朝鮮通詞養成

1、『通詞仕立帳』

    「朝鮮通詞御仕立被成候ニ付雨森東五郎ヨリ□□候存寄書之覚」

1)  朝鮮通詞養成の動機

  朝鮮通詞養成の必要性を痛感する雨森芳州によって、次のように時代の推移の大略が分析されている。

[資料  ]「朝鮮通詞役之儀ハ御隣交之御役ニ付たる切要之役人ニ候処、唯今       にハ功者之者共皆々老人ニ罷成、遠からぬ内ニ必至と御用相支へ       可申様ニ相見へ候。是而已ニ而も無御座、近年時勢イよろしから       す、馬乗りニ罷渡り候町人年々滅し候得ハ、自分より朝鮮言葉稽       古仕候もの無之。重而御交易之方ニ可被召す仕町人も有之間舗様       に相見へ、是亦大切之御事ニ存候故、何とそ府内ニ罷有候町人と       も朝鮮言葉はげみ候様に有之度事ニ存候。
              享保21年8月15日 」(P281)
とあり、対馬藩現通詞の老齢化に加えて、自ら進んで朝鮮語学習に励む者がいなくなった現状を嘆いている。この文書の中の「近年時勢イよろしからす」は、漠然とした表現となっているが、この具体的な内容については後述することとしたい。
さらに芳州は別の箇所では、次の三つの理由を挙げている。
[資料  ] 「古館之時分ハ御国之人数多釜山浦ヘ罷越、其外館ニ近候而日本人       立廻り候村里如何ほとも有之、又ハ館ニ入来候朝鮮人も不少事ニ       而、平生朝鮮人と入雑リ居候故、人々自然と朝鮮言葉を覚候様ニ       罷成、其上自分商売のためニも宜ク、又ハ御代官ニ被召遣候端ニ       も成候。此三ヶ条之訳有之候故、器用ニ生付かしこく候共ハ自分       より言葉稽古ニ精出し~~」(P301)
と記し、古館時代(延宝6年<1678>まで)まず第一に倭館からの自由な外出が許可されていたこと、第二に倭館への朝鮮人の立ち入りも自由に認められていたこと、第三に通詞から「御代官」への登用も実施されていたことなどから、朝鮮言葉を「自分より言葉稽古ニ精出し」ていたという。要するに、古館時代における自由な朝鮮人との交際によって、学校での学習なくして、「人々自然と朝鮮言葉を覚候様」であった。その結果、 「大庭弥次兵衛・橋辺判五郎ことき朝鮮人ニ聞まかひ候ほとの上手出来仕り其外ニも大違無之哉と申ほとの者ハ如何ほとも有之候故、稽古被仰付候ニも不及」(P310)とあるような、ネイティブ・スピーカーと大差のないほどの流暢な朝鮮語の使い手も出現したとある。この大庭弥次兵衛・橋辺判五郎の二名は、おそらくバイリンガルであったに違いない。
  芳州の言によると、新館時代(つまり釜山草梁項への移転後)に至っても、しばらくの間は古館時代と同様に朝鮮語の達人も登場しており、対馬藩が通詞の確保に困窮すると言った事態は生じていない。
[資料    ]「新館ニ引移り五拾五年前、天和信使など有之候以後ハ、前々より             上手と申候者共多ハ十人代官ニ御取被成、其外之馬乗にはさつはり             と通し可申者も段々少ク成候故、通詞役御立被成、本役には江口金             七・加瀬伝五郎・中山加兵衛・諸岡助左衛門・山城弥左衛門なと、             稽古通詞には小田四郎兵衛・長留藤右衛門・金子九右衛門・栗谷瀬             兵衛なと段々被仰付候。右之内助左衛門なとをはしめ皆々才覚有之             者共ニ候而、宜ク御用をも取捌、相支候事も無之候へとも、言葉一             通りを申見候時ハ金七・伝五郎なとには及不申候。是ハ朝鮮人ニ若             輩より立ち雑リ候義違候故ニ御座候」
とあるだけで、「稽古被仰付候ニも不及」は藩中の共通認識であり、あえて対馬藩が学校での組織的教育の必要性を痛感することは皆無であったはずである。しかしいわば前代の遺産を食いつぶす形で、残りわずかな朝鮮語を知る者たちを見つけ出しては通詞に任命し、藩の御用を努めさせていたと考えても良く、誰も人材難を予見することは困難であったようである。
  しかしながら通詞不足問題は、対馬藩において次第に深刻さを増しつつあり、ついに
[資料     ]「(朝鮮語通詞の)古キ者ハ或ハ年寄り、或ハ相果、新規ニハ出来               不仕候故、直ニ本役ニ御取可被成せとの言葉申候者ハ大形絶へ申               候」(P302)
[資料  ] 「只今ニ成候而ハ町中御吟味被成候而も暇も無之と申、町中之内        言葉も宜ク才覚も有之候而、直ニ本役ニ可被仰付と思召候者ハ、        誠ニ一人も有之間舗と存候」(P302)
の最悪の事態にまで陥ったという。
  そうした「兎角遠からぬ内ニ通詞断絶可仕と存候」(P302)の危機的状態にまで至らせた理由として、芳州の説明の言によると、日朝貿易の衰退があるという。前述した「近年時勢イよろしからす」とは、まさにこの釜山での日朝貿易の低迷のことであった。
[資料   ]「然処ニ三拾年前後よりハ館内段々衰微いたし、商売として罷渡        候者前廉より年増ニ減し、言葉稽古ニ精出候者甚少成候而」        (P302)     
と芳州は分析している。この指摘の中では、通詞が専門職として確立していない対馬藩にあって、本来は商人たちが通詞を兼任するという独自のスタイルであったために、日朝貿易が不振に陥った結果、積極的に朝鮮語を学習する商人たちのメリットが無くなったことにより、通詞の人数が不足するような状態を招来したという。
  さらに芳州は、次のような対馬藩における「通詞」の不安定な制度上の位置そのものにも、根本的な問題があったという。そのために通詞を勤めたいと願う者も少なくなるし、しかも朝鮮語の学習意欲をそぐ要因ともなったという。この点に関して、まず通詞の一代限りの奉公制度を、芳州は取り上げている。
[資料   ]「一代通詞相勤別而御用ニ立候者、年罷寄御役交代仕候か又ハ相        果候時、其子之義、上より御構不被成と申事ニ成候而ハ恩義も        薄ク相聞ヘ、向後通詞職望候者も無之筈ニ候故、親ニ対し其子        ニ御扶持被成下候義、誠以難有御良法ニ而御座候」(P304)
  江戸時代にあって封建制度の根幹である世襲制度が、通詞職のみその例外に属するものであったとしたならば、不安定な職を求める者が少ないのも当然であった。好んで一家を路頭に迷わせる愚を犯す者などいなかったのである。芳州によると、通詞の年俸の少なさも、通詞職に対する魅力を半減したはずであるという。
[資料   ]「只今之通詞其時ニ引くらへ見申候へは、御扶持ハ不相替候へと        も入方ハ十分之一ニも及不申、第一妻子を育候手段無之体ニ御        座候ヘハ、増而衣服ニても相応ニ可仕様無之自然と朝鮮人も見        こなし候様ニ罷成、此通ニ而ハ中々通詞職相努り不申事ニ御座        候故、少ニても志有之候者ハ願不申筈之事勿論ニ御座候。是又        向後通詞職断絶仕候一端ニ而御座候」(P304ー305)
とある。





2)町人たちへの勧誘文

[資料   ] 「右御書付之内、御断り申候ものハ被差免候と有之候者、此度御        仕試偏ニ通詞御仕立之主意ニ候得共、御国町人之儀者町代官、        別代官、長崎手代役又者信使之時被召遣候ニ、朝鮮言葉不堪能        ニ候而者御用ニ相立不申候故、惣六拾人中之子共者不残稽古い        たし置候様ニ思召候処、若茂右稽古之内ニ入候而者、重而通詞        被仰付候節御断り難申可有之哉と、後日をはかり稽古不為仕人        茂可有之哉と思召候に付、御断り申候者ハ可被差免との御事ニ        候。」(p284)
との前提の上で、さらに
「若輩なる内ニ丸三年致稽古居候ハハ失念茂無之、重而朝鮮江罷渡り自分ニ稽古いたし候時之可為大益と存事候間ニ、此旨能能可被申聞候。」(P294)
との親切なアドバイスをしている。しかも町人にとっては必須な算術や文字の読み書きなど、「手習い師匠」のもとでの個人レッスンは重要であったために、その「手習い師匠」への配慮や、また両方での学習が子供に対する二重の負担になる恐れを抱く親たちにも、その不安を押さえる ために、
[資料]「唯今手習師匠ニ附置毎日師匠方ヘかよハせ候付、朝鮮言葉稽古場ニ出候而者右妨ケ候と存候事も可有之哉。」(P284)
[資料]「朝鮮言葉稽古場之方ハ毎日暫時之事たるへく候間、手習ニかよひ候支ニ者罷成間敷候。夫ともに相支候訳も候ハハ、追而者朝鮮言葉稽古之方ハ八ツ迄ニ被仰付事も可有之候。」(P284)
との通達も出され、手習い師匠宅での学習をこれからも差し支えないと認めつつ、熱心に六十人町人への働きかけがなされている。

3)教師役

  この朝鮮語の教師役に任命されたのは、仁位文吉であった。享保21年8月23日のことである。

[資料]  「                一ヶ月白米壱俵宛        師匠
                    二季ニ百疋宛            仁位文吉

      右者町六十人之子共朝鮮言葉稽古被仰付候故、三カ年御雇被成師匠被仰付  候。」(P286)

  仁位文吉に関しては、『類聚書抜』第9に享保10年3月11日付けで「稽古通詞」に任命されている。享保18年5月17日付けで「本通詞」に任命されている。






  この日に、同時に、稽古通詞の津和崎徳右衛門が今の言葉では「ティーチング・アシスタント」に任命されて、教授である仁位文吉の教育補助役を仰せ付けられている。
 [資料] 「                二季ニ弐百疋宛    津和崎徳右衛門
      右者朝鮮言葉稽古場ニ毎日罷出、若輩之者之内習ひ候言葉を自身ニ書付得   不申ものニ、一々書付渡候様ニ可致之旨可被申渡候。」(P287)

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