「朝鮮使尾見氏筆談写」(あらい かねやす・明野郷土史会会長/きりはら みつあき・教員)両先生の寄稿文。
『はなさきやま』第 2 8 3 号 収載
(あらい かねやす・明野郷土史会会長/きりはら みつあき・教員)両先生の寄稿文。
詳細な紹介が期待される。
大発見! 筑西市内で、「 筑西市内で、「 筑西市内で、「朝鮮通信使筆談」記録見つかる 朝鮮通信使筆談」記録見つかる
新井包保・桐原光明
筑西市村田の尾見又一氏が所蔵する「朝鮮使尾見氏筆談写」という古文書がある。
第6代将軍家宣いえのぶ時代、側用人間部ま な べ 詮房あきふさ、侍講じ こ う 新井あ ら い 白石はくせきが幕政改革を行った正徳元年(1711)、
浜松藩主松平伯耆ほうきの
守かみ(前名豊後ぶんごの
守かみ)の家臣で570石取りの尾見与兵衛が残した貴重な記録で
ある。
この古文書は「浜松市史」や朝鮮通信使関係の研究書にも言及されていない未知の史料である。
稀少価値のある大発見である。
これは明野郷土史会会長新井包かね
保やす氏が『尾見濱五郎日記』解読中、周辺調査により、偶然に村
田の尾見又一氏と、出会ったことに由来する。
遠く離れた江戸時代の浜松での出来事に村田の尾見氏が関わっていたことは奇跡に近い。江戸
時代は全国移動が制限され、鎖国の時代である。どうしてそんなことができたのかと素朴な疑問が
わく。
その解答は、尾見家の前記文書中にある。それに依れば、尾見与兵衛が「常州村田之産」(茨城
県旧明野町村田生まれ)と記されている。
朝鮮国との交流は、1404年室町時代の足利義満から始まり、慶長12年(1607)徳川家康が改
めて、交流を回復し、1867年まで交隣友好関係が続いた。ざっと460年、江戸時代からは200年
の友好誠信外交であった。朝鮮通信使は将軍の代替わり毎に来た。正徳元年には、正使趙泰億
(チョテオク)、副使任守幹(イムスガン)、従事官李邦彦(イバンオン)、製述官李礥(イヒョン)、書記
洪舜衍(ホンスヒョウン)、厳漢重(オムハンジュン)、南聖重(ナムソンジュン)など一行500名が第
6代将軍家宣いえのぶの 襲 職 しゅうしょく祝賀のために江戸へやって来た。釜山、対馬、藍島、赤間関、牛窓、兵庫、
大阪、京都、名古屋、浜松、小田原、神奈川、江戸まで3ヶ月かけた。帰国するのに、6ヶ月を要す
る。幕府や沿道の各藩など、日本側は多大の費用をかけ、宿舎を用意し、食事を饗応した。沿道
には黒山の人だかり、宿舎にまで押しかけ、文化交流をなした。その一端は筆談に残っている。
まさか、浜松藩の筆談の記録が残っていようなどとは夢想だにしない。このたび、その古文書が
明らかになり、解読もなされた。原文は旧字体の漢文である。それを、書き下し文に改め、一部分を
紹介し朝鮮使との交流の一端をかいま見よう。
浜松城主松平伯耆ほうきの
守かみ家臣尾見与兵衛、570石、常州村田の産なり。饗応のため駅舎に至り、
この筆談を写す。
正徳元年辛卯十月、朝鮮使浜松に次やどり、李学士の駅館に至る。
学士が問う。「この家の主人か」と。答う。「家士にあらず、浜松大守の仕官なり」と。
問う。「大守は何人か」と。答う。「従四位徒待兼伯耆ほうきの守かみ松平氏藤原宗俊なり」と。
問う。「大主の封地はいずこか」と。答う。「遠州備州の内、数郡、7万石、浜松の大守となす」と。
問う。「貴客の姓名はいかん」と。答う。「僕の姓は小野、氏は尾見、名は与兵衛、字は正数、
交孚、知止軒と称す。常陽の産なり。」 以下、略
詳細にわたる「朝鮮使尾見氏筆談写」の解読、解説は後日稿を改めて発表する予定である。
(あらい かねやす・明野郷土史会会長/きりはら みつあき・教員)
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