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二宮で触れ合った朝鮮通信使

数ヶ月前、神奈川県二宮町の「徳富蘇峰記念館」を尋ねた折に、二宮町立図書館に立ち寄った。 その折に、偶然に目にとまったのが、志沢家古文書を読解し、上に写真、下に翻刻字を付した『延享5年朝鮮通信使来聘覚書』。「二宮歴史研究会」(代表:宮戸理恵)12名による92頁の力編である。 興味深いのは、朝鮮通信使の第10回延享度に相州山西村を通過した朝鮮人に関するスケッチなどである。「初めておめにかかった」「よい日よりでごさる」「あたかた」「水水」「馬子馬子」「よいおんな」「むすめむすめ」「こなたいろ」「さらばさらば」など、小田原宿で朝鮮使節一行が熱心に日本語を学んでいたという。それにしても、山西村には延享4年4月29日に寺社奉行秋元摂津守ほか6名の連名によるお触れ書が届いてから、約1年2ヶ月間、山西村中の人々総出で準備に取りかかっている。この文書は「江戸上がり」だけの記録であるが、当然に「江戸下り」の古文書があってよいだけに、今後その発見に努めたい。ところで山西村には10回の朝鮮通信使パレードが経過しただけではなく、琉球人パレードが18回、オランダ商館長パレードが約110回通過している。そればかりではなく、日本各地から東海道を経由する参勤交代の大名行列は無数であった。

第10回 寛延時の朝鮮通信使が朝鮮に持ち帰った日本の文化情報

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第10回 1748年( 寛延 元年) 英祖 24年 徳川家重 洪啓禧 朝鮮通信使 家重襲封祝賀 英祖代、朝鮮通信使が持ち帰った日本の文化情報は、朝鮮人の自惚れを打ちのめすものであった、その高い思想レベル、深い儒教理解、蘐園派の領袖・荻生徂徠の古文辞学、多方面にわたる日本人の文筆活動に接して、その驚きが認められる。一言で言えば、日本人文化理解の高さに侮れないと感じた。 かって、一部の在日朝鮮人たちによる「朝鮮人は一流、日本人は三流」といった論調で、朝鮮人の自尊心を満足させた説明が横行した。それを鵜呑みにした日本人たちの一部は、詳細な分析や日韓の文献を博捜することもなく、無批判に愚かな宣伝文を垂れ流した。 もはやその浅薄な理解による朝鮮通信使研究の段階にはない。