旧冊難以尽憑、珍此日対倭人時、俚正其訛誤、成出完書而習之、即方言物名」(『海行愡載』巻4、朝鮮古書刊行会、1914年、197-198頁)

 であったという。このときの通信使一行に同行した対馬藩朝鮮語通詞に関して、

 

[資料11        天和二年壬戌八月廿一日

                 一 朝鮮国の三使節名は、尹趾完、李彦綱、朴慶俊といふ物          江戸に来朝す、光圀公是を聞給ひ、朴春常方へ仰被遣候は、朝鮮の三使江戸滞留の内、彼是御問被成度由、夫より案内給はるへきとの御事也、依之春常より宗対馬守義真の家来小山朝三と、内藤左京亮の家来大高清助と両人に、右の思召の段を達せられ候に付、光圀公御家来今井小四郎正興、中村新八顧言、并森指月此三人を被遣候処に、小山朝三亦対馬国の町人加勢五右衛門通辞として、右両人朝鮮の学士成碗と言者数度参会いたし、其他鄭牛俊、又は金指南、印剣覚、鄭文客なとと言者に対談いたし、禽獣草木地名器物国字等の事、其外被仰付候事共を相尋、折々の参会なり」(『通航一覧』巻110、国書刊行会、1913年、286頁)

 

と記録しており、「小山朝三亦対馬国の町人加勢五右衛門通辞」のような有能な通詞が朝鮮通信使来日時に活躍していたという。

 ところで、散逸書である『集書』に「大通詞の始」として、

 

[資料12]「享保二年十一月五日、江口金七・加瀬伝五郎、数年通詞相勤、        信使来聘の時分、今程の功者成通詞居不申候ては御用差支候に付、役名向後大通詞と唱候様被仰候」(小倉進平、1934年、70頁からの再引用。原書は散逸?)

 

と記載されており、先の町人加勢五右衛門は大通詞に昇格し、対馬藩での通詞の最高職階に就任していた。

 こうした朝鮮通信使来日時に動員される対馬藩の通詞は、田代和生によると、例えば第9回目の派遣にあたる享保四年時(1719)の随行通詞の場合、47人もの通詞が動員されたという(田代、1991年、80頁)。この時に動員されたのは、大通詞一人、本通詞四人、稽古通詞二人の計七人の対馬藩における通詞専門職のみならず、対馬藩において朝鮮語を解するものたち40人が同行している。「六十人町人」たちを中心にした対馬人であったろうが、この数はほぼ朝鮮語でコミュニケーションができる者たちを総動員したものではなかったかと推定される。

  朝鮮通信使来日時の際の約50人もの通詞の動員は、なにも享保時だけではなく、むしろ慣例に従った人数であった。

 

[資料13]「通詞之数被相尋候ハハ、通詞下知役と申候而小給人より十人、通       詞五十人程被申附置候由承候と、相答可申事。」(宗家記録『延享信使記録』第七冊、「八、宿検分之人并先触足軽差越候覚書」慶應義塾大学図書館蔵。田代、1991年、64頁よりの再引用)

 

  そのことは、第10回目の通信使来日時の延享5年の47人、第11回目の宝暦14年時の47人などを知ると、ほぼこの対馬藩の朝鮮語通詞の数47人は前例主義を遵守することによって、慣例化したといってよく、対馬藩では朝鮮通信使の来日に備えて、常時この50人前後の通詞の確保を必要としたのであった。

  その上に、先にも述べたように、この通信使の応接ばかりではなく、釜山の倭館に勤務する通詞たちもいた。『対馬藩政事問答』によると、宝永七年(1710)当時には、

 

[資料14]「    宝永七庚寅年、巡検使に答ふへき箇条書中

                一、  和館人数御尋之節、上下にかけ大概六百人余も可有御座           候哉と、御答被成候様、具に御尋被成候はは、左之趣御返答被遊候、

                        (屋敷中之者支配仕候役)番頭、鎮守一人、(両国之           間用事承、彼国之役人と申談候役)裁判役、馬廻り八人程、中小姓十一人程、徒士廿五人程、医師二人、書役僧一人、通詞十人、役目手代四人、足軽三十人

                          右之外小人大工船手之者、町人并又者合六百人余り           可有御座候」(『通航一覧』第125巻、461頁)

 

とあるように、釜山滞在の通詞は十名であった。

 要するに朝鮮通信使来日時に確保すべき定数、そして釜山倭館勤務者に加えて、長崎の対馬藩蔵屋敷に勤務した通詞2~3人(長崎手代役)を含めると、たえず対馬藩に要求される通詞の数は60人前後であったと考えてよい。

 そこで俄然問題が表面化したのは、中世にあった「三浦」時代と異なり、朝鮮半島に日本人居留地が制限され、多くの対馬人が朝鮮人と接する機会が少なくなった結果、常時対馬藩が優秀な通詞を多数確保出来なくなっていたことである。絶対的な数の不足が認識され始めたのであった。次の史料に明記してある。

 

[資料15]「近年ハ朝鮮商売段々と衰へ候ニ付、町六拾人之嫡子商売之為ニ朝       鮮へ罷渡り居候而朝鮮詞を申覚へ候儀、以前之様ニ無之候。故、只今迄は以前より朝鮮詞を申覚へ居候者有之候而、信使来聘之節之通詞御用差支無之候得共、其子之代ニ成り候而ハ朝鮮詞を申候者少キ筈ニ而候。」(「委細御条書草案」対馬歴史民俗資料館所蔵)

 

ところが朝鮮国内においての日本人の居住が次第に制限されはじめたために、享保年間に至って、

 

[資料16]「唯今にハ功者之者共皆々老人になり罷成、遠からぬ内ニ必至と御       用相支ヘ可申様ニ相見へ候」」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」(註4)

 

とあり、有能な通詞の老齢化も進んだ。そればかでなく引き続き、

 

[資料17 「是而巳ニ而も無御座、近年時勢イよろしからす、馬乗リニ罷渡り       候町人年々滅し候得は、自分より朝鮮言葉稽古仕候もの無之。」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」泉、285頁)

 

の実状に陥ったという。ますます有能な通詞不足の事態が予見されるようになった。

  また、対馬藩の通詞は、藩校などで研鑽を積んだはずの対馬藩士ではなく、朝鮮貿易に従事する商人たちが兼ねていたために、彼らの朝鮮語は当然ながらどうしても貿易用語などを駆使する商業会話に堪能であった。したがって当時の武士に要求された朱子学・中国古典学などの学問的教養、また論争術・儀礼的マナーなどの対外交渉の素養にしても、十分な資格に欠けていたことは事実である。

 その理由の一つが、

 

[資料18]「唯今手習師匠ニ附置毎日師匠方へかよハせ候付、朝鮮言葉稽古場       ニ出候而者右妨ケ候と存候事も可有之哉。朝鮮言葉稽古場之方ハ暫時之事たるへく候間、手習ニかよひ候支ニ者罷成間敷候。夫ともに相支候訳も候ハハ、追而者朝鮮言葉稽古之方ハ八迄ニ被仰付事も可有之候。」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」)

 

とあるように、対馬藩における通詞の養成法は、もっぱら学校などの組織的な教育システムでなく、個人が「手習師匠」に出向く、いわば私塾に依存していたからでもあった。私塾とか父子相伝といった方法で、体系的な言語習得のみならず、その背後にある深い文化理解にまでいたるのは、相当な困難が予想される。当然ながらそうした個人レッスンでの限界があるだろうし、またその教育効率も悪かったはずである。文禄・慶長の役が終了し、徳川の太平な世が続く時代になり、ようやく通詞養成のための公的機関の創立が、藩内の共通認識となりかけていた。

 

 

三 享保五年の対馬藩と、韓語司設立の経緯

 

  さて対馬藩内において、有能な通詞の慢性的な不足が痛感され始めた享保年間に、その当時、儒学者として令名の高かった雨森芳洲は、自らの三年間に渡る釜山での朝鮮語学習の体験を踏まえて、朝鮮語学習スクールである「韓語司」(「通詞仕立帳」『詞稽古之者仕立記録』享保21年)の設立を藩主に建議した。それは享保五年(1720)七月のことであった。

 そもそも享保年間と言えば、天和三年(1683)の「上せ銀の禁止」が大打撃となって取引量が減少した朝鮮貿易の不振、さらには藩士への米給付もままならない対馬藩の慢性的な構造的財政難に加えて、樋口孫左衛門・杉村伊織らの専横政治、農民からの年貢・公役銀の未納入、さらには藩主の目まぐるしい交代による一貫しない政策、上方商人からの借銀の増大、正徳の朝鮮通信使来聘時の大幅赤字の積み残しに加えて、幕府からの潤沢な拝借金・下賜金(「御大願」)どもまったく期待できず、対馬藩の財政状態は破綻寸前の実に苦難な時期であった。芳洲の「ざざいぶくの財政」という言は、言い得て妙である(森山恒雄、1973年、1020~1056頁)。

 それゆえに、たとえ対馬藩の「家役」である朝鮮との外交交渉に欠かすことのできない有能な通詞が不足しがちであったとしても、経費削減・藩の財政再建を図ろうとする重臣たちを説得し、新たな外国語学校設立に至るプロセスには、難問が続出したに違いない。少なくとも財政事情の好転が望めない中にあって、学校の開設という新規の財政負担の増加は、経常支出の抑制さえ必要な時期にあって、藩の方針と全く相反するものであった。

  では、  緊縮財政を余儀なくされた対馬藩内において、雨森芳洲は享保五年(1720)に、この『韓学生員任用帳』を執筆した動機は何であろうか。換言すると、なぜ芳洲がこの享保五年に『韓学生員任用帳』を藩に提出しなくてはならなかったか、のであろうか。   

  まず第一に、この『韓学生員任用帳』の記述に従えば、

 

[資料19]「右之仕用帳書付指出候様ニと被仰付候ニ付、存寄之趣不願憚書呈       仕候」

 

とあるように、この雨森芳洲の計画案は藩の正式な依頼によって作成されたのであった。いわば芳洲だけでなく、藩内のすべてが危機感を募らせたのであった。海禁体制下にあって、「家役」として朝鮮口を担当し、多額の幕府からの財政的支援を受けている以上(註5)、藩としてもこの事態を深刻に受け止めざるを得なかった。間違いなくこれが現実的な直接的動機であった。

 第二に、この間の経緯は芳洲の『韓学生員任用帳』に詳述してあるが、単に朝鮮語の優れた会話能力のみならず、古典小説をも自由自在に解釈出来るほどの高度な運用能力に加えて、もっとも重要なのは、朝鮮の「訳科」合格者なみの漢籍の素養を具備すべきであるとの彼の提案である。

 

[資料20]「御町奉行ヨリ生員中 被申渡候書付之趣

          覚 

        其方達之義、韓学之稽古被仰付候間、毎日坂下ヘ罷越、類合より       始メ、十八史略之読書朝鮮人ヘ稽古被至、朝鮮言葉□初進之内、先教訓官ヘ指南を被受、無懈怠相務、朝鮮言葉ハ申ニ不及、学問迄御用ニ相立候様ニとの御事ニ候間、可被得其意候。委細以別紙申渡候巳上。

             月 日                    

              (『韓学生員任用帳』、泉-23頁)

 

繰り返すまでもなく享保までの対馬藩の通詞は、そのすべてが町人出身であっただけに、学問的素養を学ぶべき必要もなければ、またその機会さえ与えられていなかった。したがって芳洲の目に映る朝鮮側の訳官たちの威風堂々とした姿に、二度にわたる江戸までの朝鮮通信使一行に同行し、親しく見聞した芳洲は驚かされたに違いない。日本側の通訳の学問的素地の浅さは到底容認できなかったはずである。

  第三に、先にも述べたように、有能な通詞の絶対数確保と言う藩の最重要事が解決されなければならないし、また芳洲が感じる危機もあった。

 

[資料21  「諺文を存候朝鮮言葉巧者之三人、~~(中略)~~只今諺文を        存居候者ハ、小松権右衛門、中川吉右衛門、森田弁吉、是三人ニ而御座候」(『韓学生員任用帳』)

 

とあるように、会話は巧みであっても、ハングルを読み書きできる通詞がわずか三名にすぎないという、今日から見ると奇妙な事態であった。たとえ重要な事項は漢字による筆談が可能であったとしても、藩の通詞の多くが文字を知らずして、通詞の任に付いている状況は異常であるとの認識に、芳洲は達していた。それは次の芳洲の言に如実に表されていよう。

 

[資料22 「文盲ニ而者朝鮮言葉難知候間、文字ヲ知り、書物読候而、義理               を弁ヘ候様ニ志可被申候」(『詞稽古之者仕立記録』)

 

[資料23]「朝鮮人言語本於文字者、為好其他俗下所用不拠文字者、斥之為常       言(常言者、俚言也)、在官者不敢出口、雖是文語、少有差誤、互相改正言之所以正也、我国読書人相会、自有文語酬応、但我国読書人少故、不大興、或用文語而失本義者、十有五六、非如朝鮮箕聖定封以来、上下読書為業故、一国言語必拠文字読書、亦易分尭矣」(『橘總茶話』下、『芳洲文集』雨森芳洲全書二、関西大学東西学術研究所資料集刊11-2、1980年、216頁)

 

しかもこの三名の中には、その当時の対馬藩の大通詞の一人であった加瀬伝五郎の名前が見あたらないところを見ると、通詞の最高職にある大通詞でさえも、文字を読み書きできない事に気付いた芳洲の驚きは、いかほどであっただろうか。その上、中川吉右衛門、森田弁吉の両名は、たんなる臨時雇いの通詞(本業は商人)にすぎなかったのである。

  こうした商業会話のみをマスターすれば、それでよいと言ったそれまでの対馬藩での朝鮮語に対する安易なあり方に批判的であったのが、芳洲であった。いわば実用主義批判であった。しかもその当時、朝鮮ではハングルで書かれた刊行本が上梓されはじめていることに気付いた芳洲は、その種のハングル本を読了し得ない通詞は情報収集能力に欠けるばかりでなく、朝鮮事情に疎い不適格者であるとの烙印を押していたにちがいない(「異国之嘲を取候事不可少候」『韓学生員任用帳』)。

  第四に、『韓学生員任用帳』に盛り込まれた雨森芳洲の建議には、

 

[資料24  「数十年以前迄ハ壬辰大乱之余威ニまかせ、是非の議論ニ不及、        威力のミを以、事相済たる事も有之候ヘとも、太平相続き、双方道理を以帰一を定候時勢ニ成行□□□、此以後ハ猶々通事之内、其人無之候而ハ隣好之間非無其恐候。」

 

とあるように、日朝両国の「道理」が確立されなくてはならず、そして朝鮮側の日本語通詞ばかりでなく、日本側の朝鮮語通詞「之れ無き候而ハ、隣好之間、其の恐れ無きにしも非ず候」というように、互いの言語によるコミュニケーションなくして、「隣好」意識も相互の国民に生まれないと考えたからであった。

 以上の「韓語司」設立のための理由をまとめると、

      ①有能な朝鮮語通詞の絶対数不足は衆目の一致するところであり、その養成の急務は対馬藩全体の共通認識になりつつあったこと。

   ②朝鮮語通詞は武士の中から選抜されたのではなく、主に町人出身であったために、商業会話が巧みでも、漢学に対する素養に著しく欠けており、科挙(訳科)に及第した朝鮮側の日本語訳官との対比でも、かなり見劣りしたこと。

   ③ハングルを解読できない通詞がいると知った芳洲と驚きと、その通詞の中に藩内での通詞の最高ランクに位置する「大通詞」も含まれているという事実を知るにつけ、通詞養成のための体系的教育の実施を芳洲が痛感したこと。

   ④日朝間の過去の不幸な事件(「壬辰大乱」など)は両国のコミュニケーション不足を理由に発生したとも考えられ、朝鮮側の日本語通詞ばかりでなく、日本側の朝鮮語通詞「之れ無き候而ハ、隣好之間、其の恐れ無きにしも非ず候」というように、互いの言語習得によるコミュニケーションなくして、「隣好」意識も相互に生まれないと考えたこと。

  以上のような四つの理由を元にして、芳洲はやむにやまれぬ思いを胸に秘めて、享保5年に『韓学生員任用帳』を書きあげて、「韓語司」設立を強力に提議したと考えて良いはずである。その芳洲の胸中を知る手掛かりは、次の文によく伺える。

 

[資料25]「愡体朝鮮通事之義物にたとへ申見候時、古館之時分ハ自然生のこ       とくもやし候ニ不及、しかも味よろしきものいてたるにて御座候。新館ニ成候以後ハ、かしこに有候ものをこに移したることく、味は少シ不宜候へとも、まつハ自然ニ大ニ違たるニもあらす候。今日ニ至候而ハ御もやし被成候ハゝ、若も連続仕候義も可有之候哉。左無之候ハゝ自然生ハ申ニ不及、かしこより移るへき物も無之、断絶可致より外ハ有之間敷候、たとひもやされ候而も、其上之養足り不申候ハゝ生育不仕筈ニ御座候。此道理を以御考被遊度御事ニ奉存候」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」、泉-303頁)

 

この提言が示された『韓学生員任用帳』の作成は享保5年(1720)頃であるが、その年の前年である享保4年(1719)には、徳川吉宗の将軍襲職を祝う第9回目の朝鮮通信使である正使洪致中以下475名の一行が来日し、また9年前の正徳元年(1711)にも第8回目の朝鮮通信使・正使趙泰億以下500名もの人員が将軍家宣の襲職を祝賀するために来日している。雨森芳洲が元禄2年(1689)に対馬藩に藩儒として職を得てからでも、このように2度にわたり朝鮮通信使の来聘を経験しており、しかも彼は共に大任を背負って通信使一行と同道し江戸へも往還している。500名にも及ぶ通信使の迎接に当たる通詞が無能であれば国辱であり、また有能な通詞の大量確保は、芳洲のみならず対馬藩の切実に痛感したと考えるべきである。

  その上に、正徳の朝鮮通信使と言えば、周知の通り新井白石の改革に伴う「出発前より朝鮮廟堂における紛議、出港直前の新国書授与、江戸での国書をめぐる論争、前例のない国書の相互返却、対馬での最終国書の交換等」(三宅英利、1976年、427頁)の重大事件が相続く異例な使行であった。難問続出する中で、単に対馬藩のみならず日朝両国の通詞は外交交渉の場での翻訳のみならず、その下交渉に奔走したに違いない。それだけに日本側の朝鮮語通詞に要求された語学的能力・外交交渉能力・問題解決能力などの高さは、それが増すことはあっては、決して減らされるものではなかった(註)。

  対馬藩が朝鮮語学校を開校したのは享保十二年(1727)九月一日であった。雨森芳洲が再三再四藩の重臣たちに建議をし、

 

[資料26]「兎や角申候内ニ月日相立必至と相支候時に成り候而ハ、急ニ通詞       出来可仕様無之候得ハ、何とそ早ク思召被立候様ニ有之度御事ニ存候」

(『韓学生員任用帳』)

 

とまで嘆願に近い上申書を差し出したにもかかわらず、藩の重臣たちは七年もの間慎重に検討した。想像を加えて述べるならば、藩の重鎮たちもその趣旨に原則的に賛成であったものの、たとえ芳洲が教師役をかって出たとしても、現実的にはそのカリキュラムを履修するに足る高い学力の学生が入学するはずもなく、あまりにも理想的なプランに映ったのではないだろうか。その上に朝鮮貿易の不振、さらには藩士への米給付もままならない対馬藩の慢性的な財政難、幕府からの資金援助が期待できないためでもあったにちがいない(註)。

 なお享保4年(1719)と同6年(1721)の二度の厳原の大火によって、「町中不残焼失」といった壊滅的な打撃を受けており、とても藩に財政期余裕などはあるはずがなかった。それらのどの困難な政治・経済事情までも無視して、朝鮮語通詞養成機関設立の必要性は藩内での共通認識にいたらなかったはずである。この憶説の是非はともかくとして、賛否両論渦巻いた藩内での論議に終止符を打ったのは、やはり芳洲の強力な説得であっただろう。

  さて、対馬藩「韓語司」の設立に至る過程で、当時55歳の芳洲のさまざまな労苦を知る我々にとって、それだけに「韓語司」の運営と教育内容に対する芳洲の思い入れは一通りのものではなかったと考えて良い。是が非でも成功させなくてはならないという彼の堅い意思が伝わるかのように、全力をあげて開設準備に奔走した。しかしながら、「韓語司」の構想が練り上げられる中で、芳洲が関与すればするほど、藩内で芳洲は誰からも一目置かれた人物であっただけに、彼の提案や指示に異論を唱えるものなどいる筈がなく、自然と芳洲色の濃い学校管理・運営形態・教育内容にならざるを得なかった。しかも対馬藩内での随一の朝鮮語の精通者であるという自他共に認める藩儒・芳洲のプラン以上の優れた「韓語司」設置案を提出できなかったのも事実であろう。

  したがって、本論にはいる前に、芳洲が受けた外国語教育の概略を知ることは決して無益ではないと考える。というのも芳洲自らの実体験が絶えず参照されながら、「韓語司」でのカリキュラムが構想されているからに他ならない。彼は外国語学校での教育ではなく、まったく独学で朝鮮語を習得したために、彼ほど「韓語司」設立の必要性を感じていた人物は外になかったからでもある。

 

 

四 雨森芳洲の外国語学習

 

雨森芳洲、名は東五郎誠清、字は伯陽、号は芳洲。寛文八年(1668)五月十七日、近江国伊香郡高月町雨森に生まれ、宝暦五年(1755)に対馬にて没す。

 この芳洲に関する伝記的研究は、古くは、

      伊東尾四郎「雨森芳洲遺事」『歴史地理』第16巻第5号、日本歴史地理学        会、1910年、28~32頁

があり、最近でも上記した上垣外憲一(1989年)と上野日出人(1991年)の二書が刊行されている。芳洲の伝記的研究は、すでにこの二つの定評ある先行研究に譲りたい。将来に新資料が発見されない限り、これ以上の伝記的研究は不要であるといってよい。

  そこで、本稿の関心の枠内で、次に彼の経歴を列挙したい。 

①貞享二年(18歳):江戸に出て、木下順庵門下には入る。

②元禄二年(22歳):対馬藩に召し抱えられる。

③元禄五年(24歳):対馬に移住

④元禄六年(25歳):中国語稽古のために長崎に行き、上野玄貞に学ぶ。

                     翌年、帰る。

⑤元禄九年(29歳)再び、中国語稽古のために、長崎に赴く。

⑥元禄十六年(36歳):朝鮮語稽古のため、釜山倭館に赴く。

⑦正徳元年(44歳):正徳の朝鮮通信使に同行し、上京す。国書復号問              題の解決に奔走し、新井白石と論争す。

享保四年(52歳):享保の朝鮮通信使に同行し、江戸に行く。『海遊              録』の著者・申維翰と交友す。

享保六年(54歳):朝鮮佐役を辞任。隠居す。

⑩享保年(57歳):側用人に就任し、逼迫した藩財政の再建に着手

享保十三年(61歳):裁判役に任命される。このとき、『交隣提醒』               を執筆す。享保十五年、釜山から帰国。

⑫宝暦年(88歳):死去。

 以上が芳洲の経歴の一部であるが、彼の思想的遍歴や文学的興味などの問題は確かに重要であるが、本稿の関心の埒外にあり、ここでもあくまでも芳洲の朝鮮語教育との関わりのみに、あえて視野を限定しておきたいと思う。我々の観点からすると、彼の外国語学習歴が中国語から始まっていることに注目して良いだろう。というのも鎖国時代の長崎にあって学習できるごく僅かな外国語の一つであった中国語学習体験なくして、後年の「韓語司」での朝鮮語教授法も考え出されなかったと考えるからである。内野久策によると、芳洲は、

 

[資料27]「宗氏家業人帳に元禄五年十月二十四日右為学文へ差越度由木下        順庵依頼長崎への御暇被遣候付、爰許為用意金子三十両人参五両被成下……、十一月朔日明日御当地発足、元禄九年五月二十八日雨森東五郎、吉田萬七、吉田亀之助右者願之通長崎へ被差越唐音稽古被仰付候事などとあり」(「厳原藩の教育」『新対馬島誌』新対馬島誌編集委員会、1964年、785頁)

 

とあるように、長崎に遊学し、中国語を学習している。第一回の長崎行きは、元禄五年(1692)、第二回目は元禄九年(1696)であった。今、所在情報がないために、『宗氏家業人帳』の現物で確認できないだけに、引用文ですますしかないが、次の資料では、より詳細に長崎での中国語学習の様子を窺うことが出来る。

 

[資料28]「余廿三歳、初学唐話於心越師会下白足恵厳也、廿六歳適長崎授        業於上野玄貞、至五十余年、其間能会音読与唐人一般者、只看得三人、一曰林道栄、二曰北山寿安、三曰釈月潭、今即亡矣」

                (「音読要訣抄」『芳洲先生文抄』所収、泉-116頁)

 

この記事によって、彼の中国語の師匠は、第一回目が白足恵厳であり、第二回目は上野玄貞であったという(註8)。芳洲関係の記録からは、彼の中国語学習の有様が分からないが、その当時の長崎での中国語学習法は、別稿で論述したように

          初級レベル…表現文型の積み上げ方式

          中級レベル…通詞作成の教材による会話・講読・作文など

          上級レベル…中国の古典小説による高度な内容の読解

であった。この中国語学習経験が芳洲の朝鮮語教授法に採用されなかったという保証はない。むしろ芳洲にとっては、唯一の未習外国語が中国語であっただけに、その学習経験が朝鮮語を学ぶ際にも積極的に生かされたはずである。良きにつけ、悪しきにつけ長崎遊学時代に学んだ白足恵厳と上野玄貞の二人の師と、そこに蓄積されていた中国語教授法のノウハウを参考にして、朝鮮語教授法を組み立てていっただろう。

  なお芳洲の著作を一覧しておきたいと思うが、既に次の関西大学の調査によって、247種類の著作リストがある。

関西大学「日中文化交流班」歴史班「雨森芳洲文庫目録稿」『関西大学東西学術            研究所紀要』第10号、1977年、45~69頁

これによって芳洲の全著作をほぼ網羅してあろうが(註9)、これらの著作を通して知る芳洲の教育論は、森山の言によると、「その教えるところは、『学は人たることを学ぶ所以なり』(「橘聰茶話」)と記すように、学問の真髄は人間たる道を習得することであると諭し、その教育内容について、四書・小学と五経のうちの一教を、のちに大学を毎日二、三行か四、五行ずつ必ず講釈し、『暁り易くして且倦むことなきを要す』『暗誦を上となす、不能者必ず強て督さず』という方法で、生徒の自発的態度を主にし、乱読を戒めて教育した」(森山恒雄、1973年、1014頁)という。

 

 

五 「韓語司」の学校運営と稽古生募集

 

正徳の朝鮮通信使の来日の折りに優秀な通詞不足の補充が藩内の急務となった。そこでいったんは頓挫したかに見えた芳洲の夢であったが、ついに享保十二年に外国語学校「韓学司」の開設の運びとなった。では、学校の位置・朝鮮語学習の教授者・学校での学習時間・朝鮮語教授法・教材・補習授業などの様々な点に関して、各項目別に論述しながら、「韓語司」の学校運営の諸側面・実態を検討することとしたい。

 

学校の位置

 

 享保十二年八月二十八日付の家老杉村采女より平田源五四郎への通達が残っており、学校に該当する「稽古場」の場所は、西山多右衛門が管理人として居住している「御使者屋」の「次之間」二間と定まった。

 

[資料29]「右者御使者屋次之間二間を今度六拾人子共朝鮮言葉稽古場ニ申渡。       毎日津和崎徳右衛門・仁位文吉罷出、尤夫之者壱人相付候付、火用心ハ不及申、住荒し不申、随分入念卒末ニ不仕様ニ申渡候得共、多右衛門儀ハ自由宅之事ニ候條、尚又右之面々罷帰候節、毎度入念候様ニ可申付之旨被申渡候様ニと与頭中江書付を以申渡ス」

       (『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」--泉289頁)。

 

この「御使者屋」が現在の長崎県厳原町のいずこに比定されるべきは、不明である。後考に委ねたい。

 

朝鮮語師匠

 

  「韓語司」を実際に管理・運営するスタッフは、学校管理者1名、教員2名、宿直兼清掃担当者1名(西山多右衛門)の、4名であった。

 まず学校全体の監督・管理をする校長役は「惣下知」(「提調」ともいう)と呼ばれた。この惣下知の人選に当たっては、

 

[資料30]「愡御下知ハ御年寄様より御一人御世話被成」(『詞稽古之者仕立       記録』「通詞仕立帳」--泉283頁)

 

とあるように、芳洲の希望通りに、年寄衆(数名の家老による合議制)推挙の人物が選出され、彼によって学校の運営と管理が進められることとなった。家老推薦人事とはいえ、初代の惣下知の任命に当たっては、十分に芳洲の意向を反映したはずである。

 

[資料31]「       越常右衛門

              右者此度町六十人之子共へ朝鮮言葉稽古被仰付候付惣下知被仰付       候。雨森東五郎茂此段発趣之事ニ候間、諸事申談可相務旨可被申渡候

                  八月十五日            年寄中

                組頭衆中                                   

               (『詞稽古之者仕立記録』--泉285頁、及び『類聚書抜』第九)

 

  越常右衛門の旧姓は、塩川。父の塩川伊右衛門は、貞享二年(1685)設立の藩校「小学校」の初代師範として大阪から招聘されるほどの著名な漢学者であった。その子の越常右衛門は若くして長崎で「唐音稽古」、つまり中国語を学習した経験を持つ逸材であった。その後、常右衛門は対馬藩内で「朝鮮方添役」を拝命し、享保六年(1721)には日朝交流史に関する有名な『分類紀事大綱』全37冊を編纂した(註10)

  このように寛永十二年(1635)から正徳三年(1713)までの対馬藩を主軸とした日朝関係史に精通し、しかも釜山倭館と対馬藩朝鮮方との往復書類などを整理した経験を持つ越常右衛門であったが、さらに彼は中国語に精通し、語学学習が何であるかを知っている、韓語司の惣下知に最適な人物であった。

  しかしながら任命された当日に、即座に越常右衛門は辞退願いを藩に提出している。

 

[資料32]「              越常右衛門

              右者此度町六拾人之子共江朝鮮言葉稽古被仰付惣下知之儀申渡候       処、委細口上書を以御断被申出、朝鮮言葉等茂不存、其上不堪能ニ有之、導之筋存寄も無之ニ付、傍難相務由紙面之趣承リ届候、乍然吟味之上被仰付たる儀候間、導等之筋ハ雨森東五郎江諸事遂相談、乍苦労相務様ニ可被申渡候、依之御断之書付差返候

                      八月十五日             年寄中

                与頭衆中                                           

              (『詞稽古之者仕立記録』--泉285~286頁、及び『類聚書抜』第九)

 

この書類による限り、越常右衛門は朝鮮語に不案内であるとの理由を前面に押し出して、強く辞退しているようである。確かに漢学者の家に生まれたただけに、常右衛門は中国語を熱心に勉強するように勧められても、朝鮮語を学習する環境になかった。彼が朝鮮語を全く知らなかったことは、事実であろう。しかしながら越常右衛門の経歴からすれば、彼が惣下知を拒否できる立場にはなかったはずである。衆目の一致するとおり、越常右衛門はだれよりも対朝鮮問題に精通し、だれ以上に「誠信外交」の必要性を認識していたに違いないからである。しかし彼はその職への就任を拒否したのであった(註11)

  ところで、初代惣下知ポストをめぐる背景に拘りすぎる感も無くはないが、その大きな理由は、惣下知こそが韓語司の実質的な運営責任者であるはずであったし、また彼の教育理念が朝鮮語学習カリキュラムに大きく反映されるに違いないと予測したからであった。しかし実際には越常右衛門の就任拒否によって、芳洲が描いたプラン通りに行かず、思いもかけず彼自身が学校運営や教員人事、さらには学生たちの到達度などのチェックなどを直接に担当しなくてはならなかった。

  その芳洲が白羽の矢を立てた「詞師匠」は、当時20歳の仁位文吉であった(註12)。文吉の語学的才能は群を抜く素晴らしさであったようで、

 

[資料33]「稽古仕候所、朝鮮言葉得方ニ有之、諺文等も如形覚候付、朝鮮へ       差渡後、相応之御扶助被成下小田三清小松原権右衛門より以書付申出候」(『類聚書抜』第九、「通詞宛行増減一」享保五年十一月五日の条)

 

の如き、対馬藩通詞の評が残されている。彼の朝鮮語の運用能力は釜山倭館に渡海することで、ますます磨きがかかった。文吉十五歳の享保七年(1723)九月朔日に、彼は「稽古通詞」となっている。同時に稽古通詞に付いたのは、後日享保十九年三月十八日に「詞師匠」として活躍した吉松清右衛門であった(『詞稽古之者仕立記録』、泉-297~298頁)。この初代の仁位文吉にせよ、第2代の吉松清右衛門の「韓語司」詞師匠への登用にせよ、伝統的な門閥世襲制を排し、たとえ若者であろうと、前途有望であれば積極的に取り立てる、個人の勤功才能主義と信賞必罰主義に立つ芳洲の面目が如実にうかがわれるものである。その後、享保18年5月には、大通詞小田四郎兵衛の推挙によって、文吉は本通詞に昇進した(『類聚書抜』第九、「通詞宛行増減一」享保十八年五月十七日の条)。仁位文吉は親譲りの語学的才能に加えて、彼の長年の精進もあっただろうが、彼の語学力のすばらしさは衆目の一致するところであったようである。芳洲の目にも、仁位文吉以外の人物はさぞや気に入らなかったに違いない。その文吉の韓語司「詞師匠」就任は、実に当然な人選であった。

  ところが、享保十四年五月九日に家老杉村采女から芳洲宛の書簡を見ると、

 

[資料34]「一筆令啓達候、此度通詞役之内より金子儀平次・津和崎徳右衛門       別代官被仰付候。依之通詞役代リ之義早速当用相達候而指支候故各申談候処、仁位文吉儀罪科之訳も数年被経候事と申」(『裁判記録』第四、泉-49頁)

 

とあり、仁位文吉がなんらかの事件に巻き込まれていたとある。その事件とは、享保九年の潜商事件であった(『類聚書抜』第九、「通詞宛行増減」享保九年五月九日の条。田代和生、1991年、73~74頁参照)。しかしながら仁位文吉の語学的才能を惜しむ者たちの手で、彼は見事に復権するばかりでなく、韓語司が創設されるや、「詞師匠」に任命されたのであった。文吉は二十歳であった。

 

[資料35]「  享保十二年八月廿三日

白米壱俵宛毎月 

              二季ニ百疋ツツ            仁位文吉         

           (『類聚書抜』第九、「通詞宛行増減一」享保十二年八月廿三日の条)

 

の待遇へと上がり、また享保十五年十月九日になると、

 

[資料36]「毎月三人扶持

              黄連三拾斤                仁位文吉         

              (『類聚書抜』第九、「通詞宛行増減一」享保拾五年十月九日の条)

 

が支給された。享保十八年五月には、大通詞小田四郎兵衛の推挙によって、文吉は本通詞に昇進した(『類聚書抜』第九、「通詞宛行増減一」享保十八年五月十七日の条)。とにかく何らかの事件に連座して、前科のある身の上であったが、仁位文吉は親譲りの語学的才能に加えて、彼の長年の精進もあっただろうが、周囲の通詞たちの暖かい援助の中で、釜山倭館にも渡って朝鮮語の勉強が続けることが出来、その語学力のすばらしさは衆目の一致するところであったようである。芳洲の目にも、仁位文吉以外の人物はさぞや気に入らなかったに違いない。その文吉の韓語司「詞師匠」就任は、実に当然な人選であった。

 ところで初代副提調には、津和崎徳右衛門が就任した。彼は稽古通詞の中から選抜されたのだが、芳洲の人選の根拠は不明である。

 

[資料37]「        二季ニ弐百疋宛      津和崎徳右衛門

             右者朝鮮言葉稽古場ニ毎日罷出、若輩之者之内習ひ候言葉を自身ニ書付得不申ものニ、一々書付渡候様ニ可致之旨可被申渡候」

            (『詞稽古之者仕立記録』、泉-287頁)

 

 津和崎の主な役割は、詞師匠であった仁位文吉のあくまでもアシスタントにすぎないが、「一々書付渡候様」とあるように添削や教授補助を受け持ったらしい。

 第二代の副提調は、津和崎が釜山に派遣されたために、後任として福山伊左衛門が享保十三年十二月十日に就任した。その後、享保十六年(1731)二月二十二日に第三代副提調に花田重右衛門が、享保十九年(1734)三月十八日に第四代副提調に吉松清右衛門が、それぞれ任命された。

  この詞師匠(提調)と副提調は、前述したように初代惣下知であった芳洲の管理下に置かれた。

 

[資料38]「去ル十五日(享保十二年八月)奉伺候通、通詞稽古之儀弥申付候       付、教様之次第、考様之次第、委細雨森東五郎方へ参り承り候様ニと通詞并師匠ニ可被申付と存候、此段達御耳候以上」(『詞稽古之者仕立記録』、泉-285頁)

 

  このうち、教様之次第とはカリキュラム、考様之次第とは試験・評価方法などである。疑いなく教材や教授法などの詳細な点に渡っても、芳洲の目が光っていたに違いなく、若い二人の語学教師は、偉大な総監督のきめ細かい指導に怖れつつも、それと同時に語学教育とは何かを学ぶ良い機会となったはずである。

 

 

稽古場への登校時間と授業時間

 

 享保十二年八月二十九日、つまり開校の前日のお触れが、家老杉村采女より平田源五四郎に対して、指示された。

 

[資料39]「 町奉行平田源五四郎方へ以手紙申遣候ハ、朝鮮言葉稽古之場所       御使者屋次之間二間を相定候間、津和崎徳右衛門・仁位文吉へ来月朔日より罷出様ニ被申渡、勿論稽古之子共、朝辰中刻より罷出候様に可被申渡候」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」--泉289頁)

 

  この「朝辰中刻」、つまり午前八時頃の登校を求めている。この時間設定には、

 

[資料40]「唯今手習師匠ニ付置毎日師匠方へかよハせ候付、朝鮮言葉稽古場       ニ出候而者右妨ケ候と存候事も可有之哉、朝鮮言葉稽古場之方ハ毎日暫時之事たるへく候間、手習ニかよひそう売ろう候支ニ者罷成間敷候、夫ともに相支候訳も候ハゝ、追而者朝鮮言葉稽古之方ハ八ツ迄ニ被仰付事も可有之候、此段茂可被申聞置候以上。」

              (『詞稽古之者仕立記録』泉-284頁)

 

の配慮が働いていたが、対馬藩の藩校である「小学館」(貞享二年=1685)の「学校法式」(現在の学則)でも、同様に

 

[資料41]「          課式

                  辰の中刻より巳の下刻迄読書並に講釈

                 午の上刻より未の上刻迄手習~~(中略)~~」

              (「厳原藩の教育」『新対馬島誌』新対馬島誌編集委員会、1964年、780頁)

 

登校時刻を「辰の中刻」と規定していたので、二つの学校で時刻を合わせた措置であるといって良い。

  現在の時間割に該当する記録が一切残されていないので、登校後の訳生たちのスケジュールを知る手がかりはないが、それでも対馬藩の制度をそのまま踏襲した「草梁語学所」の規定の中に、時間割に類する規定を見ることが出来る。それによると、午前8時に「出頭」したのち、

 

 [資料42

 

 

 

 

 

 

  

 

  「復読    自午前九時至第十時

    編文    自午前十時至第十一時

    会館    自午前十一時至第十二時

            但十二時後三十分之間休憩

    新習    自午前十二時三十分至午後三時」(「草梁語学所規則

  並等級人名書」『朝鮮事務書』所収)

 

であったという。

      「復読」は、前日の復習・会話

   「編文」は、講読・作文の時間、

   「会館」は、会話の時間、

午前はこの三コースで終わり、三十分の休憩時間の後、午後には、

   「新習」は「新しい単元の学習内容」

へと移った。このように1日のスケジュールはびっしりと組み立てられ、時間割上では、1日、5時間半も学習時間が作られたと思われる。その猛勉強が、毎日365日続いた。

  この猛烈なスパルタ教育を担当する先生は、上記したように仁位文吉一人であった。その下にアシスタントが一人いただけであったので、発音・文法・講読・会話・朝鮮事情などの、すべての授業を二人が担当した。毎日の講義の予習・復習、作文などの添削指導、その上にテキストなどもない時代であったので、教材づくりと、二人の忙しさは殺人的だったはずである。

 

稽古生の在籍数

 

雨森芳洲の希望通りに、享保12年9月1日に12歳から17歳までの30名の子供たちが「韓語司」に入学した。

  もっとも、雨森芳洲の原プランでは、「六十人町人」の内の

 

[資料43]「十三歳以上十五歳迄之者数人御択被成、朝鮮へ被指渡、朝鮮言        葉之稽古被仰付、二拾三歳迄相努候上ニ而、御用ニ可相立者ニ候ハゝ、其内を以段々稽古通事ニ被仰付、其身通事望不申候か、又□不堪能ニ候者ハ被指許、□又学問著述御用ニ立候程之者ニ候ハゝ、別而御取立可被成との御事ニ候」(『韓学生員任用帳』、泉-22頁)

 

とあるように、まず先に「十三歳以上十五歳迄」の若者「十人」(『韓学生員任用帳』)を選抜し、彼らを「朝鮮へ被指渡」、つまり朝鮮釜山倭館での現地語学研修を発案した。だが、芳洲の考えには若干の揺らぎがあったようで、

 

[資料44]「右之通被仰付候而、二十人ニても三十人ニても、相望之者有之候       ハゝ、学力有之者ニ被仰付」(『韓学生員任用帳』、泉-22頁)

 

と決めつつも、他所では

 

[資料45]「      正員十人

              六十人之子弟、十三歳以上十五才迄之内十人御択被成」(『韓学       生員任用帳』、泉-22頁)

 

と、その定員枠を十人としていたようであるが、「学力有之者ニ被仰付」(雨森芳洲「韓学生員任用帳」)とあるように、誰しもがそうであるが優秀な学力の持ち主の入学を待ち望んでいた。

 結果的には、藩は十人に限定しなくて、多数の若者たちの入校を認めたのは、次の芳洲の提言を受け入れたからに他ならない。

 

[資料46]「御費を思召あてはめ其人弥御用にニ相立可申哉否之義計候ヘハ、       大勢被仰付置、其内ニ而御択被成候より外ハ有之間敷候。責而今日より成とも、言語修行之者多仰付度事ニ奉存候。」

               (『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」、泉-303頁)

 

  そして韓語司の設置目的は、有能な通詞養成のあったものの、現実的には全員に公平に勉学の機会を与え、全員の朝鮮語運用能力を向上させるといった教育理念に立ったものではなく、

 

[資料47]「町六十人子共之内、十二三より十四五迄之内、言葉稽古相望候者       ハ師匠壱人相立置、其者江於御国丸三年稽古被仰付、其内ニ而勝て得方ニ相見へ候者を四五人稽古通詞ニ被仰付朝鮮江差渡、相残候者共茂若輩成内習ひ込候事ニ候故失念茂仕間敷、其内ニハ朝鮮ニ罷渡自然と朝鮮言葉堪能ニ成り候もの数人出来可申候故」   (『詞稽古之者仕立記録』泉-285頁)

 

と明記するように、多数の生徒の入学を認めようとしたのは、その中の「数人」の朝鮮語習得者を生み出すためのものであった。芳洲の計算では、朝鮮語をマスターし、有能な朝鮮語通詞となりうる可能性は、せいぜい入学者の10%以下の成功率でしかないとの予想が立ててあったのではあるまいか。

 

稽古生の公募 

 

 まず通詞養成の公募は、次の順序でなされた。

家老(年寄中)から町奉行への通達(享保12年7月23日)下された。

 

[資料48]「     覚      

              朝鮮通詞御仕立被成候付、上より其師被仰付之。六拾人子共之内、       先試之ため御国ニ而丸三年稽古被仰付、其内不堪能ニ候與、或ハ病身又者外之支有之御理リ申候者ハ被差免、人柄宜敷弥御用ニ相立可申と相見ヘ、其身も願候ものハ其内ニて御択被成、御入用之数ニ応し稽古通詞に被仰付、朝鮮江可被差渡との御事ニ候間、十二三より十四五迄子共持候親ゝ共、朝鮮言葉稽古之儀願ニ存候者ハ、稽古願何某世倅と其名并年付いたし、来月十日迄之内町奉行方へ差出候様ニ可被申渡候以上

                    七月廿三日       」(『詞稽古之者仕立記録』       「通詞仕立帳」--泉284頁、及び『類聚書抜』第九)

 

との指示が、家老から町奉行に伝えられた後、次の「御触書」が張り出された。

 

[資料49]「    町中江御触被成候覚

             朝鮮通事御仕立被成候付、従上其師被仰付之も六十人子共之内、        先試のため御国ニ而丸三年稽古為致、其内(著者註:「不」の脱か)堪能候、或ハ病身又ハ外之支有之御断申上候ものハ被差免、弥御用ニ相立可申と相見へ其身も願候ものハ御択被成候而、稽古通詞ニ被仰付朝鮮江可被差渡との事候間、十二三より十四五迄之子共願ニ存候もの、其名并年付いたし来月何日迄之内町奉行方へ可申出候以上。

            月   日          」

       (『韓学生員任用帳』、泉-282頁)

 

  この二つの史料はほぼ同一であるが、[資料48]にある「人柄宜敷」の語句が[資料49]に見あたらない。最終的に藩内の合意を得た通詞養成案では、もともとの芳洲の原案と異なり、最初から釜山での現地語学研修を実施せず、あくまでも「先試のため御国ニ而丸三年稽古為致」として、まず対馬における初級レベルを終了し、その後、諸条件をクリアーした者が釜山倭館へ派遣されるとした。

この御触書は確かに雨森芳洲の画期的な教育案からすれば、数歩も後退したものとなっているが、しかし実に現実的な穏当なものとなっている。というのも雨森芳洲原案では通詞養成の成功率が予測できないばかりか、それにかかる経費負担が膨大なものとなると怖れたからである。言語の現地習得の効率の良さと発音矯正に適当であると予測できたとしても、対馬藩の家老たちは、海のものとも山のものとも何も分からない子供たちを、その何人かは脱落すると知りつつ、初めから釜山に送り込み、それでさえ赤字続きの藩財政の中から特別に通詞養成に廻す経常費の支出はできないと判断したのであろう。言うまでもなく外国語教育学の観点からすれば、当然に現地での長期間に渡る言語習得が良いはずであり、学習年齢にしても、十二~三歳以上なら若ければ若いほど早くマスターできるものであるが、芳洲さえも「少々御物入と相見へ候へとも」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」、泉-302頁)と予測していたが、やはり彼の原案は時期尚早であったようであり、結果的に見送られることとなった。

 

入学資格  

 

稽古生の入学資格は、享保十二年七月二十八日の、家老杉村采女より町奉行平田源五四郎への通達 「六十人子共之内」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」、泉-284頁)に見るように、「六十人町人」に限定されていた。町奉行の御触書が掲示されると、ただちに、藩への問い合わせがあったのであろうか、あらためて「入学資格を有しない者たち」の規定が公表されている。

 

[資料50]「新古六拾人格之町人之次男、又ハ平町人之次男、其外丁亥年        (1707)御定竈之吟味相極り候節、御定外ニ成り候者之内ニ、朝鮮詞之稽古ニ□用なると相見へ候者有之候とも、決而朝鮮へ被指渡間敷候。尤御定竈ニハ決而御入レ被成間敷候。」(「委細御条書草案」対馬歴史民俗資料館所蔵)

 

 この入学資格は厳守された。

 

[資料51]「  享保十二年九月廿八日   

            庄七嫡子 十三歳

                              河田藤吉

             右稽古願出候へ共、庄七義御特異置之御内見被仰付置、此節ハ六十人迄之子共を稽古江被仰付候事故、願之通難被仰付候」

                                              杉村采女

              (『詞稽古之者仕立記』「通詞仕立帳」、泉-290頁)

 

との家老杉村采女の裁可にあるほどに、まずはその子の「出自」が入学要件とされ、門前払いの形で願いは却下されたのであった。

  こうした御触書を見た「六十人町人」の親たちは、いわば入学願書に類する書式を提出した。

 

[資料52] 「             

      朝鮮言葉稽古の義願ニ存候者ハ、稽古願、何某世倅と其名并年        附いたし、来月十日迄の内、町奉行方へ差出候ニ可被申渡候。已上。」(「詞稽古之者仕立記録」、泉-284頁)

 

ただし、定員はなく、「訳生無員」と呼んだ。

  なおここに見る「六十人町人」とは、宮本又次や田代和生らの研究によって、かなりその実態が究明されている(宮本又次、1951年、11~27頁と、田代和生、1981年、420~432頁)。二人の研究に依拠しつつ、「六十人商人」を説明していこう。その前提して、是非とも知っておくべきは、江戸時代の対馬藩内には、町人身分には「町人統領」「八人格」「町銀掛」「以酊庵町用達」などが存在していたが、その他に別個に「六十人商人」がいたことである。

  重要なのは、対馬藩の特権商人である「六十人商人」の構成メンバーの数である。確かに十五世紀の半ばの創設当初には、六十人であったが、その後の社会的変化に従って、メンバーの人数は一定ではなかった。永正年間になると、数は30名に半減する。その結果、この残った30名の「六十人商人」を、以後は「古六十人商人」と呼んだという。ところが慶長年間になると、「六十人商人」の名称に合致するように、30名を追加して、定員の余りを補充した。新規に参加した30名を、以後は「新六十人商人」として区別し、いわば二つのグループによって、「六十人商人」が構成された。興味深いのは、この新古「六十人商人」はあくまでも利害集団としてのグループであったにすぎず、実際には相互の入れ替えや消滅・新規加入などの出入りは当然にあった。田代和生の研究によると、延宝以後(1674)になると、155名に増加したのち、年を追うごとに「六十人商人」のメンバー数は増え続け、田代和生の計算によると、天明五年で267名、文化十二年には242名、そして文政二年には196名に至ったという(田代和生、1981年、429頁)

  かれら「六十人商人」たちは、対馬藩の輸出入品の仕入れ・販売などを担当した。「六十人商人」とは、いわば藩の御用商人であった。その役割を果たしていたために、対馬藩は一種のギルドを作って、一方では彼らを自由にコントロールすると共に、一方では彼らに対しあつい保護を与えたのであった。とすれば、かれら「六十人商人」が、今回の朝鮮語通詞養成の募集に無関心であるはずはなかった。無関心であるどころか、命をかけて、いわば「体を張って」貿易に従事する彼らにとって、漢文などよりも朝鮮語は常識でなければならなかった。騙すか騙されるかの駆け引きが続く国際ビジネスの世界にあって、相手の言語朝鮮語に通暁することは、より多くの利潤を生むためにも、どうしても習得しておかなければならなかったのである。

 

第1期入学者

 

  こうした公募条件を満たして、見事に入校を許された「訳生」(稽古者)は、次の[表1]通りである。

 

          1:韓語司第一期生名簿]

       (*:長男、★:「古六十人商人」、☆:「新六十人商人」)

入 学 年 日

備考

享保12年9月1日入学の子供30人

    ☆勝部八十八  14歳    次男

    ★橋辺源吉    15歳    次男

    ★庄司源太郎  13歳   

    ☆佐護利吉    11歳   

    ☆森田治介    14歳    森田市兵衛の弟

    ★島井平之允  11歳   

    ☆飯田文作    13歳   

    ☆松本十八    14歳   

    ☆生田亀太郎  13歳   

    ★阿比留助市  15歳    次男

    ☆日高年吉    13歳    次男

    ☆多田喜三郎  12歳    次男          

    ☆田中伝七    12歳   

    ☆白水又六    12歳   

    ☆高木差吉    10歳   

    ☆花田吉六    14歳    次男

    ☆松原助五郎  12歳   

    ☆飯束兵之介  14歳   

    ☆大浦常三郎  12歳    次男

    ☆権藤六之助  15歳   

    ☆吉谷忠助    12歳   

    ☆高田平吉    13歳    次男

    ☆春田又四郎  13歳    春田五郎八の弟

    ☆飯賀七之允  15歳   

    ☆服部千代松  12歳    服部孫七の養子

    ☆三木讃七    13歳   

    ☆三木庄助    10歳    次男

    ☆早田勝五郎  15歳    次男

    ★住永与五郎  16歳    次男

    ☆井手金十郎  17歳    井手藤十郎の弟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

享保13年8月9日退学

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    総計30名

②享保12年9月1日に入学予定の者4名

    ☆田中常太郎  11歳   

    ☆服部伝之助  13歳   

    ☆青柳吉之助  12歳    次男

    ☆糸瀬仁十郎  14歳   

 

 

 

 

 

    総計34名

  ③享保12年11月28日二名の入学

    ☆佐護亀之助  14歳    次男

    ☆友谷進十郎  13歳    次男

 

 

 

     総計36名

 ④享保13年3月15日に一名の入学

    ★橋辺源七    9歳      三男

 

 

享保13年9月19日退学

     総計37名

 ⑤享保14年6月23日一名の入学

    ★栗谷藤之丞  9歳     

 

 

     総計38名

 ⑥享保14年7月2日一名の入学

    ☆金子紀五郎  14歳   

 

 

   総計39名

 

    以上の39名で出発した「韓語司」であった。この内訳は、長男が19名、次男が14名、三男が1名、弟が3名、養子が1名であった。年齢を見ると、最低年齢が9歳で、最高年齢が17歳で、その平均年齢は12・9歳であった。雨森芳洲の悲願は、遂に実現し、彼の希望通りの学生を募集することができた。

 

   表2:韓語司第一期生年齢別人数]

    年 齢

    人 数

    9歳

    

   10歳

     

   11歳

     

   12歳

     

   13歳

     

   14歳

     

   15歳

     

   16歳

     

   17歳

     

    総 計

    39

 

  ところで筆者の調査によると、第1回目の募集に応募した子供たちの家柄は、

        古「六十人商人」--7名

          新「六十人商人」--32名

の結果であった。「新六十人商人」の割合はおよそ全体の82%を占めるほどに高い。この調査結果を見ると、一つの想定として、次のようにも考えられまいか。なるほど「古六十人商人」の中に募集年齢に合致する男子がいなかったためでもあろうが、かれらよりも「新六十人商人」の方が圧倒的に通詞養成に関心を向けていた。藩の御用商人格の「六十人商人」であるだけに、藩のご意向を大事に考える傾向は強かっただろうし、藩政に逆らうこと出来なかったはずである。ましてや「新六十人商人」のように、ギルド組織「六十人商人」に新規参入したものたちであったならば、彼らの権益を死守するためには、藩からのお達しを無視するわけには行かなかったであろう。当然ながら、「新六十人商人」は「古六十人商人」よりも数的にも多いし、また新参者であっただけに朝鮮貿易に従事する歴史も浅く、したがって彼らの子弟が朝鮮語を知らなかったとも考えられよう。

  われわれの想定が全くの的外れでないことは、次の史料で裏付けられるはずである。

 

[資料53]「六拾人格之儀ハ、御仙台ニ様子有之候而御立チ置被成たる儀ニ而       候処、其後段々、御目見仕候町人迄六拾人格と申ス名ニ成り、古六拾人之格相見へ不宜儀ニ候得共、段々其通り成り来たる事ニ候ヘハ、只今ニ至り御改め可被成様も無之候故、新六拾人之嫡子ハ右之格ニ被仰付御定、内々平町人之嫡子ニ而も行跡諸人ニ勝候か、       身体諸人ニ勝レ候か、朝鮮詞を御用ニ立チ候程ニ申覚へ候ハ、六拾人格、御目見可被仰付候」(対馬宗家文書『委細御條書草案』)

 

  最後に、稽古生がなぜ「六十人町人」に限定されていたかを考えてみよう。この方策は、学習意欲のある生徒を確保するためには、朝鮮語を最も必要とする朝鮮貿易に直接的に従事するかれら「六十人町人」の子弟の中から選抜するのが最適であると考えられたからであろう。その理由付けも確かに理解できるが、それ以外にも、例えば朝鮮語を知る人間がむやみと増加することで、朝鮮側と密談の上で「潜商」行為に走るものが出現しないための防止策の意味合いもあっただろうし、また朝鮮語稽古は意外にも出費がかかるものであったからにほかなるまい。とりわけ釜山倭館での語学研修の費用は、渡航許可こそ藩が与えるものの、すべて自弁であった。この経済的負担に絶えられるもののみに、朝鮮語稽古を開始させたはずである。また当時にあって貧窮にあえいでいた農民などが、朝鮮語稽古を試みる経済的余裕もなかったことも事実である。

 

韓語司の運営経費

 

  韓語司創立当時に、藩が定めた支出は、表向き次の通りである。

 (1)享保十二年八月二十三日

    ①詞師匠の毎月の月給--「一ケ月白米壱俵宛

                                 二季ニ百疋宛」

    ②稽古通詞の毎月の月給--「二季ニ弐百疋ツツ」

    ③中結紙弐束

    ④日本墨弐挺

    ⑤求請筆拾本 

    ⑥炭六貫目

    ⑦湯茶道具

    ⑧タバコ盆弐通

    ⑨机弐面

    ⑩畳廿帖

        ⑪障子張替          (「詞稽古之者仕立記録」、泉-288頁)

  (2)享保十二年十二月廿一日

        ①稽古通詞にボーナス--「金弐百疋」

    ②詞師匠にボーナス--「金百疋」

                             (「詞稽古之者仕立記録」、泉-292頁)

  (3)享保十三年七月十三日

        ①稽古通詞にボーナス--「金弐百疋」

    ②詞師匠にボーナス--「金百疋」

                              (『類聚書抜』巻九)

 (4)享保十三年十二月廿三日

        ①稽古通詞にボーナス--「金弐百疋」

    ②詞師匠にボーナス--「金百疋」

                              (『類聚書抜』巻九)

  (5)享保十四年七月二日

        ①稽古通詞にボーナス--「金弐百疋」

    ②詞師匠にボーナス--「金百疋」

                 (『類聚書抜』巻九、及び「詞稽古之者仕立記録」、泉-292頁)

  (6)享保十五年二月八日

        ①詞師匠に対する丸三年間の謝金--「白米三俵」

    ②一等賞(「木綿弐疋、百田紙弐束、筆五本」)×三人

    ③二等賞(「木綿弐疋、百田紙壱束、筆三本」)×六人

    ④三等賞(「木綿壱疋、百田紙壱束、筆三本」)×三人

    ⑤四等賞(「木綿壱疋、朝鮮筆五本」)×二人

    ⑥五等賞(「木綿壱疋、朝鮮筆五本」)×一人

    ⑦六等賞(「木綿壱疋、朝鮮筆五本」)×五人

                              (「詞稽古之者仕立記録」、泉-293頁)

 

  以上が、三年間に渡る、第一期生稽古生の養成経費の品目であるが、これらの物品を現在の貨幣価値に換算することが不可能であるので、その総額の算出はできない。

  これらの支出額を必要とする以上、当然にその収入の手当てがいるが、慢性的な財政赤字に苦しむ、いわば赤字再建地方公共団体の対馬藩に金銭的余裕があるはずもなく、せっぱ詰まったあげく「朝鮮脇乗米」に着目した。

 

[資料54]「朝鮮脇乗米於彼地通詞中江被成下候、余米者御国江差渡鉄砲方        へ八カ年以来相渡候、然処近年者鉄砲稽古も当時相止、殊ニ余銀も有之由ニ候故、今度町六十人子共江朝鮮言葉稽古被仰付候付、此方入目ニ脇乗米を以稽古申渡候間、右之米差渡候節夫々ニ為相払、代銀取立可被置候、勿論右之入目ニ年ニより不足之節ハ、表代銀より被取替置、翌年ニ至脇乗米多候節引取可被申候。尤右差引之義一カ年宛之勘定相極、帳面可被差出候」

               (『詞稽古之者仕立記録』、泉-287~288頁、及び『類聚書抜』第九)

 

  この脇乗米とは、朝鮮各地に漂着した日本人に支払われる朝鮮側からの慰労のための米であるという。対馬藩では、この米を従来までは鉄砲の練習費用に当てていたが、この平和な世の中、兵器の練習も不要となり、その平和利用へと転換したというわけである。いわば冊封体制を守る朝鮮の厚意を、それまでは朝鮮との交戦を予測した有事の模擬戦闘訓練に使用していたが、それをこれからは国際協力・異文化コミュニケーションのために不可欠な通詞養成経費に充当しようと言うわけである。

  残念ながら、対馬藩の勘定方資料の調査が終了していないので、詳細な費用の総額は知り得ないままである。

 

 

六 「韓語司」第一期生に対する教育内容

 

 前節までで見たように、「韓語司」の管理・運営・教育者組織を作り上げた芳洲は、次に朝鮮語の教授法に関しても、実に綿密に通詞養成計画案を練り上げている。

 

朝鮮語教授法

 

  朝鮮語教授法に関する雨森芳洲の指示は、次の一つが今に残されているだけである。入門期においては、

 

[資料55]「三四十日程之間、朝鮮言葉一句或ハ二句、読書二三十字、或ハ四五十字程宛、毎日教候而、生質之得方、不得方を試ミ、~~」

           (『韓学生員任用帳』泉-22頁)

 

とある。これだけの記述から芳洲の考えの全貌を知り得ないが、この方法は要するにオーディオ・リンガル・メソッドを主とした練習方法であると思われる。入門期の、およそ一ヶ月の間、毎日、表現文型・構造文型を反復練習する方法(ドリル)で、少しずつ代入練習などへと拡大するやり方であろう。われわれの推定が、そう大きく正解からはずれていない証拠として、

 

[資料56]「凡教初学者量度才能或二三行或四五行多者不過、十行其専要暗記、       不求速成者、在教人之法、合該如此一該也」(『芳洲先生文抄』巻之二、「音読要訣抄」、泉-115頁) 

 

として、中国語学習の例を挙げているが、『交隣須知』等の例文に見るとおり本質的には朝鮮語学習も同様に取り扱うべきであると考えていたに違いない。

 

入門期・初級・中級の授業展開

 

  入門期の教授者に対しては、最初からネイティブスピーカーが担当するのではなく、まずは発音がきれいで、ハングルを読み書きできる日本人が担当し、彼から教わった後に、ネイティブスピーカーが参加することを芳洲は求めている。

 

[資料57]「朝鮮音を以読書いたし候義ハ、最初より朝鮮人へ習候而宜御座        候へとも、朝鮮言葉ハ初進の内、先日本人ヘ稽古不仕候而ハ成不申候故、諺文を存候朝鮮言葉功者の三人、是又半生替ニ朝鮮へ被指渡、十人の者共へ指南指示仕候様ニ被仰付可然候。」(『韓学生員任用帳』、泉-25頁)

 

 もっともこの芳洲の指示は、今回の対馬藩韓語司創設に先立って提出された書類に書かれたプランであっただけに、どこまで実行されたかは疑わしい。しかし現実には釜山倭館ではなく、対馬において朝鮮語教育が実施せざるを得ず、必然的に日本人が教師となって朝鮮語を担当したとも考えられる。

 ただし芳洲の独自の語学教師論は特筆に値する。外国語教授法でのいわゆる「直説法」…学習者の母語や国際的共通語などの、学習の媒介となる言語を活用しないで、目標言語(朝鮮語)のみを利用して教える教授法…を採用すべきかどうかに、注目すべき発言をしているからである。芳洲の教育方針には、ネイティブスピーカーの導入時期は慎重さを要し、とりわけ入門期(「初進の内」)において、その導入が早ければ早いほど「話す技能と聞く技能」の養成には役立つものの、四技能のうちの残りの「読む技能と書く技能」には不適切であるという信念が存在していたと思われる。それゆえに、「ハングルを正確に読み理解する」ことを目標に、芳洲の授業展開が組み立てられている限りでは、初級と中級段階では、

 

 

1,コミュニケーションのための準備段階

     ①文法的な正確さ

   ②発音の正確さ

   ③基本語彙の習得

   ④主要文型練習と反復

   ⑤文字の習得

      ⑥ドリルの導入による学習内容の定着

 

2,コミュニケーション能力の発展

      ①豊かな表現能力

   ②豊富な語彙力

   ③朝鮮貿易や朝鮮通信使来日時、さらには外交交渉などの、

    場面や状況に適した言語使用能力

   ④専門用語の習得

   ⑤文化的背景の理解

 

 

などが盛り込まれたコースデザインとなっていたはずである。これらの教育方法を実践するためのカリキュラムは、「教様之次第」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」--泉287頁)と呼ばれた。

   ところで対馬藩の朝鮮語教育の特色の一つは、韓語司惣下知による教育チェックシステムである。初代惣下知は朝鮮語の達人である雨森芳洲があった。厳格な総監督である彼がいつも、目を光らせて、徹底的に「管理教育」を実施したといってよい。

 

[資料58]「毎日習被申候言葉多少ニよらす、早速く別帳ニ記し、一月分毎        月末ニ某方へ遣し可被申候。文字さへ見へ候ヘハ宜候間、清書ニ隙取不及延引候様ニ可被致候」(『詞稽古之者仕立記録』-泉308頁)

 

この記事にある「某方」とは、いうまでもなく芳洲である。毎月末、芳洲は「帳面の文字」を点検することによって、一月分の講義内容や学生の生活態度、各自の到達度などを調査したのであった。そればかりでなく、芳洲の関心は詞師匠に対するチェックにも及んだはずである。想像にすぎないが、おそらく現在の「シラバス」に該当する書類も提出させたのではないか。その推定の根拠は、

 

[資料59]「      大通詞

                      通詞中

                      仁位文吉

                  右者今度六十人之子共へ朝鮮言葉被仰付、教様之次第、考様         之次第、委細雨森東五郎ニ申談置候間、彼方江罷越得と承り指図之通可致候~~(中略)~~、

                            八月二十三日

                                            年寄中

                  平田源五四郎殿                                   

                  (『詞稽古之者仕立記録』、泉-287頁)

 

の記事にあり、シラバス(「教様之次第」)はすべて芳洲に相談して決定し、すべて芳洲の指示通りにするよう下命されている。初代の詞師匠は、当時二十二歳の仁位文吉であったので、彼の若さと情熱で創設当初の様々な困難を乗り切ることができたというものの、その若さゆえに老練な芳洲の監視も必要であったに違いない。

             

 

朝鮮語教材

 

 前述したように、元々のプランでは、雨森芳洲は最初から現地釜山での教育を開始したいと考えていたが、対馬藩が恒常的な財政赤字から脱却できないままであったので、その通詞養成は対馬でしか実施できなかった。しかしその釜山倭館での語学トレーニングを実施するために、芳洲が作成したプランは、たとえ机上のプランにすぎないとしても、その対馬韓語司に与えた影響は計り知れないものであった。これは教材においても、同様であると思って良い。『韓学生員任用帳』に見られる朝鮮語教材に関する記事を、次に摘出してみよう。

 

[資料60]「 其方達之義、韓学之稽古被仰付候間、毎日坂下ヘ罷越、類合        より始メ、十八史略之読書朝鮮人ヘ稽古被至、朝鮮言葉□(ハ)初進之内、先教訓官ヘ指南を被受、無懈相務、朝鮮言葉ハニ不及、学問迄御用ニ相立候様ニとの御事ニ候間、可被得其意候。委細以別紙申渡候巳上。      」

                (『韓学生員任用帳』、泉-23頁)

 

[資料61]「一、毎日東向寺ヘ通候而、小学・四書・古文・三体詩之読書、          次第を追而相務候事。

      一、稽古用として、中束紙壱束・筆十本・墨三丁宛、年中銘々          ニ成被下候事。

       一、類合一部・十八史略一部宛、銘々御調被成被成下候事。

                 (『韓学生員任用帳』、泉-23頁)

 

[資料62]「 御町奉行所より教訓官へ被申渡候書付の趣

               別紙之書付 

        一、生員十人之者共、朝鮮音を以、類合・十八史略習覚候様被          仰付候間、各被召連、毎日無懈怠坂下へ参候様ニ被致候事。

一、物名冊・韓語撮要・淑香伝、此三部段々ニ指南可被致候。若輩者自身ニ覚書も不罷成者ヘハ、銘々帳面をとちさせ置、毎日被教候所を書付、可被相渡候。尤各義兼而朝鮮人へ右之書物得と被読習、清濁高低少の違無之様ニ指南可被致事」

                   (『韓学生員任用帳』、泉-25頁)

 

の三カ所に、教材に関する記事が見いだせる(註13)が、われわれの観点から、これらの記事を分析するならば、

  (A)  朝鮮漢字音のトレーニング教材--『類合』・『十八史略』など

  (B)  朝鮮語教育の段階別教材--『交隣須知』・『物名冊』・『韓語撮要』・『淑香伝』などの小説

    (C)  漢学教材--『小学』・『四書』・『古文』・『三体詩』など

の三種類の教材が記載されていると考える。ちなみに『交隣須知』は芳洲自選の教材である。このうち対馬島内の臨済宗の僧侶で、日朝の外交文書を担当する役目(真文役)も持っていた倭館駐在の東向寺僧は、その歴代の僧侶が朝鮮語の素養を有していたとは考えがたいから、これらの書籍はあくまでも中国古典学の勉学と、習字の練習であったに違いない。文字通り「寺小屋」で学ぶ孔孟の学を学んだ筈であるから、今は「朝鮮言葉」に関連する教材のみに限っておきたい。

このうち漢文教材であった(C)は当面の課題には無縁であるので、ここでは取り扱わないとしても、(A)の『類合』(柳希春・増補修正『新増類合』、宣祖七年刊行本<二巻本>)は、李朝時代において『千字文』とともに広く漢字入門書として活用されてきた、いわばポピュラーなものである。3000の漢字を収録し、それを数目・天文・衆色などの24項目にまとめた上巻と、心術・動止・事物などの3項目にまとめた下巻とに分かれている。一つ一つの漢字の下に、朝鮮漢字音の音と訓とが併記してあり、初学者はこの漢字音を学習することになる。

  次はランク別に「此三部段々ニ指南可被致候」として準備されていた教材-『物名冊』・『韓語撮要』・『淑香伝』の三冊(中級教材)について、簡単に触れておこう。最初に挙げた『物名冊』と『韓語撮要』の二冊は現存しておらず、『物名冊』が現在対馬宗家文庫に伝来する『物名』(所蔵番号:和書-D言語類)との名称の類似が見られる所から、仮にこの二冊は密接な関係があるとするならば、『物名』がそうであるように、朝鮮語語彙集であったと推測できる。その形式は、発音がカタカナで書かれた朝鮮語語彙およそ500語に、それに対応する日本語訳が併記してある。この本の利用は、初学者のための朝鮮語語彙集だけに限らず、日朝対訳辞書としても役立っていたはずである。

 『淑香伝』は疑いなく上級教材である。『春香伝』や『沈清伝』などのような李朝時代の有名な小説ではないが、この『淑香伝』ハングル本を用いて講読に利用したと推定して良い(なお『淑香伝』には、漢文本もある)。

  ここで思い出すのは、元文元年(1736)四月に、芳洲が韓語司の稽古生に対して、「申渡候書付」の中で語る自らの体験談である。そこでは、

 

[資料63]「  翌三十六歳之時、朝鮮江罷渡丸二年逗留、交隣須知一冊、酉        年工夫一冊、乙酉雑録五冊、常話録六冊、勧懲故事諺解三冊仕立、其外淑香伝二冊、李白瓊伝一冊自分ニ写之」(『詞稽古之者仕立記録』、泉-308頁)

 

のである。芳洲の血の滲むような体験(「命を五年縮候」)で習得した朝鮮語であっただけに(註14)、かれが学習に用いた教材を、このたびの韓語司でも推奨していることは、興味深い。

  さて、『交隣須知』以外の本は、その類似した書名の本さえ伝わっていない。「酉年工夫一冊、乙酉雑録五冊、常話録六冊、勧懲故事諺解三冊」などは不明な本と言わざるを得ない。この不明な本の中で、『全一道人勧懲故事』の第一、二巻は、すでに安田章が考証したように、芳洲自筆写本の『全一道人』(1729年成立)の構成26条とほぼ一致する(安田章、1964年)。したがって『勧懲故事諺解』は確かに現存しないが、『全一道人』に吸収されていったと考えてよい。ところがその『全一道人』の序文には、これまでに掲示した教材の名前とは違うものが、芳洲の著作として並べられている。

 

[資料64]「ここに四部の書をゑらひ、はしめに韻略諺文をよみて字訓をし        り、次に酬酢雅言をよみて短語をしり、次に全一道人をよみて        其心をやしなひ、次に鞨履衣椀をよみて其用を達せしむ」

                (安田章、1964年、78頁)

 

この四冊の中で現存するものは、わずかに『全一道人』一冊だけであるので、残りの三冊に言及し得ない。しかしながらこの序文の中で、芳洲は、四冊の教材がそれぞれ目的別に編纂されていると指摘している。つまり『韻略諺文』は漢字の朝鮮語の音読み、訓読みを学習できるように配慮してあったにちがいない。また『酬酢雅言』は短語(短文)を集め、学習効果を考えて配列したものであったはずであり、その一つ一つのモデル発音を繰り返したり、あるいは例文の中の単語を入れ替えたりする代入練習用に使用されただろう。次に『全一道人』であるが、序文に「其心をやしなひ」とあるように、儒教倫理イデオロギーを知るために編纂されたものである。『勧懲故事』(明人汪廷訥・著)の日朝対訳を利用して、その日本語訳を要求する講読のためか、もしくは文法を教えるためのものであった可能性が高い。最後の『鞨履衣椀』は、書名からもその内容を知る手掛かりに欠けている。

  さてここまでに紹介した芳洲の教材論をまとめてみると、

        初級ランク…表現文型中心の教材(口頭練習法の採用)

                    朝鮮漢字音学習教材(3000漢字)

                    朝鮮語語彙(500語程度)

        中級ランク…会話・講読教材

        上級ランク…古典小説(文法訳読法との併用)

と整理できるはずである。こうした芳洲の朝鮮語教育における教材とカリキュラムは、上記した中国語学習での自身の経験とまったく重なり合うものである。

   なお、これらの教材は印刷技術など発達していない当時であるので、各自が筆写することが原則であった。藩からの支給品は次の通りであった。

 

[資料65]「  中結紙弐束

                日本墨弐挺      壱ケ年分相定ル

                求請筆拾本                       

                 (『詞稽古之者仕立記録』、泉-288頁)

 

課外授業

 

  継続的な学習の熱意などを持たない学生が、しだいに勉学に打ち込むことなく、学習成績の低下が目立つようになることは、古今東西全く同じである。こうした教授者側の頭痛の種である、いわゆる「落ちこぼれた」学習者に対する課外トレーニングの規定をも、雨森芳洲は発案し、実行に移そうとしていたようである。

 

[資料66]「若輩者自身ニ覚書も不罷成者ヘハ、銘々帳面をとちさせ置、毎日       被教候所を書付可被相渡候。」(『韓学生員任用帳』、泉-25頁)

 

  この方式は各自の帳面(ノート)を閉じさせておき、その日に学習した内容を復読・フィードバックさせながら、学習内容を定着させるものである。どこまで実効性のあった学習支援システムであるのか分からないが、間違いなく芳洲式課外授業は、後の韓語司の場においても採用されたはずである。

 

 

七 「韓語司」第一期生に対する評価方法

 

の目的は、江戸時代の享保12年(1727)、対馬藩に設立された朝鮮語通詞養成機関「韓語司」での教育評価法を中心として、その試験制度と成績評価法などを具体的に解明しながら、今後の朝鮮語教育の在り方の一助とすることにある。

  さて「韓語司」での教育評価法に関しては、日朝関係史研究者の田代和生によるすぐれた先駆的研究が発表されており(田代和生、1991年)、本稿はその田代の所論に裨益されるところ大であった。しかし筆者の観点はあくまでも朝鮮語教授法にあり、田代の関心と必ずしも一致しない。先学諸氏には陳腐な内容にすぎないが、少しばかりの学界への貢献もありはしないかと愚考し、ここに発表する次第である。

 

試験と評価法の確立

 

 まず考えておきたいのは、「韓語司」での評価は、いったい何のために実施されたのであろうか、である。一般的に教育現場において、評価法が用いられるとするならば、第一に「目標到達度チェック」のためであり、第二に「選別のための能力測定」の、二つをあげてよいだろう。

  このうち、目標到達度チェックとは、「各コースの目標値を、どの程度、各学習者が達成しているのか」を判断し、教授者から学習者への指導に活用するものである。それは学習者個人だけでなく、クラス単位でも利用できるものであるが、要するに、これを「韓語司」の場合に適用して考えてみるならば、

      1,クラス構成の年齢のバラツキ(9歳~17歳)による弊害はないか

      2,寺子屋での仮名・漢字履修者と非履修者との間に、朝鮮語学習進度の違いは生じていないのか

      3,生徒(稽古生相互の交流によって、クラス全体が一致して学習目標達成に向     かって前進しているか

      4,教師に対する信頼感が、稽古生間に醸成されているのか

      5,クラス全体に教師の指導力が発揮されているのか

      6,三年という長期間にわたる学習コースが順調に伸展しているのか。も     しくは阻害要素は何か

      7,カリキュラムは、コース開始当時のままでよいか

      8,先生(詞師匠の教え方、教材などに不適切さはないか

などのチェックがなされなくてはならないと思われる。

 一方、「選別のための評価」は、この「韓語司」の場合で考えるならば、釜山倭館での現地研修に派遣するための成績優秀者を選抜し、能力のそろった学習者集団を作り出すことに目的がある。学校全体の学生総数39名から、釜山倭館に派遣する5~6名に絞ることに主眼をおいて、教師が稽古生を評価し、それを惣下知が確認する評価方式である。能力別クラスを編成したとの記録が見あたらないので、クラスの中での順位付けをしたとしても、それを直接にクラスにフィードバックはしなかったにちがいないが、藩校などとの比較を通して推察できることは、その成績評価がクラスでの席順に反映され、成績優秀者から落第者までが一覧してすぐにその席順で判明したに違いない。

  さて、評価のための試験は、一月に一回、実施された。

 

[資料67]「                大通詞

                                本通詞中

                右者今度朝鮮言葉之試稽古六十人之子共江被仰付候付、仁位文        吉義師匠ニ御定被成、毎月一日宛考日を立置、通粗帳相認差出候様ニと被仰付候間、考日ニハ罷出文吉并津和崎徳右衛門ニ相加リ同前ニ相考、通粗帳ニ名判いたし、東五郎方へ差出可申候。尤通粗帳仕立様之儀は東五郎方へ罷出差図を受候様ニ可被申候。

                      右之面々夫々ニ可被申渡候以上

                  八月二十三日            年寄中

                平田源五四郎  殿                                 

                 (『韓学生員任用帳』、泉-287頁)

 

 家老の指示によると、「考日」(試験日)に試験を実施し、その成績評価を「通粗帳」(成績表)に記帳した後、試験列席者たちはそれに認め印を押さなくてはならない。そののち、惣下知の雨森芳洲のもとに、その成績表を届けて、芳洲の検閲を受けることが義務づけられたのであった。しかもその成績表に記入すべき評価項目の作成に関しても、芳洲には自らの意見があったようであり、「尤通粗帳仕立様之儀は東五郎方へ罷出差図を受候様」とある。

 ところでわれわれが見落としてはならないことは、芳洲が、いわば公開試験制度を導入していることである。

 

[資料68]「     御国ニ居合候通詞共江

                       

                此度朝鮮言葉之試稽古町中之子共へ被仰付候付、何某儀教授ニ        御定被成、毎月一日宛考日を立置、通粗帳相認差出候様ニと被仰付候間、考日ニハ皆共内より弐人ツツ罷出、何某同前ニ相考ヘ、通粗帳ニ名判いたし、差出可申候。以上。

       尤通粗帳仕立様之儀は東五郎方へ罷出差図を受候様ニ可被申         候」

                 (『韓学生員任用帳』、泉-283頁)

 

  どうやらこの試験を通して、朝鮮語通詞たち相互の刺激材料ともしたと考えられるし、あわせて試験を「公開制度」にして、厳密さを保ったことは、教育史の観点から見ても特筆に値するのではあるまいか。

もっとも享保年間の場合は、

 

[資料69]「     享保十四己酉三月六日        越常右衛門

       右者朝鮮言葉稽古仕候子共、毎月晦日雨森東五郎宅ニ集メ相考」       (「類聚書抜」巻九)

 

とあり、月末に試験日が芳洲の自宅で行われたとあるが、後には試験場が惣下知の自宅から

  ①安永3年(1774)末より、毎月27日、使者屋にて朝鮮方の監試のもとで実施し、

 ②この試験には、朝鮮言葉稽古御免札の者のほかに、町家の子供で朝鮮語を稽古している者、別代官・町代官の詞功にして修行中の者なども全員が参加。

したのであった(『類聚書抜』第九)。

 

欠席者と試験未受験者に対する取り扱い

 

  雨森芳洲は評点を「賞典之数」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」、泉-294頁)と呼んだが、われわれに興味深いのは、欠席者に対する教育的処置である。

 

[資料70]「一,不参ハ一日ニ付試数之数ニ而十ツゝ減候事

              但忌中ニ付令不参之者不及減数候。其外分明ニ相知候病気又ハ無       拠用事ニ付令不参候者、不可及減数事ニ候へ共、左候而者他日之弊端有之候故、枉テ及減数候。」

              (『詞稽古之者仕立記録』、泉-296頁)

 

との減点法式が採用されている。つまり、これは1回欠席すれば、10点ずつ減点するが、ただし「身内に不幸があった者」に限り減点しない、と言っている。われわれもしばしばその口実に用いる「病気」を理由の欠席は、本来ならば減点しなくてもよいが、しかし後日のためにはやはり減点すると決めている。皆勤賞が最高の勲章であるといっているのであろう。

  そしてこの試験では、いかなる理由があろうとも、試験そのものを受験しなかったならば、無条件に30点を減点する事になっていた。

 

[資料71]「一、考日者別而出来可仕筈ニ候処、其義無之候段如何ニ候故、          考日不参ハ試数之内ニ而三十ツゝ減候事」

                (『詞稽古之者仕立記録』、泉-296頁)

 

現在の「再受験」制度などに該当するものはなく、あくまでも一回限りの試験であった。

 

試験内容

 

  残念なことに、答案などが一切残っていないので、試験の内容や評価方法などの具体的内容は知ることが出来ないが、芳洲が重要視したのは、単なるコミュニケーション手段としての言語ではなく、つまり「単にシャベレルのではなく」、正確な日本語による講読・解釈であったと思われる。芳洲の著述である『公私考式』(雨森芳洲文庫第22号、滋賀県高月町立観音の里歴史民俗資料館所蔵、未見)には、

 

[資料72]「毎日、韻譜を二十行づつ教えて百回復習させる。翌日に昨日教        えた所を三句づつ挙げ、一句の上の二字を師匠が適当に言った時、三句とも覚えていれば通、二句覚えていれば粗、一句覚えていれば略、一句も覚えていなければ不通として、帳面に記し、全課程が終わった時に、通は三十点、粗は二十点、略は十点として集計する」(米谷均、1991年、94頁より再引用)

 

と、芳洲は記述しているという。これは中国語学習の場合を取り上げての説明であるが、同様な出題・採点法が朝鮮語にも適用されたに違いない。韓語司の初級コースの39名の稽古生に対して試験を実施するときに、最初からフリートーキングなどの会話試験が実施されたとも想定できず、また文法に偏った試験であったとも思われない。初級教材の一つに『交隣須知』を採用しているので、それから出題し、さらにはその学習事項の達成度テスト(アチーブメント・テスト)であるとするならば、先のように中国語試験でも実施された、口頭による短文の正確な暗記力を問うテストであった可能性が高い。

  また、芳洲が指定した「韓語司」での教材から、試験問題が作成されたとしたならば、前述のように、

        初級ランク…表現文型中心の教材(口頭練習法の採用)

                    朝鮮漢字音学習教材(3000漢字)

                    朝鮮語語彙(500語程度)

        中級ランク…会話・講読教材

        上級ランク…古典小説(文法訳読法との併用)

などから出題されたはずである。

 

成績評価

 

 現在に残る第1期生たちの「訳生賞目(試験結果・成績評価)」は、次の通りである。成績評価は5段階に分かれており、

        上→亜上→中→亜中→準亜中

の順であった。それでは第1期生たちの成績を見てみよう。

 

          [表3:訳生賞目(成績評価)表]

 順位

 氏名

 合試数

  不参

 考日不出

  実数

1位

花田重五郎

 3510

  230

   

 3280

2位

阿比留助市

 3470

  340

   

 3130

3位

春田治助

 3410

  270

    30

 3110

4位

井手金十郎

 3210

  190

    30

 2990

5位

橋辺元吉

 3400

  660

    30

 2710

6位

春田又五郎

 3170

  940

    60

 2170

7位

高田幾之助

 2880

  750

    90

 2140

8位

佐護利吉

 2980

  840

    90

 2140

9位

権藤六之助

 3150

1080

    60

 2110

10位

早田藤五郎

 3190

1400

    90

 1660

11位

糸瀬仁三郎

 2430

1150

   120

 1160

12位

鳥居平之助

 2590

1410

   120

 1060

13位

松本十八

 2710

 2110

   180

   420

 

 満点は3900点であったらしい。というのも正式な成績評価方式が発表されていないので、総合点の算出基準に困るが、それでも

 

[資料73]「都合三拾九ヶ月ニいたし見、高下を定候事」

                (『詞稽古之者仕立記録』、泉-296頁)

 

と示されており、これに従うと、総合得点は、39回×100点=3900点となる。

[表3]に見るように、点数(「試数」という)3000点以上が「上」ランクで、3人いる。最高点は、17歳の花田重五郎、3280点を獲得している。彼の場合、試験での採点は総得点数が3510点であった。3510点÷39= 90であるので、彼の毎月の平均得点は、90点になるだろう。しかし花田重五郎には、不参の日、つまり欠席が23日あったために、その23日×10点=230点を引いたので、実際の得点は3280点と算出されたのであった。

 第2位は、18歳の阿比留助市で、総得点は3470点、平均点は88・9点。しかし不参の日が34日であったので、34日×10点=340点が引かれて、実際の得点は3130点となった。以下、同様である。

 

                表4:実質得点順位]

   等 級

   年 齢

 試 数

実質得点合計順位

   三人

1位    花田重五郎

2位    阿比留助市

3位    春田治助

 

 17歳  

 18歳  

 16歳  

  試数3000点以上

  3510点

  3130点

  3110点

 

         1位

         2位

         3位

   亜上六人

4位    井手金十郎

5位    橋辺元吉

6位    春田又五郎

7位    高田幾之助

8位    佐護利吉

9位    権藤六之助

 

 20歳 

 18歳  

 16歳  

 13歳  

 14歳  

 18歳   

試数2000点以上

  2990点

  2710点

  2170点

  2140点

  2140点

 2110点

 

         5位

         4位

         6位

       10位

         9位

         8位

   中三人

10位  早田藤五郎

11位  糸瀬仁三郎

12位  島井平之助

 

 18歳   

 17歳  

 14歳  

試数1000点以上

1660点

  1160点

  1060点

 

         7位

       13位

       12位

  亜中 二人

13位  松本十八

14位  佐護亀之助

 

  17歳  

 17歳

試数100点以上  

420点

340点

 

       11位

       14位

 準亜中六人   

     飯束六之助

        杉原助五郎

        青柳吉之助

        服部伝治

        高木差吉

 

 17歳

  15歳

  15歳

  16歳

  13歳

 

点数不明

 

   20名

 

 

 

 

  資料の残存状態からして、今日ではこの20名の成績しか判明しない。想像するに、14位で総得点数が340点であるので、これ以下はあまりの得点の悪さに、全員の点数を記録する必要はないという判断が働いたのではあるまいか。また藩の記録に、この14人の得点数が記録されたのも、藩からの賞金が支給されたために、その資料的裏付けのためにも記録されたのであろうが、それでも「準亜中」六人の得点記事が落ちているのは、やはりそこに事務方の配慮があると見るべきであろう。

  さて上の得点分布を見ると、いくつかの興味深いことに気付く。まず第一に、得点合計の上位者は、実質得点合計も、また欠席などのペナルティーを差し引いた後の「試数」にしても、その順位に変動はないが、「亜上」や「中」クラスの得点者は、その実質的得点と「試数」とに大きな開きがあり、当然ながら順位は変動する。見方を変えると、そのランクの稽古生たちの実質的得点はほとんど変わらないが、欠席数に大きなバラツキが見られる。甚だしい例は、13位の松本十八である。実質得点は2710点であり、全体の11位であるにもかかわらず、欠席日が217日もあり、そのペナルティーが全体の成績に大きく影響している。

  第二に、8位の佐護利吉(14歳)を除くと、残りの上位者はほぼ17、8歳であり、やはり外国語学習適例年齢があることを予測させる。それを裏返して言えば、若輩でありながらも健闘した佐護利吉の才能に、われわれは敬服しなくてはならない。

  第三に、欠席と成績優秀者分布との相関関係である。得点の上位者になればなるほど、極端に欠席数も少なく、1位の花田重五郎などは3年間に23日の欠席数しか記録されていない。しかし下位になると、各自の欠席数が目立ち、興味を失ったから欠席したのか、それとも親の商売の手伝いで忙しかったから韓語司に出席できなかったのか、その理由を知りたいところであるが、資料は何も語っていない。

  第四に、原則は「一回の欠席に、10点マイナス」であったはずであるが、3位の春田治助にしても「不参28日、270点引之」とあり、計算が合わない。残りの稽古生にしても、計算が20~50点食い違う。この理由は判明しない。

  ところで、こうした学習プランの下で、通詞は育成されたが、第1期入学者39名の内で、最後まで丸3年間の課程を修了した者は20人であった。つまり脱落者が19名いたことになる。もっとも早い脱落者は橋辺源七であった。かれは入学の半年後に退学を願い出ている。9歳での学習の開始が早すぎたきらいがあり、また「六十人町人」の中でも格式と伝統を誇る「古六十人町人」の家柄の親の期待に添えなかったに違いない。ただし橋辺家の長男はみごとに5位で卒業しており、やはり橋辺家の三男の入学年齢に無理があったと認めるべきであろう。

 

第一期の上級コース

 

 その19名の中から、続く3年の課程に進むことを許されたのは、14名であった。

 

[資料74]「     享保十六年二月九日

              町六拾人之子共朝鮮言葉稽古之義、当亥三月朔日より丸三年退        年被仰付候間、稽古望候者其親々より願出候様ニ可被相触旨、町奉行平田源五四郎江申渡ス」

                (『詞稽古之者仕立記録』、泉-296頁)

 

 親からの願い出があり、藩が認めたメンバーは次の[表5]の通りであった。

 

表5:第一期生上級進級者名簿]

   等 級

   年 齢

 試 数

実質得点合計順位

   三人

1位    花田重五郎

2位    阿比留助市

 

  17歳  

  18歳  

試数3000点以上

 3510点

 3130点

 

         1位

         2位

   亜上六人

4位    井手金十郎

5位    橋辺元吉

6位    春田又五郎

7位    高田幾之助

8位    佐護利吉

 

  20歳 

  18歳 

  16歳  

  13歳  

  14歳  

試数2000点以上

 2990点

 2710点

 2170点

 2140点

 2140点

 

         5位

         4位

         6位

       10位

         9位

   中三人

10位  早田藤五郎

11位  糸瀬仁三郎

12位  島井平之助

 

  18歳   

  17歳  

  14歳  

試数1000点以上

1660点

 1160点

 1060点

 

         7位

       13位

       12位

  亜中 二人

14位  佐護亀之助

 

  17歳

 試数100点以上

    340点

 

       14位

 準亜中六人   

     飯束六之助

        杉原助五郎

        高木差吉

 

  17歳

    15歳

    13歳

 

 

番外  栗谷藤之充

  12歳

 

 

 

  入学を許された第一期の上級コースの稽古生たちは、さらに詞師匠のもとで朝鮮語学習に励んだと思われるが、残念ながらその足跡を追うだけの資料が残っていない。それでも、詞師匠であった者たちへの月給と報奨金の授与に関する記事が、

 

[資料75]「         享保十六年七月十一日

              金子百疋        吉松清右衛門 

           同弐百疋    花田重五郎     

                (『類聚書抜』巻九、110丁-A)

 

とあり、また

 

[資料76]「        享保十六年十二月十八日

                      金子百疋        吉松清右衛門 

           同弐百疋    花田重五郎     

                (『類聚書抜』巻九、113丁-B)

とあり、

 

[資料77]「              享保十九年三月十八日

                      黒米弐俵        吉松清右衛門       

                 (『類聚書抜』巻九、116丁-A)

 

の記事によって、詞師匠が吉松清右衛門、そのアシスタントが花田重五郎であったと判明する。最初の三年間に、初代詞師匠仁位文吉のもとでアシスタントを努めた吉松清右衛門が、その次の三年コースではその詞師匠へと昇進したのであった。じつに心配りのきいた人事であるが、この教師の選定にも雨森芳洲の意向が働かなかったと想定することには無理があろう。なお仁位文吉は任期が終了後に、釜山倭館館守の杉村帯刀の通詞として渡海した。

さて、その十四名は、次々と釜山倭館への留学を命じられた。まず享保十七年五月五日に、花田重五郎が、続いて阿比留助市が釜山に渡海した(『類聚書抜』巻九、91丁-B)。また元文元年には、杉原久右衛門・梅野松右衛門・渡嶋源右衛門・春田治助の四名が渡海するというように、もはや対馬での学習よりも現地での語学研修に重きを置いていたようである。

 

釜山倭館での語学研修

 

  韓語司第一期の稽古生たちが次々と釜山倭館に渡海していったが、ではそこではどのような教育が実施され、どのような評価法が採用されたのであろうか。

  この釜山での語学研修に関しても、芳洲の指示は徹底していた。『韓学生員任用帳』の中で、まず語学学習に専念するための心構えとして、

 

[資料78]「稽古之内ハ短髪被仰付可然候。十人之者、銘々髪月額いたし候        而ハ、隙も費ヘ、稽古之妨ニ罷成候是一ツ。男色騒動之恐有之候是一ツ。第一短髪仕居候ヘハ、偏ニ稽古不相務候而ハ、不叶義と存し、自然と身の廻りニも心を用不申、稽古之志専一ニ成申候筈ニ御座候故、短髪被仰付可然と奉存候。」

 

のように、髪型は「月額」とし、さらに当時にあって男性間での一般的な性癖であった「男色」の禁止令を発している。

  さらに、語学学習のやり方は、

 

[資料79]「其方達之義、韓学之稽古被仰付候間、毎日坂下ヘ罷越、類合よ        り始メ、十八史略之読書朝鮮人ヘ稽古被至、朝鮮言葉□(ハ)初進之内、先教訓官ヘ指南を被受、無懈怠相務、朝鮮言葉ハニ不及、学問迄御用ニ相立候様ニとの御事ニ候間、可被得其意候。」

 

と、具体的な学習方法にも及んでいる。なお坂下とは、倭館の出入口の場所であり、そこに朝鮮側の訳官が常駐していたので、かれらから教えを受けろと命じているのである。その配慮は、かれら訳官の言葉が釜山方言ではなく、漢城(ソウル)の言葉であったからである。

  語学研修生のための教師役として、倭館には「教訓官」を配置した。

 

[資料80]「只今諺文を存居候者ハ、小松権石衛門・森田弁吉、是三人ニ而        御座候故」

 

の、小松権石衛門・森田弁吉らであった。かれらからハングルを学習するようにとの指示が出されている。しかもその「教訓官」たちへの通達として、芳洲は、

 

[資料81]「一、生員十人之者共、朝鮮音を以、類合・十八史略習覚候様被          仰付候間、各被召連、毎日無 怠坂下へ参候様ニ被致候事。       

一、物名冊・韓語撮要・淑香伝、此三部段々ニ指南可被致候。若輩者自身ニ覚書も不罷成者ヘハ、銘々帳面をとちさせ置、         毎日被教候所を書付、可被相渡候。尤各義兼而朝鮮人へ右          之書物得と被読習、清濁高低少の違無之様ニ指南可被致事」

 

といった書付を残している。怠慢であることなく指導に努めよ、といった点は当然であるとしても、興味深いのは、当時の発音は「清濁高低少」と見なされていた点である。

  倭館での稽古生の生活は、「監督官」三人によって管理されていた。

 

[資料82]「右生員十人之内の親、又ハ伯父、人品宜候者三人御究置被成、        半年替ニ朝鮮へ罷渡り、十人之者を介抱いたし、併ニ食物の仕        出し承之候様ニ被仰付可然候。

御町奉行ヨリ監督官中へ被申渡候書付之趣 

覚                                                               向後生員十人朝鮮へ被指渡、韓学の稽古被仰付候ニ付、各三人        之義、監督官ニ被仰付、半年替ニ彼地ヘ被罷渡、十人之者介抱        被致、并ニ朝夕之食用引うけ、被致世話候様ニとの御事ニ候間、        可被得其意候。人数并ニ御宛行」

 

とあり、さらに詳細に書付は続く。                    

 

[資料83]「右朝夕之食料として、毎月米三石・銀弐枚宛、代官方ヨリ各方        へ被相渡候様被仰付候間、一汁壱菜、香物斗のの仕出し可被致        候事。

        一、各朝鮮在勤之内ハ、毎月拾匁宛、月切被仰付候事。但初            而罷渡候人ハ、仕出銀壱枚被仰付候事。

一、炊丁・小厨三人ハ、惣中間中之遣者ニ候ても、人柄之義、           各并教訓官被申談可被召連候。右壱人ニ付、毎月五匁宛           の雇賃被下之候事。

一、居住之義、代官町之内ニ被仰付候間、一所ニ居可被申候           事。

       一、畳・椀・家具・世帯道具、一々上ヨリ御渡被成候事。           ~~(中略)~~、

       一、通詞・稽古通詞へ、右之稽古人稽古募リ候様ニ、気を付           引廻し候様ニ被仰付候事。

                 ~~(中略)~~、

                                 年々相定候御入目

         一、食料銀、合参貫百六拾匁

                      米三拾六石弐貫百六拾匁六拾匁米ニメ

                   塩噌代  壱貫八匁  壱月銀弐枚ツ、ニメ

                 一、月切銀、合弐貫弐百四拾八匁

                    生員十人  壱月ニ拾 炊

                   監督官一人 同断 但し朝鮮ニ相勤ル分

                   炊丁二人  壱月ニ五匁ツ、

                   小厨一人  同断

         一、送物代、合七百四拾五匁

           木綿二拾疋  壱疋拾五匁ニメ

           綿百六拾目 七匁六分ニメ

           白布三端  三拾六墨九分ニメ

         一、中束紙拾束代、 六拾匁

           外ニ朝鮮筆百本、 墨三拾丁

         一、油代、合百二拾匁

           年中二斗四升  壱升ニ付五匁ニメ

         一、師匠判事江五節句遣物銀、合弐百五拾匁

           壱節句五拾匁宛ニメ

                メ

               六貫五百六拾三匁

                                                 初度被仰付候時之御入目

          一、銀百拾匁

             十八史略十部、類合十部代

          一、五百拾六匁

             生員、監督、教訓 仕出銀壱人ニ付壱枚ニメ

          一、畳、椀、家具、世帯道具代                   

              (『韓学生員任用帳』)

 

といった、実に微に入り細に入った指示と経費負担が記載されている。

 こうした指示を出した上で、それらの監督に努め、さらに芳洲の朝鮮語教育にかける情熱は徹底していた。稽古生たちへに対して、釜山からレポートを芳洲に提出せよ、という命令であった。

 

[資料84]「毎月三八之日には四人(註:杉原久右衛門・梅野松右衛門・渡        嶋源右衛門・春田治助)之内より壱人ツツ、巡々ニ題を出し候        人ニ成リ、残り三人銘々ニ題之心持を五月三日ニ会有之候ハゝ、        四月二十九日ニ和文にて成共、口上にて成共、残り三人江申達        し、兼而思案有之候様ニ可被致候、右終而銘々諺文ニ而書付、        某方へ度をき遣し可被申候」

 

との、今ならばディベートに類する練習を課している。その練習用の解答にしても、すべて芳洲が事後にチェックするとして、

 

[資料85]「此元へ相達次第、前々申候通、毎日稽古之書付同前ニ某方にて        銘々本ニ閉召置可申候間、兼而目うち紙誂置、針を入レ、本ニ        閉候様ニ書付遣し可被申候」

 

といった、芳洲宛に提出すべき紙の製本にまで、彼の指示は念が入っていた。 

今、ここですぐさま、これら十四名のその後の運命を知ることは出来ない。資料不足からであるが、そのうちの何名かは、後日、

          人通詞

            稽古通詞

            本通詞 

            大通詞 

の順に、昇進していった。管見の限りでは、成績が8位であったにもかかわらず、もっとも早く寛保五年三月四日に、佐護利吉が五人通詞に任命されている。

  彼ら通詞たちに対する俸給は、   

       人通詞(一時は人通詞、安永2年9月より人通詞)

            稽古通詞--五人扶持

            本通詞  --五人扶持

            大通詞  --六人扶持

であった。ただし倭館勤務勤務期間に限り、在外勤務手当として、一律に客料二人扶持、合力銀四三匁が毎月支給されたという(宗家記録「通詞中在館御宛行加増被仰付候覚書」韓国国史編纂委員会。田代和生、1991年78頁参照)。

 

 

八 まとめにかえて

 

芳洲の発案で開設された「韓語司」は、享保十二年にスタートをしてから、その後江戸時代を通じて、何度稽古生を募集し、そこに何人の稽古生が入学し、何人の通詞が誕生し、またそこでどのような朝鮮語教育が実施され、何人の詞師匠が教え、どのような評価法がなされたかなどに、ほとんど知る手掛かりがない。しかしながら芳洲が創設し、その運営に全面的に関与した「韓語司」第1期生たちの成績は、幸いにも『朝鮮詞稽古御免帳』が残っており、宝暦四年(1754)から天明元年(1781)までの小田助三郎ほか66名の稽古札取得者の名が記してある(註15)。

  幕末までの対馬藩韓語司の動向は知り得ないが、明治政府の報告書の中に、

 

[資料86]「     朝鮮通詞ニ附省議

              韓語通弁ノ儀ハ元厳原市人ノ中或ハ世襲ノモノ或ハ一時其道ニ執       心ノ幼道輩ヲ支給シ置成年熟業ノ薄夫夫役名を付しシ韓地及大坂       長崎等ニ在勤為致候テ苗字帯刀等差許シ有之候得共、畢竟市籍ノ       モノニテ近年ニ至りテハ別テ貿利中ヨリ給シ来候儀ニ候」(『朝       鮮事務書』第13巻51丁ウ)

 

とあり、しかもその通詞は「現今三十余人」であると伝えている。但しこの報告書の欄外には、対馬藩の通詞の総数に関して、「大坂・長崎・対馬・朝鮮ニ配置の人員約二百六名あり」の書き込みがあるが、この数字の根拠は明白でないのが残念である。しかし少しこの数字は誇張にすぎる嫌いがあり、俄に信じがたい。

  どうしても幕末までの対馬藩朝鮮語学校の運営状況を知ることは、現在の資料からだけでは困難であるが、それに比して幸いにも対馬藩「韓語司」に関して、相当詳細に知ることが出来るのは、その産婆の役を雨森芳洲がはたしたからであり、メモ魔に近い彼の性癖と、その頃から対馬藩内で「記録の時代」(長正統・命名)に入っていたからである。これはまったくの僥倖といわざるを得ず、それ以降にさしたる記録類が残されていないところを見ると、スタート時の芳洲の指示通りに、時代が下って行っても、組織や学校運営・カリキュラムなどに大幅な変更や修正が加わることなく、幕藩体制下によくあった前例主義を墨守して、無難に運営されたためであったと推測しても、なんらかまわないように思われる。

今日、約12万点にも及ぶ対馬藩関係の古文書・典籍類が日本(長崎県立対馬歴史民俗資料館・国会図書館・慶應大学図書館・東京大学史料編纂所ほか)や韓国(国史編纂委員会)に保存されている。これらの膨大な史料群の中から、われわれに残された問題として、対馬藩「韓語司」で実施された朝鮮語教授法やカリキュラム・学習項目などに関して、可能な限りそれらの復元作業に着手することが、今後の重要な課題である。それは後日を期したい。

 

 

《第1章註》

 

(1)われわれが採用する観点とは大きく異なるが、関心の所在が近い概説に、次のものがある。ただしきわめて通俗的で、啓蒙的な内容となっている。

李進煕「雨森芳洲の朝鮮語」『季刊三千里』第11号、1977年秋、

日野義彦「対馬に於ける隣国語学習について」『対馬風土記』第20号、        1984年

 

(2) 1945年以降において、厳密な意味で学説史上の「対馬藩通詞」の最初の本格的な研究は、泉澄一の手でなされたと考えるべきである。というのも対馬藩の朝鮮語通詞をめぐる基本資料である、

①『韓学生員任用帳』……檜垣元吉所蔵

②『通詞仕立帳』(『詞稽古之者仕立記録』)……韓国国史編纂委員会現蔵、朝鮮史編修会旧蔵。

の二冊は、すでに泉が『雨森芳洲全集(三)……芳洲外交関係資料・書簡集』(関西大学出版部、1984年)の中で翻刻しているからである。膨大な宗家文書の中から、通詞関係文書を博捜し、それを丹念に翻刻するという基礎的でありながら、画期的な研究資料を学界に提供するという泉の貢献は忘れてはなるまい。ただし泉の翻刻が発表されてから、相当長い間放置されたままの資料に着目し、対馬藩通詞の歴史的研究の重要性を強調したのは、田代と米谷の貢献である。

 

(3)以上のように、対馬藩の朝鮮語通詞そのものを調査・研究対象とした専論は、意外なほどに多くない。それでも通詞たちが教材として活用したと思われる苗代川の朝鮮語写本類に関する、日本語学の立場からの研究は、決して少ないと言えない。特に京都大学文学部国語学研究室のメンバーの取り組みによって、写本類の探索と、それをもとにした日本近世語研究はかなり進展していると言って良い。研究史的に見ると多数の論文・著書を掲示できるが、本論文に連関を有する主なものだけでも、

      三ケ尻浩「朝鮮の訳学書に用ひられた国語の検討」『朝鮮』第244号、

               朝鮮総督府、1935年

      浜田敦『朝鮮資料による日本語研究』岩波書店、1970年

      浜田敦『続朝鮮資料による日本語研究』臨川書店、1983年

      安田章『朝鮮資料と中世国語』笠間書院、1980年

      安田章『外国資料と中世国語』三省堂、1990年

      鄭 光『薩摩苗代川伝来の朝鮮歌謡』(私家版)中村印刷、1990年

      李康民「薩摩苗代川に伝わる『漂民対話』について」『国語国文』第59       巻第9号(673号)、1990年

      李康民「対馬宗家文庫所載の『物名』について」『朝鮮学報』第148輯、       1993年

      李康民「朝鮮資料の一系譜--苗代川本の背景」『日本学報』第36号、       韓国日本学会、1996年

などがある。

 

(4)ところで以下で、こうした対馬藩の朝鮮語通詞養成策に関する雨森芳洲の建議を検討することになるが、その前に、芳洲が藩に提出した建議書『韓学生員任用帳』と『詞稽古之仕立記録』の二冊の文献学的考察を終えておきたいと思う。というのもこの両書はその作成年月日を欠いており、藩への提出年が不明であるために、われわれの検討の重要な資料となるための条件を、一見喪失しているとの見方も成り立つからである。

  まず『韓学生員任用帳』の検討から開始しよう。この本は、檜垣元吉氏(元九州大学教養部教授)所蔵であったが、おそらく本来は対馬の宗家文庫に架蔵されていた文書であったと思われる。現在檜垣元吉氏の旧蔵本の大半は九州大学六本松分館に寄付され、『檜垣文庫目録』(九州大学附属図書館六本松分館編 1996年)が作成されているが、この九州大学への寄贈本の中には、この『韓学生員任用帳』は含まれていない。現在では所在不明である。幸いにも泉澄一による『韓学生員任用帳』の翻刻がなされており(泉澄一、1984年)、筆者もそれに全面的に依拠した。

  さて『韓学生員任用帳』を精査すると、実際には芳洲の自筆本と、それと全く同一な内容であるが、文化十四年に書写された写本とが合冊されていることに気付く。まず『韓学生員任用帳』は、いくつかの資料の集成である。次の通りである。

    ①「韓学生員任用帳」

  ②「御町奉行衆へ被仰付候御書付之趣」

  ③「御町奉行より生員中 被申渡候書付之趣」

  ④「御町奉行より監督中 被申渡候書付之趣」

  ⑤「御町奉行より教訓官へ被申渡候書付之趣」

  ⑥「年々相定候御入目」

  ⑦「初度被仰付候之御入目」

つまりこの七種の文書を一括した名称が『韓学生員任用帳』である。今、写本の方は置くとしても、問題となるのは自筆本の成立年代である。その奥付には、「享保子ノ年七月朔日」とのみ書かれている。可能性としては、享保五年(庚午、1720)と享保十七年(壬午、1732)の両年が推定できる。したがってその作成時期が明記されていないだけに、芳洲の計画が何時立てられたのか、判明させておく必要がある。というのも何らかの必然性と執筆意図があったために、芳洲はこのプランを立案したと考えるからである。むろんその断定は無理であるが、本具申書に即して、後日、対馬藩が「韓語司」を設立している以上、その設立時期である享保十二年(1727)以降であるはずはないと思う。それ以前の「子」の年である享保五年(1720)と推定して、ほぼ正解に近いにちがいない。

  次に『詞稽古之者仕立記録』を取り上げたい。この文書は、現在韓国国史編纂委員会に所蔵されているが(所蔵番号:韓国国史編纂委員会対馬宗家文書No.5367、19・5×26センチ)、もともとは対馬の宗家文庫にあったものである。大正十五年に宗家文庫から朝鮮史編修会に移管されたのち、さらに1945年に現在の管理下に入った。

  さてこの資料の成立は、表紙への表書きに「享保二十一丙辰年」(1736)とある。構成は、次の通りである。

   ①『通詞仕立帳』

        「朝鮮通詞御仕立被成候ニ付雨森東五郎より□□候存寄書之覚」

        「町中江御触被成候覚」

   ②「年寄中(家老)が発給した覚」12通

  ③「韓学詞の設備、稽古生の名簿、成績、および褒賞」

  ④「釜山倭館での詞稽古内容と芳洲の指導」覚5通

  この「通詞仕立帳」も、『詞稽古之者仕立記録』に整理されたのが享保二十一年であったわけだから、芳洲の執筆はそれ以前であるとしても不明であり、しかも藩への提出時期も明記されていない。しかしながら文中に

 

[資料87]「先年申上候ハ十全なる通詞仕立被成候道筋を申上候得共、唯今

             ニハ御時勢も違候ゆへ責而此通りニも被遊度御事ニ奉存候」

 

とあり、「先年申上候」が仮に『韓学生員任用帳』を指す文句であるとすれば、この『詞稽古之者仕立記録』の成立は享保五年以降でなくてはならないし、

 

[資料88]「兎や角申候内ニ月日相立必至と相支候時に成り候而ハ、急ニ通詞       出来可仕様無之候得ハ、何とそ早ク思召被立候様ニ有之度御事ニ       存候」

 

とあるかぎり、享保十二年以前である。しかし内容から判断して、『詞稽古之者仕立記録』は『韓学生員任用帳』のバージョンアップした計画案となっており、その順序に変更はあるまい。

 

(5) 財政難の対馬藩に対し、安永五年(1776)には「私貿易断絶」を理由に、幕府から毎年一万二千両の財政援助を受けたほどであった。この幕府からの援助金を得るための論理構築は、

    1,対馬藩は小知行ながら「朝鮮押えの役」を負担し、そのために分不相応の家臣団を抱えている。

    2,過大な軍役に対する知行の不足分は朝鮮貿易の「所務」で補っており、したがって朝鮮貿易は「知行同然」である。

    3,朝鮮貿易の衰退は知行の削減に等しく、知行が削減されれば、軍役が勤められなくなる

    4,軍役が勤められないことは対馬藩だけの問題ではなく、「公儀」の「威光」にも関わる問題である。

であった。その幕府からの財政援助「永続手当金」に関する詳細なデータは、荒野泰典のものがある(荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年、234頁)。

 

(6)なお交渉相手の朝鮮側の訳官(通詞)が、当時にあって名高い日本語の名手の崔尚集であったことは、芳洲の記憶に残ったことに間違いない。

 

(7)近世後期の対馬藩の財政を取り扱った主な論文は、次の通りである。

      田代和生「対馬藩の朝鮮輸出銅調達について--幕府の銅統制と日朝銅貿        易の衰退」『朝鮮学報』第66輯、朝鮮学会、1973年

      鶴田 啓「天保期の対馬藩財政と日朝貿易」『論集きんせい』第八、19         83年

      森晋一郎「近世後期対馬藩日朝貿易の展開--安永年間の私貿易を中心と        して」『史学』第56巻第3号、1986年

 

(8)もっとも[資料27]と[資料28]の二つは、芳洲の中国語学習時期について食い違いがあり、今そのいずれが正確であるかを俄に判断できない。

 

(9)これ以上の目録はないとはいうものの、それでも管見の範囲内で偶目した、

  雨森芳洲『芳洲先生詩文和歌集』十六巻、付録一巻(筑波大学図書館所蔵)

  雨森芳洲『韓学生員任用帳』一冊、檜垣元吉旧蔵

  雨森芳洲『対鮮交通意見書』写本、一冊、68丁(九州大学文学部国史学研究室所蔵、図書番号:120747)

などの洩れに気付いている。いまだ芳洲の全著作リストは完成していない現状にあり、これは今後の課題として残しておきたいと思うが、

 

[資料89]「『橘窓茶話』『大王連草』『治要管見』『勧懲定式』『一字訓』『斛一件記録』『交隣始末物語』『陶鋳規模』『芳洲口授』『橘窓文集』『交隣提醒』『鶏林聘事録』『朝鮮風俗考』『加信記聞抄』『朝鮮大晰録』『天竜院公実録』           『図書改惣論』『全一道人』『交隣須知』『隣語大方』」

 

などの主な朝鮮関係資料だけは、その名を確認しておくこととする。

 

(10)[資料90]「     分類紀事大綱出来之節、相添差上候口上覚

              去享保四己亥年十月信使御留守之節、朝鮮御支配平田隼人殿より       私え被仰付候ハ、朝鮮方往古已来之書状掴、来状、日帳等吟味、       御隣好ニ相預り候事書抜仕候様ニと被仰出、即私儀頭取之役被仰       付、取立役として高木専右衛門、其外執筆役数人被相付候ニ付、       寛永十二年より正徳三年迄、八拾年之間之御隣好ニ相預り候事実、       逐一ニ付紙仕、執筆役之人え相渡書起し相済、以上参拾七冊出来       仕候故、分類紀事大綱と題号書載仕り今度差上申候」

              (『分類紀事大綱』第一冊、「口上覚」)

 

(11)越常右衛門にとって、惣下知職のメリットが高くなかったからではあろうが、それ以上に別の理由があったのではないだろうか。次は、筆者の一つの推論である。享保六年(1721)には、渡海訳官使による密貿易事件(潜商)が発覚したが、この潜商事件の渦の中に二人の人物、雨森芳洲と越常右衛門の二人が大きく巻き込まれ、結果的にはそれぞれが対立的な役割を演じることとなった。そもそも渡海訳官使とは、幕府や宗家の慶事や弔問などのために対馬に派遣される朝鮮からの使臣である。時には、この名目の下で派遣されながら、日朝外交交渉の実務者会談を行うのが通例であった。享保六年のことであるが、正使・崔尚集をはじめとする訳官一行65名が対馬に到着したが、この一行が組織ぐるみで密貿易を行っていたのである(田代和生、1994年参照)。密告から露見したこの事件であったが、事態の深刻さに藩内の意見は二分した。法治主義の考えから断固たる処罰をすべきであるとする芳洲・松浦霞沼らにたいし、訳官として長年の朝鮮と対馬との間での功績と労苦を評価して、今回は穏便に済ますべきであるとする陶山訥庵が対立した。十数日に渡る激しい応酬が藩内で繰り広げられた後、藩主の採決は陶山訥庵の考えを支持するものであった。いったんは朝鮮側の通詞たちの犯罪は犯罪としても、彼らの弱みを掴んで置けば、それ以後の日朝外交が対馬側に有利に展開できるとの打算が働いたためであった。

 事実、この潜商事件の最中に、幕府からの朝鮮薬材調査命令が届いたとき、かれら朝鮮通詞たちは対馬藩からの暗黙の圧力を受けて、精力的に協力しなくてはならなかった。この事件では、越常右衛門は陶山訥庵側に立ち、むしろ藩命にそって朝鮮の日本語通詞たちと協力して朝鮮薬材調査の中心人物となって活躍したのであった。しかし芳洲は激しく反論し、その意見が聞き入れられないと知るや、犯人の朝鮮人通詞たちが帰国した六月十八日から十日たった、同月二十八日に「朝鮮方佐役の御役御免願」を藩に提出し、いわば辞表をたたきつけたのであった。同年七月二十六日に芳洲の辞任は許可されたが、それまで芳洲は越常右衛門とともに、朝鮮薬材調査を共に実施し、時の将軍徳川吉宗に提出すべき報告書を作成中であった。二人の関係は実に仲良く、また作業のパートナーとして最高の人材であった。しかし潜商事件発覚を境として、二人は袂を分かつこととなった。二人で朝鮮通詞を訪問し、有用植物調査をしていたのにもかかわらず、その関係は完全に断ち切られてしまった。幕府からの厳命がある以上、調査報告書を完成しなくてはならない越常右衛門は、事件後は芳洲の協力も得られないままで、一人で作業を進めなくてはならなかった(この事件の全貌は、越常右衛門の著述「崔李潜商事」『分類紀事大綱』付録第二所収、国立国会図書館所蔵による。--田代和生、1994年参照)。

  こうした感情のシコリを持つ越常右衛門であっただけに、享保十七年に芳洲の推薦で韓語司の惣下知に任命されたが、享保十二年から五年経過したとはいえ芳洲との確執は完全に取り除かれてはいなかったと思われる。それゆえに、任命されたその日の辞任劇となったのではないだろうか。その結果、越常右衛門の固辞によって空いたポストに、芳洲自身が就任しなくてはならなず、初代惣下知を拝命することとなったと推定される。第二代の惣下知は越常右衛門(享保十四年三月六日就任)、第三代の惣下知は松本源右衛門(享保十五年八月五日就任)であった(『類聚書抜』所収「通詞御宛行増減一」、長崎県立対馬歴史民俗資料館所蔵「宗家文書」)。越常右衛門が惣下知に就任した時、雨森芳洲は「裁判役」として釜山倭館に滞在中であり、芳洲不在中の惣下知拝命であった。ちなみに芳洲の釜山滞在は、享保十四年三月二十二日に渡海し、享保十五年八月まで続いた。芳洲帰国直前に、越常右衛門は第二代惣下知を辞任している。これこそ越常右衛門の真意であった。

 

(12)『類聚書抜』(長崎県立対馬歴史資料館所蔵)によると、仁位文吉の父親は朝鮮語通詞の仁位善六。その善六が「朝鮮御買米未収」問題で享保2年(1717)に釜山倭館滞在中に急死したために、「老母と妻子」が後に残されたが、仲間だった通詞たちの嘆願書が藩に届けられ、文吉は異例にも「養育米弐人扶持」を支給されることとなった。それは朝鮮語通詞であった父善吉の後継者文吉に対する、養育費兼学費でもあった。

 

[資料91]「    享保二年十一月五日      仁位善六倅  文吉

          右父善六儀、朝鮮御買米未収為取立役被差渡置候処、□□□滞留難儀     仕候付、交替之願申□□□□□□□□□□□、善六儀於和館不慮ニ相     果候。依之善六老母并妻子共に至迄甚難儀仕候。~~~右の功をは倅     文吉御取立下候ハゝ、通詞共差寄朝鮮言葉をも稽古為仕、幾々御用ニ     相立候様ニ仕度旨通詞願出候」(『類聚書抜』巻九、「通詞宛行増減一」享保五年十一月五日の条)

 

翌享保6年(1722)9月になると、藩は文吉に、

 

[資料92]「       享保六年九月五日    

                白米三人扶持

                黄連拾五斤(毎年御免)

         反物拾五斤(但黄連代)    通詞稽古  仁位文吉

                弐人扶持(但養育扶持を直ニ留守ヘ被成下)

                右は養育扶持被成下、御国ニ而稽古仕候所、朝鮮言葉得方ニ有        之、諺文等も如形覚候付、地用船へ差渡相応の御扶助被成下、        稽古被仰付候ハ々、往々御用ニ可相立旨、通詞小田四郎兵衛・        小松原権右衛門より以書付申出候。」(『類聚書抜』第九、        「通詞宛行増減一」享保六年九月五日の条)

 

を支給した。こうした厚遇は、彼の不運な運命を救済するためでもあっただろうが、それ以上に、

 

[資料93]「稽古仕候所、朝鮮言葉得方ニ有之、諺文等も如形覚候付、朝鮮へ       差渡後、相応之御扶助被成下小田三清小松原権右衛門より以書付       申出候」(『類聚書抜』第九、「通詞宛行増減一」享保五年十一月五日の条)

 

とあるように、文吉の語学的才能は群を抜くものであったらしい。

 

13  なお、滋賀県芳洲書院所蔵写本『宗家事件並朝鮮向尋返答書』には、

 

[資料39]「朝鮮語通弁役ハ、雨森芳洲元禄年八部を著述し、対馬町人を仕立      朝鮮江差渡候事、従是通弁役ハ、一体ニ雨森家より代々差配致候事に候」

 

とあり、具体的な書名は明示されていないものの、芳洲が著述した朝鮮語通詞養成のための朝鮮語教材には「八部」あったと伝えられていたようである(『芳洲履歴』参照のこと)。

 

(14)これは朝鮮語初学者に対する教訓を伝える場所での体験談であるが、芳州三十五歳の時(元禄十五年=1702)、初めて釜山倭館に渡海したが、朝鮮語を全く習得していなかったので、「御用可難弁候と心付候付」であったので、対馬に帰島したのち、すぐさまに朝鮮語通詞から入門朝鮮語(「下稽古」)を学び始めたという。当時の藩内での有名な朝鮮語通詞は、加勢伝五郎か小田四郎兵衛であったので、彼らあたりから教えを受けたに違いない。しかしながら後述するように、もし加瀬伝五郎に教えを乞うたならば、彼は流暢に朝鮮語を操るものの、ハングルを解さない大通詞であったので、芳洲が教わった入門朝鮮語がいかなるカリキュラムであったか知りたいところであるが、皆目検討つかないままである。

 

(15)この資料不足を根本的に解決する方法は、現在は韓国国史編纂委員会が所蔵する宗家文書の中の『通詞被召仕方』を検索することである。後考を待ちたい。

 

 

 

 

第二章 厳原語学所と釜山草梁語学所の沿革をめぐって

            ――明治初期の朝鮮語教育を中心として――

 

 

一 はじめに

 

 本の目的は、幕末・明治初期の大混乱の中で、長崎県対馬において、いかに朝鮮語教育が行われたかを考察することにあるが、具体的にはその時期の、特に明治初めに開設された厳原語学所と釜山草梁語学所の、二つの朝鮮語教育機関の設立と廃止をめぐる経緯を朝鮮語教育の観点から分析しながら、その実相を解明することにある。言い換えると、維新政府の新政策である「廃藩置県」が断行され、日朝両国の中間に位置し、その外交交渉役を担当してきた玄界灘の対馬藩の廃藩も決定したが、それとともに藩の朝鮮語教育機関「韓語司」の行く末がいかなる運命を辿ることになったかを知ることにある。現在、筆者は江戸時代の朝鮮語教育史の全貌解明に着手しているが(註1)、その時代、1727年に対馬に開設された唯一の朝鮮語通詞養成機関の「韓語司」の命脈がいかに継承され、いかに断絶し、いかに変化を遂げたかを論ずることは、江戸時代における朝鮮語教育の終結部を知ることになると信ずるからである。

 さて、江戸時代の対馬藩と言えば、儒者雨森芳洲の提言に基づいて、朝鮮語通詞を養成するための、上記した「韓語司」を設置し、朝鮮国との対外交渉を担当する立場上からも、積極的に朝鮮語教育に努めた。その「韓語司」の設立経緯と運営、および朝鮮語教育の内容に関しては、すでに第一章で考察を加えたので再述はさけるが、明治維新と共に対馬藩が存亡の危機に立つや、当然にその「韓語司」の命運も尽きることとなった。なによりもその学校運営のための財政的基盤を完全に失ったからに他ならないが、それ以上にそれまで対馬藩に課せられていた朝鮮国との対外交渉の専管が解かれ、もはや自他共に認めていた対馬人だけの朝鮮語運用能力の独占的専有は崩れ去ったからである。しかも「対馬人による、対馬人のための」朝鮮語教育は、「韓語司」開設の提案者である雨森芳洲在世時ならば、彼の外国語教育理念に基づいて、学校教育制度的にはほとんど理想的なプランが構想され、しかもそれが実施されたものの、肝心な外国語教育の内容面では、西洋化に導入され始めた外国語教育理論に照らし合わせるとき、かなり見劣りがし、教育効果の低いものであった(註2)。そこで明治政府は「征韓論」などの高まりにつれ、また朝鮮半島や中国大陸などへの対外進出の機会を慎重に狙っていただけに、朝鮮語通詞養成の必要性を痛感しており、新しい方策として従来の「韓語司」での教育を廃止し、まず長崎県厳原に「厳原韓語学所」が、その翌年に釜山草梁倭館に「草梁館韓語学所」が開設され、新しい制度の元での朝鮮語通詞養成策が講じられることとなった。

 ところで、この二つの外国語学校に関する研究は、三人によって行われているのみである。その内の二人は第2次世界大戦以前の小倉進平と大曲美太郎であったし(小倉進平、1934年。大曲美太郎、1935年・1936年)、もう一人は具良根(具良根、1976年)であった。この中で小倉や大曲の研究の紹介はすでに第一章で行ったので繰り返さないこととするが、それでも小倉と大曲によって唯一「厳原韓語学所」にせよ、「草梁館韓語学所」にせよ、幕末明治の初めという激流する歴史の谷間で埋没した、二つの外国語学校の存在を学界に教示するばかりでなく、当時まだ語り伝えていた生き証人からの聞き書きをも書き残してくれた功績は特筆に値しよう。

  また具良根にしても、たとえ小倉進平や大曲美太郎の先行論文があったとはいえ、「明治維新以後、日本政府の新しい政策(筆者註・『征韓論』)の下で朝鮮語学習と留学生の問題」を取り扱った具の見識の高さに敬意を表しなくてはならない。もっとも具の主な関心は、「厳原韓語学所」や「草梁館韓語学所」の経済的運営面にあり、予算額や俸給などの分析に力点を置くものとなっている。

  本稿での我々の関心は朝鮮語教育にあり、具のものに比して大きく異なっているばかりでなく、今なお解明すべき余地が多く残されていると信じている。博雅の士には、常識に属する事柄でもあろうが、以下では主として釜山市民図書館に架蔵される「旧釜山居留民団関係資料」を活用しながら、論を展開していくこととしたい(註3)。

 

 

二 厳原朝鮮語学所の開設

 

  ところで明治政府の樹立と廃藩置県の実施により、江戸時代から受け継がれてきた朝鮮語教育の命脈も重大な危機に陥った。なによりも朝鮮語通詞たちの収入の道が途絶え、彼らが路頭に迷う事態に陥ったからである。そもそも、対馬藩の朝鮮語通詞たちは

 

[資料1]「     朝鮮通詞ニ附省議

              韓語通弁ノ儀ハ元厳原市人ノ中或ハ世襲ノモノ或ハ一時其道ニ執       心ノ幼道輩ヲ支給シ置成年熟業ノ上夫々役名ヲ付シ韓地及大坂        長崎等ニ在勤為致候テ苗字帯刀等差許シ有之候得共、畢竟市籍ノ       モノニテ近年ニ至りテハ別テ貿利中ヨリ給シ来候儀ニ候得ハ」       (『朝鮮事務書』第13巻50丁)

 

に明記されているように、たとえ「苗字帯刀」など武士と同等な待遇を受けていたとしても、所詮は「市籍」(町人)に属する者たちであり、それゆえに、

 

[資料2]「先般旧対馬藩士族卒等不残佐賀県ニ附シ候節モ通弁ノ儀ハ依然ノ儘      ニ有之候」(『朝鮮事務書』第13巻50丁)

 

とならざるをえず、武士とは決定的に差別された。したがって、

 

[資料3]「今番歳条船公私貿易等宗氏ニ関シ候分廃除ニ付テハ通弁一同ノモノ      モ随テ廃録相成候事至当ノ儀ニテ」(『朝鮮事務書』第13巻50      丁)

 

の事態に立ち至った。その最大の原因は、対馬藩という一つの僻遠の地に位置する小藩に「家役」として委任していた外交交渉の場が、対外的に日本国を代表する官庁である外務省の設立とともに、その官庁に全面的に権限が委譲された結果、対馬藩の果たす役割が無くなったことに基因するといって良い(田保橋潔、1940年。荒野泰典、1988年、245~292頁。木村直也、1993年、26~37頁ほか)。

 だからといって今更、朝鮮語通詞だけを佐賀県の士族に取り立てるわけにいかず、また彼らに対してのみ特別に外務省からの給与を支給するわけにもいかないものの、外務省当局も、

 

[資料4]「朝鮮交際ノ儀ハ追々御下手可相成御軌模ニモ有之韓語熟練ノモノモ      整備無之テハ時ニ臨ミ差支相生シ可申ハ顕然」(『朝鮮事務書』第      13巻50丁)

 

との認識を示していた。有能な朝鮮語通詞の確保とその補給策の立案は、隣国の朝鮮への侵略を準備しつつあった政府にとって、きわめて切実で緊急な問題であった。

 確かに政府は有能な通詞と認定した「広瀬直行・浦瀬好裕」などのごく一部の通詞を、秘密裏に士族に取り立てて、「貿易後庁」より報酬を支給していたのだが、それに対して、藩政下で朝鮮語通詞として生計を立てていた残りの30余名のものたちには、政府はいかなる手だても講じておらず、また講ずる意思もなかった。その証拠に、かれら30数名の通詞たちの「給禄合計一カ年米ニテ二百石余金ニテ凡八百円ノ些々タル儀に候得旧ニ綺リ候訳ニハ相成兼」(『朝鮮事務書』第13巻51丁ウ~52丁オ)とあるように「些々」の財政負担ではあっても、彼ら全員を救済し、通詞職に再雇用したわけではなかった。なによりもその理由は、

 

[資料5]「殊ニ固陋遊惰ニシテ然モ不文無識一篇ノ公翰も綴りカ子候モノ共       ニ、弱冠用ニ供シ兼候モノモ有之候間」(『朝鮮事務書』第13       巻52丁オ)

 

であったからにほかならない。文言をストレートに理解すると、遊び人(「遊惰」)の上に、一通の公文書も作成出来ない通詞が存在したとはなるが、むしろそうした表面に提示された理由よりも、直接的には「旧ニ綺リ候訳ニハ相成兼」(『朝鮮事務書』第13巻50丁)という政府の本音を読み取るべきであろう。

   そこで明治5年10月25日に、明治政府は対馬の厳原の光清寺に朝鮮語学所を開設することにした。朝鮮通詞養成の必要性を「朝鮮交際ノ儀ハ追々御下手可相成御軌模ニモ有之、韓語熟読ノモノモ整備無之時ニ臨ミ差支相生シ可申ハ顕然然ルニ」と、「其積年ノ固陋を一洗セシメ邦内ノ形景外交ノ体裁ヲモ熟視為致置候ハハ、後来御開手ノ節一層御用弁ニモ相立可申両全ノ儀ト存候間」(『朝鮮事務書』第13巻51丁)に求め、その建前の上に、所轄官庁である朝鮮事務課は「厳原語学所」の設置に踏み切り、次のように上申した。     

 

[資料6]「先小官等(筆者註:朝鮮事務課)彼地(筆者註:対馬)滞在中視聴セシモノノ内別紙名前ノ分ハ(筆者註:本文書から脱落)相応ノ御用ニモ相立可申存候間、凡其能不能ヲ分チ出仕被仰付当分ノ内ハ、写字方或ハ小頭或ハ其番詰等ニ相用ヒ置傍ラ本省漢語学校中ニ付シ、小局ヲ設ケ学則ヲ正シ、仮リニ韓語学モ御取開キ置相成候。

              申(明治五年、1872)七月    朝鮮事務課   

                  (『朝鮮事務書』第13巻52丁)

 

要するに、有能な朝鮮語通詞の確保と養成の必要性を痛感する外務省は、かれら通詞が士族ではないだけに、彼らのために「韓語学所」という財政的援助の「受け皿」を創出したのであった。換言すれば、廃藩置県の動乱期にあってその経済的基盤を失った朝鮮語通詞たちへの失業対策でもあったし(「旧通詞ノ壮年輩ヘ学資ヲ予ヘ勤学ノ余間点読ヲ補遺サセ候モノトモ」--『朝鮮事務書』第21巻15丁)、また稽古通詞に属する若者たちの不満を解消するためでもあったし、かれら通詞の運用能力の上達を目的としてもいたが、それが可能であったのは救済対象者がわずかに30数名であり、「別段の御入費ニモ関係無之」(『朝鮮事務書』第13巻52丁)であったからである。

  この許認可が下りる前には、対馬からの熱烈な陳情があったことは想像に難くない。朝鮮との権益確保が、中世以来、対馬の生命線であっただけに、人々の願いは強いものがあった。しかも社会秩序が崩壊した激動期にあって、だれしも生活が豊かではなく、定職を求める人々の願いは、対馬にあって、いわば「お家芸」であった朝鮮語運用能力の活用に向けられたのも、極めて当然であった。

 

 

三  厳原韓語学所の運営

 

では、厳原韓語学所の運営に関する項目を、入学規定・クラス編成・校則・時間割・評価法等に分けて考察することとしたい。

 

入学規定

  明治5年に開設された厳原韓語学所に入学した生徒は、外務大録森山茂より花房外務大少丞宛の書信にあるように、

 

[資料7]「当所語学所ノ儀ハ先月廿五日発開候処、士族ノ子弟等入校ヲ競                ヒ、今日ニテハ生徒数三十四名。其内旧前稽古通詞ノモノ五名                丈等級ニ宛学資差遣シ日々励行イタシ居候。新入ノ生徒中ニハ                可也ノ人柄モ有之哉ニ相見ヘ今日ノ所ニテハ、余程果敢取申候                校中規定御差廻シ申候。右取建候ニ付取繕方入費向等、イマタ                相纏リカ子候間、後便差送リ可申候」(『朝鮮事務書』第15巻34丁)

 

の三十四名であった。その内訳は、対馬藩時代に稽古通詞であった者5名に加えて、初学者が29名であった。対馬藩時代ならば想像もできないが、この通詞養成コースには、士族の子弟も「競って」入学し、朝鮮語を学習し始めたという。このことは、見方を変えれば、藩政下では、

 

[資料8]「通事は世襲であって、其の家柄は対州に五十戸位存した」(小倉進平、1934年、73頁)

 

の、硬直化した朝鮮語通詞の育成策となっていたが、その枠が取り除かれることで、もはやだれしもが朝鮮語を学べる時が到来したと言えなくもない。いわば通訳という職を軽蔑し、見下していた旧武士たちは、時代の変化と共に、その通詞職にさえ職を求めて奔走するのであった。

 

クラス編成

 

 しかしながら明治政府の方針は、単に稽古通詞や若者たちへの失業対策ではなく、むしろ学費支給金を給付する以上、その学校に猛烈な競争原理を導入した。厳原朝鮮語学所の構成は、教師である

       「督長    教授・助教・少助教」

の三人に、学生は、定員内の

           「上等       一級・二級

             中等        一級・二級

            下級        一級・二級・初級・等外一級

             監佐                                   

の四階級に分かれるのと、定員外の、試験の点数別の等級である

           「一級        十五点

              二級        十四点

              三級        十三点

              四級        十二点

              五級        十一点

              六級         十点

              七級         九点

              無級          八点以下    」(『朝鮮事務書』第15巻68丁)

で構成された。このうち「定員内」とは、すでに「韓語司」などでの語学的トレーニングを開始していたり、稽古通詞としての実績を残していた者たちであり、一方「定員外」とは初学者である。これらのランク別は単に学習者の学習指導に役立てるためのならず、成績ランク別の教室内の座席順や、さらには一ヶ月の学資にも反映されたために、学生は自然と必至になって学習成績の向上に努めた。

  実施された試験問題そのものが残っていないので、その成績概要を知ることは不可能であるが、明治六年度の学費支給者リストで確認すると、定員内では、

 

[資料9]「    上等    一級    欠員

              上等    二級    川本政太郎

              中等    一級    一名

              中等    二級    梶山嘉一

              下等  一級    中村庄次郎

              下等    二級    川本準作

              下等    初級    吉松豊作

                              長村房次郎

                              浦瀬忠太郎   

                等外            藤井利助

              (『朝鮮事務書』第15巻69丁ウ~70丁オ)

 

であったし、それに対し「定員外生徒」では、1級は該当者無し、2級1名、3級2名、4級1名、5級3名、6級6名、初級1名、無級13名であった。

 

校則

 

  この学校を運営するための校則は、次の通りである。

 

[資料10]「    規定

       一、毎日朝八字(時)入学、午後三字(時)退散、但し一六休          暇タルヘシ。」

 

とあるように、8時登校、3時の下校の7時間の学校生活であった。その学校の休日は、「1と6」の月6日間であった。当直制度があり、

       「一、生徒中一名順次ヲ以テ当直ヲ勤ムヘシ。

        一、当直ハ朝七字入学、席ヲ清メ、慵ヲ開キ茗水爐火ノ用ヲ便          スヘシ。学中退散ノ後亦掃菰閉窓爐火ヲ治メテ而後、退去          スヘシ。」

と、当直の仕事内容がマニュアル化されてあった。

       「一、毎日十ノ日自朝九字(時)乃至十字(時)学術ヲ験シ、勤          怠ヲ正シ、以テ生徒ノ等級進退ノ考ニ備フヘシ。」

の規定は、月に三度実施される定期試験(「学術」)に関してである。その試験の最大の目的は進級・クラス替えに活用するための評価資料となったようであるが、もう一つの目的として「勤怠ヲ正シ」とあることから推量して、試験の成績不良者に対する個人指導の参考資料にも活用したと考えて良いだろう。成績の低下は、即出席率の悪化に直結しないものの、概してその方向に生徒は進みがちである。

        「一、級ヲ分ツニ三等ヲ以テス。不熟初学ノ徒ハ等外ニ班シ、練          達精業ノ者ハ抜テ助教又ハ小助教ニ任スヘシ。」

の規定は、「テーチング・アシスタント」制の導入を教えるものである。

        「一、生徒ノ勤ムル所専心慎勉其業ヲ修ムルヲ以テ要とす。怠傲          放逸ヲ忘レ、業ヲ忽ニスル者ハ速ニ之ヲ退くへシ。

         一、生徒厳ニ酒ヲ禁すへし。若シ之ヲ確守スル能ハサル者亦之          ヲ退くへシ。」

の2条は、生徒の心得である。

        「一、病痾又ハ事故アリテ学ニ入ル能ハサルハ即其趣ヲ筆シ以テ          当直ニ告へシ。若シ事ニ托シ、不勤ノ徒ハ学中ニ止メテ十          日ノ宿直ニ当ヘシ。」

は、病気・事故などによる欠席届けの提出を義務づけており、それを怠ったときの罰則規定が続いている。最後の、

        「一、学中日渉雑務等生徒中其任ニ耐へキ者ヲ擇シ之ヲ弁理セシ          メ教授之ヲ総掌スヘシ。

         一、教授及生徒ハ朝鮮漂民ノ門情并通弁其他送還等ノ事ニ至ま         て生徒の進級進退の考に備ふべし。」(以上の条項は『朝鮮        事務書』第15巻62丁収録)

の中で注目すべきは、日朝両国の漂流・漂着民の送還に際して、対馬での通訳の任を適宜努めることが要求されていた。以上の様々に分かれた10条の校則集は、あたかも現在の小中学校における校則の原型とも言えるほどに、あれこれと厳格に生徒管理をしながら、教育的効果の向上を目指している。

 また学校の運営には稽古生の参加も求め、

 

[資料11]「 一、全員中品行端粛且語学にも上進せるもの二名を入札を以て選         挙し、之をして校中の監佐たらしむべし。」(『朝鮮事務書』          第15巻64丁)

 

と定め、かっての級長に該当する「監査」を選抜しながら、各級でのリーダー育成の実現を予定したようである(註)。

 

授業担当者

 

 この厳原語学所の初代「教授」には、対馬藩の通詞であった広瀬直行を採用した(『朝鮮事務書』第15巻89丁)。しかしながら後述するように、この学校に騒擾がおきたために、広瀬は教授職を更迭された。その後、住永友輔(当時50歳)を「助教」に採用し指導に当たらせたが、その翌月の10月1日に住永を罷免し、荒川金助を「助教」に任命している(『朝鮮事務書』第16巻25丁及び同第17巻5丁)。

 

時間割編成

 

さて学校の時間割編成は、

[資料12]「   自第八字至第十二字  語学     句読

         自第十二字至第一字        休憩

         自第一字至第三字   編文        会話       

             (『朝鮮事務書』第15巻63丁-A))

の午前・午後とに分かれていた。そのうちで午前はもっぱら「語学」にあてられ、これは今日の「文法」に該当する。「句読」は文の講読の時間であった。午後は、「編文」つまり作文の時間から始まり、その後「会話」の時間へと移った(註*)。

なおこの教育内容に関しては、遠からぬ将来に別稿で、具体的な教材名などを列挙しながら、詳細に論述することを約束しておきたい。

 

評価法

 

  各人の評価方法に関しては、次のように定まっていた。

 

[資料13]「一、三等及員外ノ階級ヲ上下スルハ五ト十トノ日即チ一月六回ノ         試験ヲ立テ優劣長短ヲ審判シ以テ月次進退ヲ表スヘシ

       一,右試験法十ノ日ハ即チ単語ノ問題ニ直答セシムルコト。三次         五ノ日ハ即チ其問題ヲ點写シ答及セシムルコト。二次併テ一         月六回十五問題ヲ以テ定則トス。」(『朝鮮事務書』第1          5巻65丁-B~66丁-A)

 

これによると、一ヶ月に六回(五日・十日・十五日・二十日・二十五日・三十日)の試験を実施したとある。そのうち毎月の十日・二十日・三十日は、朝の9時から10時まで「単語試験」を行った(「毎日十ノ日自朝九字(時)乃至十字(時)学術ヲ験シ」)。毎月二十五日の出題の「其問題ヲ點写シ答及」はその内容を知り得ないが、あるいは誤答を正し、正答を繰り返し書き写させることであったのかもしれない。そして一月六回の試験では、総出題数が15問であった。この毎月ごとの成績結果は「月次進退表」に記入して、稽古人たちの学習指導の参考資料としたようである(註4)。なおこの成績評価の活用法としては、例えば明治時代の中学や高等学校がそうであったように、席順や名簿順などの学校内のすべては成績順で決定されていた。仮に試験の成績が同点であった場合には、

          「同級ノ席順ハ其習字ノ長短ヲ督シ以テ班列ヲ定ムヘシ」(『朝鮮事務書』    第13巻66丁)

との規定されており、また試験規定にしても、今日のように再試験などは一切認めておらず、次のように

      「試験ニ欠席スルモノ其事故ヲ問ハス即チ答及ノ点数ニ照準シ以テ進退ヲ    定ム」(『朝鮮事務書』第13巻66丁)

こととなっていた(註)。

 

 

 四  厳原韓語学所の廃止

 

  明治5年段階での政府の基本的人事採用計画案では、当面の日朝交渉に障害が発生しない最低限の朝鮮語通詞の必要数を、

      1,大通詞本務同格共合人数五人

      2,同格代官所直対六人

      3,通詞四人

      4,稽古通詞四人

      5,五人通詞十人

      6,詞稽古免札扶持與十人

の、合計39名と見込んでいた(朝鮮事務書』第13巻92丁オ~94丁オ)。

  この策定案にそって、藩時代の「韓語司」を廃止し、あらたに厳原に「韓語学所」の開設に踏切った。、そこに希望した34名の入学を許可し、通詞養成に着手したものの、明治政府の新しい方針に迎合できない、旧体制の対馬人たちの不満は高まり、

 

[資料14]「厳原韓語学所モ先合居候ヨシ等中ノ内二人実ニ悔悟歎願ノモ         ノモ有之趣只今ノ処一応直諭イタシタク候ハハ大ニ相静リ可申         願ノヨシ荒川ヨリ申出且両名以前ノ如ク学資賜度趣モ申出候ヘ         トモ未タ日数モ無之事故今暫ク都合見合相タメシ再応申越候様         返答イタシ置候是モ六月渡厳ノ節得ト検調イタシ且其時分ニハ         森山殿建議ノ可否モ御決定有之候ハント存候

                             広津弘信

         花房外務大丞殿

           学課                                             

                (明治六年四月二十五日、『朝鮮事務書』第20巻44丁)

 

との、学生と学校管理者側との紛争が生じた。この釜山倭館館守・広津の外務省への上申書にある「二人」とは、中村庄次郎と川本準作の両名であるが、直接的な紛争の原因は

 

[資料15]「本月同人状中ニ寄留生徒神妙勉励ノ処、多分ハ貧困差迫リ候者ニ       テ苦学ノ態不忍傍観候間不弁御時体儀恐縮ノ至ニ」(『朝鮮事務       書』第20巻65丁)

 

とあるように、幕藩体制崩壊による極貧な経済状態に求められよう。しかも藩政下での生ぬるい「世襲」体制の水にどっぷりと身を漬けてしまったならば、前章で略述したような文字通り「弱肉強食」の生存をかけた競争原理の導入への適合は困難であったかもしれない。その二人の反発は、一言でいえば、藩政時代を懐かしみ、明治政府の過激な政策転換に対する反発にほかならなかったと言っても、許される想定であるに違いない。その想定の正しいことは、

 

[資料16]  「右狡論一時相静リ候ヘトモ土風ノ頑堅偏論雑出勤モスレハ」               (『朝鮮事務書』第21巻15丁)

 

とある、明治政府の記録にある「土風ノ頑堅偏論」に如実に物語られていよう。この「学資殖足」をめぐる紛擾は大規模に拡大し、退学者7名の騒ぎに発展した。したがって明治政府の中からも、かれら対馬人に対する嫌気が醸成されてきたようで、

 

[資料17] 「(厳原韓語学所)生徒等紛々私論ヲ張リ漸説得候ヘトモ猶将来取       続方無覚束候間」(『朝鮮事務書』第22巻68丁)

 

との報告書が提出されてもいる。つまり学校内での紛糾の続く対馬から離れ、釜山という新天地での韓語学校経営が得策であるとの認識を示すものである。

  それとともに、明治政府側にも不満が募ってきた。明治六年四月二十八日の、広津弘信から花房外務大丞宛の書簡に、よくうかがうことが出来る。

 

[資料18]「朝鮮語学ノ儀ハ、当分為差御用ニモ相立サル様ニ候ヘトモ、同国       御交際ノ儀、何レトモ此儘被召置候儀トモ不被存就テハ、右語学       ノ脈絡断絶ニ不及様、御開校ノ処、森山殿モ帰京相成候上ハ第一       同所ニテハ兎角惰弱ニ流レ候ノミナラス、右語学ノ者是迄ト違ヒ       行末ハ韓国何方ヘ遊歴シ深ク其境ニ入ルモ計リ難ク候ヘハ何卒唯       今ノ内ヨリ生徒ノ内拾名撰ビ当館江引取、書籍上習読ノ余暇不断       韓人へ親接実馴為致五三日自然ニ近似スルニ非レハマサカノ実用       ニ立カタク同国ノ語学ハ他ノ益アルニアラス、唯其語ヲ通シ、其       意ヲ達スルヲ以テ第一トスルハ訳ニ候ヘハ、~~(略)~~」

      (『朝鮮事務書』第20巻66丁) 

 

要するに、いつまでも対馬人に朝鮮外交を一任しておけないと言うイライラが蓄積されたのと、新時代に適合した朝鮮語通詞養成の必要性が感じられたからに他ならない。

ここでは仔細に渡ってはふれないが、明治時代のはじめの日朝関係は、日本側の外交政策の変化、つまり明治維新政府による対馬藩の「家役」(日朝外交の専従)の撤収にともなう外交の窓口の一本化が強行に進められた。旧幕府時代の慣行・権益の没収にともない、対馬に限らず、長崎・薩摩・松前の、幕藩体制下でのいわゆる「四つの口」の閉鎖と、新外交ルートの開放へと重大な政策変換が行われた時期でもあった。折りもおり、朝鮮側にしても、幼くして王位に就いた高宗(1863~1907)の代理として、強硬な「鎖国攘夷」政策の持ち主である大院君李是応が政治の実権を掌握していた。1866年のフランス艦隊の江華島攻撃(丙寅洋擾)、同年のアメリカ商船シャーマン号撃沈事件、1871年のアメリカ艦隊の侵攻事件(辛未洋擾)、1873年(明治六年)の大院君失脚と「鎖国攘夷」派の没落など、朝鮮側にしても目まぐるしい政治的激動期を迎えていた。

 それゆえに、太平の世の中で惰眠を貪ってきた対馬藩の朝鮮語通詞、それも世襲制の下で確たる学習意欲もなく朝鮮語を学び、したがって朝鮮語運用能力にも欠け、朝鮮事情にも暗く、また釜山以外の地を知らず朝鮮半島でいかなる事態が勃発しているかの情報収集能力にも劣る、彼らに対する維新政府の期待感などは、ほぼ皆無に近かったに違いない。その上に幕藩体制での日朝外交とは、朝鮮通信使来日交渉・日朝貿易交渉・対馬藩への交作米の早期支給交渉などであったのに対し、西欧列強との競争意識が働く国際情勢を受けて、近代日本の国権拡張の場として朝鮮半島を位置づけていただけに、「征韓論」に傾きつつある世論を背景にした日朝外交交渉担当者としては、もはや「十万石」の小藩である対馬藩主の能力を遥かに超えていた。若き藩主(当時24歳)は、日朝外交が暗礁に乗り上げるたびに、藩政機構の改革にのみ奔走し、朝鮮外交に専念すると言うよりも、むしろ藩財政の困窮状態脱却をはかり、また日朝外交にかかる膨大な経費負担を憂いた。その上に朝鮮政府との折衝よりも、その財源確保と日本政府からの補助金要求に熱心であるだけであり、まったく対馬藩の無能力さを露見するだけであった。

 

[資料19]「朝鮮国交際之儀、旧幕府之節ハ宗家え委任いたし置、荏苒二百年       を過、終ニ宗家私交之体ニ変し、交際之道分明ならす、相互ニ尊       大持重を構、両国之情態交通せす、貿易筋ニいたり候而は、彼国       固より物産寡少之趣ニハ候えとも、宗家ニて壟断独占之体ニて私       利を納め、不体裁不少」(『大日本外交文書』2巻488頁)

 

という「朝鮮国一件伺書」(1869年6月作成)の公文書に、その維新政府の焦燥感がよく現れている。

  しかも肝心に釜山倭館にしても、もはや朝鮮語通詞ばかりでなく、英語通訳が派遣・常駐する時代へと激変していた(『大日本外交文書』第四巻、172・173・175・176・180頁)。

  その上で、日本国内の学校はすべて文部省の管轄下にはいることとなり、その指導監督下におかれることとなり、

 

[資料20]「本省諸学校ノ義惣テ文部省ヘ引渡シ候ニ附テハ今度厳原表韓語学       所を廃シ更ニ惣草梁公館ヘ稽古通詞備置候」(『朝鮮事務書』第       22巻93丁)

 

の決定を見た。そこで外務省は朝鮮語通詞の重要性を認めていたので、海外の公館への韓語学所移転を図ることで、文部省ではなく自分たち外務省の管轄下に置くことを願っていたようである。

  いずれにせよ対馬厳原語学所の存立は、稽古生たちの学校運営に対する抗議行動の高まりを機会にして、維新政府はもはや対馬での朝鮮語教育が終焉したと判断し、その閉鎖を告げた。朝鮮との外交交渉・貿易などのすべての権益が、幕府時代からの延長線上でしか考えられなかった対馬人たちにとって、その決定は重大であった。たとえ通詞養成のための学校運営という、軽微な政策決定にせよ、対馬人の生命線を立つに等しい処置として考えた。そこで彼ら対馬人の実力行使は過激をきわめ、一人たりとも釜山倭館に渡航させないように、対馬厳原港に停泊する船に乗船している、対馬人以外の者に威嚇射撃を行うほどであったという。

 

 

  釜山草梁倭館の語学所の設立と廃止

 

  釜山草梁倭館での語学所の開設は、明治6年6月29日付の「第686号」文書によって、明治政府の中での議論が続いたが(『朝鮮事務書』第22巻29丁)、最終的には同年7月15日付けの上野外務少輔から対馬厳原にいる広津弘信に伝達された。

 しかしながら厳原朝鮮語学所の廃止理由は明白にされないまま、明治6年8月2日に稽古生たちに口頭で申し渡され、同8月10日付けの広津より花房外務大丞への上申書で正式決定された。

 

[資料21]「外務少輔殿御指令ニ遵ヒ、去ル二日、語学所相廃シ、即日佳永        友輔御雇差免シ、同四日別紙名前ノ者十名稽古通詞トシテ、渡        韓内意申達シ候」(『朝鮮事務書』第23巻27丁~29丁)

  その十名の稽古通詞の姓名は、次の通りである(註3)。

       浅山顕蔵  当年24才三ヶ月

       吉副喜八郎  当年28才十ヶ月

       阿比留祐作  当年19才

       吉村平八郎  当年22才六ヶ月

       大石又三郎  当年20才十ヶ月

       武田甚太郎  当年19才六ヶ月

       津江直助    当年17才

       武田邦太郎  当年20才十ヶ月

       黒岩清美    当年20才九ヶ月

       中村庄次郎  当年18才

 

  この10名たちの稽古通詞を対象にして、釜山倭館の中の簽官屋に語学所が開設された(註6)。明治6年10月22日のことであった。この時に、同時に釜山草梁語学所の所属が外務省から文部省に移管された。つまり文部省に所属する最初の国立外国語学校が誕生したのである。

 釜山草梁語学所の規則は、次の通りであるが、この草梁語学所に関する記録は現存しておらず、唯一大曲美太郎の聞き取り調査が残るだけである。それゆえに以下で紹介する語学所に関する記事は、すべてこの大曲の報告(大曲美太郎、1936年)に依拠していることをあらかじめ断っておきたい。

時間割編成は、

 

[資料 22]「    草梁館語学所規則即等級人名書

                      学課

              復読    自午前九時至第十時

              編文    自午前十時至第十一時

       会話  自午前十一時至第十二時

            但自午前十二時後三十分之間休憩

              新習  自第十二時三十分至第三時             

 

であった。この規則通りに学校運営が行われたかどうか明確ではないが、学生わずか十名の学校である故に、厳格な規則にもかかわらずかなり弾力的な運営が想定される。復読は「暗誦と講読」、編文は作文、新習は「新しい学習項目」に該当する。これらの学習が毎日飽きることなく続けられた。

  語学所での教師は、対馬出身の在釜山日本領事館員であったが、その中には「金守喜」という朝鮮人の雇教員もいた。

  そして、われわれの関心対象の朝鮮語教材についてであるが、大曲の聞き取りによると、

 

[資料23]「朝鮮語教授といっても交隣須知や隣語大方を骨子として之れに常       談(人事編・売買編・古語編に別たれ紙数僅かに十八枚、隣語大       方の続編の如きもの )と講話(日鮮官吏が交換する種々の挨拶の       練習用として編集せしもの紙数二十一枚)とを添へて、対話と訳       述とを生徒に奨励し、又輪講輪読を行った。而して生徒は崔忠伝・林慶業伝・淑香伝・玉嬌梨・壬辰録等も耽溺し、之れに依って朝鮮の風習の一端を知ると同時に、亦之れを以て翻訳の資料ともなしたのである。」(大曲美太郎、1936年、152頁)

 

のであった。ほぼこの説明で、草梁語学所の朝鮮語教育の実態は伺い知ることが出来よう(小倉進平、1934年、72頁、参照のこと)。

  小倉進平の聞き書きによると、

 

[資料24]「厳原で学習した朝鮮語及び釜山の語学所で学習した朝鮮語は京城       の標準語であった。語学専門以外の対州人にして釜山に来り朝鮮       語を学ぶ者は南鮮地方の方言訛語を話すものが多かったけれど、             語学所の生徒は正しい京城語を学んだ」(小倉進平、1934年、       72~73頁)

 

の朝鮮語を学習したという。その言語は『交隣須知』にみられる形であった。

  一方、評価法に関してであるが、試験は三種類に分かれていた。毎月の「小試験」、六月の「広試」、十二月の「大試験」である。大曲の聞き取りは、この試験について、直接に教壇に立った石橋貞の随筆からの引用を行い、

 

[資料25]「蓋し学語の要は唯背暗誦翻読に在らず、要は彼我辞を通じ、意を       達せしむるに在るが故に、雅言応答流るるが如く練達して阻りな       きを上となす」(石幡貞『朝鮮帰好録』巻五、および大曲美太郎、1936年、152頁)

 

とある。この記録で見逃せないのは、文法訳読法の重視から、コミュニケーション重視への移行を物語っていることである。つまり雨森芳洲が指導した対馬藩の伝統的朝鮮語教育は、この時点で事実上の幕を下ろしたと言える。その理由は、かっては朝鮮語通詞が兼ねていた様々な職務からの解放を意味し、専門分化が進んだからである。要するに、専門的職業人としての外交官が誕生し、活躍する時代が到来していたので、もはや朝鮮語通詞はたんなる通訳・翻訳のみにその業務が限定されてしまったのである。「万国法」に通暁した、対馬出身以外の薩摩・長州などの外交官が維新政府の外交交渉の全面に立ち始めるとともに、対馬藩の朝鮮語通詞の存在はその華やかな舞台の上から消え去る運命にあった(註7)。

 

 

  まとめにかえて

 

  その釜山草梁語学所の運命の日は、東京外国語学校に朝鮮語科が設置された明治13年4月であった。皮肉にも、その日と共に、対馬藩で花開いた雨森芳洲の卓越した朝鮮語教育論をも、我々は忘却の彼方に押しやることとなった。それとともに、芳洲が掲げた「互いに欺かず争わず」という「誠信外交」も、事実上その幕を閉じたばかりでなく、大日本帝国が朝鮮半島への侵略準備を始めるや、かっては「国書改竄」をも成し遂げながら、外交の舞台裏で日朝両国間の紛争を回避してきた対馬藩朝鮮語通詞は、その奮闘の機会さえ奪われてしまった。

 さて、短命に終わった「厳原韓語学所」はいうまでもなく、その次に開設された「釜山草梁韓語学所」のカリキュラムやコース、あるいは教育評価法などにしても、今日に残る断片的な資料からでは、ほとんど具体的な全貌を知りえない。そればかりでなく「釜山草梁韓語学所」に何人入学し、何人修了したかさえも、我々はもはや伺うことを断念しなくてはならない。だからといって、明治維新の初めに設立された二つの朝鮮語通詞養成機関「厳原韓語学所」と「釜山草梁韓語学所」の存在を忘れて良いはずはなく、近い将来に「日本における朝鮮語教育史」の輪郭を公表したいと考える筆者には、時代と時代の結節点に誕生したこれら二つの外国語学校の果たした役割の大きさを強調しておきたい。

 

《第2章註》

 

(1)管見によると、江戸時代に活躍した通詞たちの外国語は、①中国語、②オランダ語、③ポルトガル語、④シャム語、⑤東京語、⑥モフル語、⑦我流陀語、⑧アイヌ語、⑨英語、⑩ロシア語に加えて、⑪朝鮮語である。時代を遡ると、⑫渤海語、⑬新羅語、⑭高句麗語、⑮百済語などの言語にも、それぞれ通詞が存在した。

 

(2)しかしながら江戸時代の長崎において、オランダ語通詞・唐通詞の養成を通して実施された両国語の外国語教育とともに、対馬藩における朝鮮語教育は日本人が編み出した独自の外国語教授法であったことだけは、特筆されてよいはずである。

 

(3)本稿で取り扱うのが釜山市民図書館所蔵「朝鮮事務書」(原本)であるのに対し、具はその複製本である日本外務省外交史料館所蔵のそれを活用していることにも違いがある。したがって残念ながら具の論述の中に、本来は「朝鮮事務書」の別筆の書き込みにあったものが、本文と同様に取り扱われると言う間違いも散見される。

 

(4)長崎県立対馬歴史民俗資料館宗家文庫には、明治期はじめに作成された資料の『韓語稽古規則』(図書記号:宗家文庫 Hー9)がある。作成時期が不明であり、またどこの外国語学校の規則であるのか判明しないが、次に紹介しておく。

 

[資料26]「    諸生於指南役毎日稽古并稽古場二五六之規則

一、五人通詞・御免札之銘々、毎朝指南役方ニテ卯ノ中刻ヨリ巳ノ刻迄稽古仕ル事

一、二五八ノ日、朝卯ノ中刻ヨリ稽古場え出勤仕ル。此ノ日、頭役臨場、面前ニヲイテ稽古通詞取次而已イタシ、五人通詞ハ暗読考ヘ、畢ツテ取次イタス。御免札ハ暗読考而已仕ル事。

  但シ稽古中、雑話底之儀、一切禁止ノ事。

一、韓語集詞読畢候上、御扶持被下方可伺出申事。

一、交隣須知迄読畢候ワゝ、五人通詞被仰付方可伺出申事。

一、隣語大方迄読畢候上ニテ、稽古通詞被仰付方可伺出申事。

一、本通詞ハ大成ノ人ニツキ、順次或人撰ヲ以テ方可伺出申事。

一、指南役ハ一統ノ進退ヨリシテ、諸生教導方専務仕ル事。

    付リ。芸術ヲ論評シ、諸生ヲ勉励シ、日進勧学ヲ旨ト仕ル事。

一、大通詞中ハ是亦一統ノ進退ハ勿論、指南役ニ亜キ諸生引導仕ル事。

    付リ。指南役怠惰、且私斜ク儀有之ニヲイテハ、去私公風儀         ヲ論評シ、公務公導ヲ旨ト仕ル事。

一、稽古相好候者、指南役ニ談ス、指南役ヨリ一統え談判ノ上伺出ル事。

一、年始・盂蘭盆ノ節、通詞中頭役ノ宅々ヲ始メ、先輩ノ家々え互ニ       礼儀ヲ相務ル事。

一、頭役臨場ノ節ハ、茶多葉粉盆差出方、一切御免札ヨリ相勤ル。

 

                      法律

一、右ノ定典ニ違背ノ輩ハ、幾篇モ戒論ヲ加え、夫共相背ニイタツテハ、一統ノ風化行ワレサル事ユエ、無遠慮藩庁え申出、蒙御処置       事。

 

                十月

                                広瀬豊吉

                                浦瀬最助

                                阿比留相助             

 

  上記したように、この校則はどこで施行されたかが不明である。その上に、学校での授業が朝六時頃(卯中刻)から午前九時頃(巳刻)まで実施されたり、また現存しない『韓語集詞』を教材としているなど、今後の綿密な検討が必要である。しかしながら規則中にある、「藩庁」の文字は明治初期の用語であること、また署名者の一人である「浦瀬最助」が明治初期、特に明治五年から十五年にかけて活躍した朝鮮語通詞であることを考えると、一つの推測として、この校則は、明治維新から明治五年までの韓語司で適用されたものであったと考えている

 

(5)厳原韓語学所では、対馬藩時代と同様な公開試験制度や添削制度など、雨森芳洲が作り出した画期的な試験制度が実施されたかどうかは、何の逸話も、何の手掛かりも残されていない。その可能性を完全に否定するわけではないが、否定的な予感を持っている。

 

(6) この時の渡韓の選に漏れた八名が、稽古通詞の増員を求めて、新たに外務省御出仕掛宛に嘆願書を提出している(『朝鮮事務書』第23巻33丁)。

 

(7)なるほど朝鮮語研究の祖である前間恭作は対馬出身であり、対馬中学韓語科卒業生であるが、彼は対馬朝鮮語通詞の最後の命脈を伝えた者であった。

 

 

 <参考文献>

 

荒野泰典「明治維新期の日朝外交体制田『一元化』問題」『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年、245~292頁

泉澄一『雨森芳洲全集(三)……芳洲外交関係資料・書簡集』関西大学出版部、1984年

伊東尾四郎「雨森芳洲遺事」『歴史地理』第16巻第5号、日本歴史地理学会、1910年、28~32頁

上野日出刀「雨森芳洲」『木下順庵・雨森芳洲』(叢書・日本の思想家⑦)明徳出版社、1991年、115~257頁

内野久策「厳原藩の教育」『新対馬島誌』新対馬島誌編集委員会、1964年、785頁

大曲美太郎「釜山に於ける日本の朝鮮語学所と『交隣須知』」『ドルメン』1935年3月号

大曲美太郎「釜山港日本居留地に於ける朝鮮語教育」『青丘学叢』第24号、1936年

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関西大学「日中文化交流班」歴史班「雨森芳洲文庫目録稿」『関西大学東西学術研究所紀要』第10号、1977年、45~69頁

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木村直也「幕末の日朝関係と征韓論」『歴史評論』第516号、1993年、26~37頁

具良根明治日本の韓語教育と韓国への留学生派遣」『韓』5-121976年

田川孝三「対馬通詞小田幾五郎と其の著書」『書物同好会冊子』第11号、1940年(『書物同好会会報付冊子』龍渓書舎、1978年に復刻)

田代和生『近世日朝通交貿易史の研究』創文社、1981年

田代和生「対馬藩の朝鮮語通詞」『史学』60ー4、1991年

田代和生「日朝交流と倭館」『日本の近世』第6巻「情報と交通」(丸山雍成編)、田代和生「渡海訳官使の密貿易ーー対馬藩『潜商議論』の背景」『朝鮮学報』第150輯、1994年、29~84頁

田代和生「対馬藩の朝鮮輸出銅調達について--幕府の銅統制と日朝銅貿        易の衰退」『朝鮮学報』第66輯、朝鮮学会、1973年

田保橋潔「明治維新期に於ける対馬藩財政及び藩債に就いて」『近代日鮮関係の研究』下、朝鮮総督府、1940年

中央公論社、1992年、95~132頁

鶴田 啓「天保期の対馬藩財政と日朝貿易」『論集きんせい』第八、1983年

鄭 光『薩摩苗代川伝来の朝鮮歌謡』(私家版)中村印刷、1990年

中村栄孝『日鮮関係史の研究』(下)吉川弘文館、1969年

浜田敦『朝鮮資料による日本語研究』岩波書店、1970年

浜田敦『続朝鮮資料による日本語研究』臨川書店、1983年

日野義彦「対馬に於ける隣国語学習について」『対馬風土記』第20号、1984年

松原孝俊・趙眞璟「雨森芳洲と対馬藩「韓語司」の設立経緯をめぐって」『日本論集』第9号、韓国・中央大学校日本学研究所、1997年2月、31-55頁

松原孝俊・趙眞璟「雨森芳洲と対馬藩「韓語司」における学校運営をめぐって」『比較社会文化』第3巻、九州大学大学院比較社会文化研究科、1997年3月、149-159頁

松原孝俊・趙眞璟「雨森芳洲と対馬藩『韓語司』での教育評価について」『言語科学』第32号、九州大学言語文化部、1997年3月、105-122頁

松原孝俊・趙眞璟「厳原語学所と釜山草梁語学所の設立と廃止をめぐって」『言文論究』第8号、九州大学言語文化部、1997年3月、47-59頁

三ケ尻浩「朝鮮の訳学書に用ひられた国語の検討」『朝鮮』第244号、朝鮮総督府、1935年

三宅英利『近世日朝関係史の研究』文献出版、1976年

宮本又次「対馬藩の商業と生産方」『九州文化史研究所紀要』第1号、1951年

森晋一郎「近世後期対馬藩日朝貿易の展開--安永年間の私貿易を中心と        して」『史学』第56巻第3号、1986年

森銑三「雨森芳洲のことども」『書物同好会報』第8号、1940年7月号、1~7頁

森山恒雄「対馬藩」『長崎県史』藩政編、長崎県、1973年

森山恒雄「不安定な享保期の藩政」『長崎県史』藩政編「対馬藩」、第5章「藩財政の危機と再建政策」・第1節、1973年、1020~1056頁

安田章『朝鮮資料と中世国語』笠間書院、1980年

安田章『外国資料と中世国語』三省堂、1990年

李康民「薩摩苗代川に伝わる『漂民対話』について」『国語国文』第59巻第9号(673号)、1990年

李康民「対馬宗家文庫所載の『物名』について」『朝鮮学報』第148輯、1993年

李康民「朝鮮資料の一系譜--苗代川本の背景」『日本学報』第36号、韓国日本学会、1996年

李進煕「雨森芳洲の朝鮮語」『季刊三千里』第11号、1977年秋、

安田章『全一道人』京都大学国文学会、1964年、3~17頁

米谷均「対馬藩の朝鮮語通詞と雨森芳洲」『海事史研究』48、1991年

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